竜の王国シリーズ

後日談

守護の女神のその後


 あたりに響いた鳥の不気味な羽ばたきに、里珠は思わず首を竦めた。恐る恐る様子を伺うと、周囲には静けさが広がるばかり。感じられるのは、空気が粘つくような不穏な気配のみ。
 止めていた息を勢いよく吐き出して、里珠は手に持っていた長槍を構えなおした。昔からずっと愛用していたものだ。どんなときでも里珠を支える柱になるもの。
 服の胸元を握り締めて、里珠は後ろを振り返った。辺りを包む濃い緑を纏う木々の向こう、はるか遠くの空に飛竜と思しき影が見える。布越しに手に伝わってくる熱を確かめて、里珠は前を向いて歩き出した。

 ここは、竜の王国、東の領地に広がる森である。
 その森の只中を、長槍一本を持った軽装のまま、里珠は一人で歩いていた。
 木々に隠れたあちらこちらに嫌な気配がいくつもある。それが魔物の存在を示すものだと、里珠は最近になってようやく理解するようになったのだ。
(あっちに、一体。……右側にはたぶん二体。後ろからも気配が近付いて来ている気がする)

 背後から響く咆哮に、里珠は後ろへ向き直る。木々の合間をかけてくる獣。六本足の犬。
 真っ直ぐ里珠へ向かって突っ込んでくる魔物を睨みつけ、里珠は長槍の持ち方を変えた。素早く魔物を避け、横合いから槍の横手に飛び出している刃で胴体を切り裂く。やかましいほどの悲鳴が上がり、犬の姿をした魔物は地面に伏して悶絶した。

 上手くいったと、里珠は心の中で安堵する。伊達に稽古は積んでいないつもりだ。もっとも本来の騎士たちには及ぶべくもないと思うけれど。
「まだまだ大きいのが出てくるわよね」
 こんな小物だけでは駄目だ。本来の目的通り、できるだけ多く、成長した魔物を引っ張り出さなければ。
(やっぱり、隠していては駄目なのね……これだけでも充分な気配がするとは言っていたけど)
 あるいは進化途中である低位の魔物たちではこの気配を感じ取れないのかもしれなかった。
 ふうとため息をついて里珠は上着代わりにしていたマントの紐を解いた。瞬間、できれば怒らせたくない人の怒り顔がちらついたけれど、仕方ない。他の人たちに危害が及ばないように根回しをしておかなければ。
 上着の下は、襟元が大きく開いた服装だった。首ががら空きで、守りにも向いていない形態だ。その里珠の首元、鎖骨の中央に、指の爪ほどの大きさの宝玉が煌めいていた。透明で澄んだ光を放っている。

 地べたに伏せていた血だらけの犬の魔物の視線が里珠の首元へ向かった。さすがにここまで露わになれば気付くらしい。おそらくは竜の気配に引かれてきたのだろうが、里珠の正体にまでは気付かなかったのだろう。
 木々の向こうで気配が動く。見えない影に隠れて里珠を取り囲む魔物の気配は、既に両手を超えていた。うだうだしている間に竜の気配に気付いた魔物たちが集まってきたのだろう。
 竜珠の娘。その宝珠は、竜の力を秘めた、力の塊。そして、今ここにいるのは娘だけで、護りとなる者はいない。槍など持ってはいるが、ひしめく魔物の数に対抗できるものか。
 そう考えたのだろうか、木々の影から魔物たちが一斉に姿を現し、ゆっくり里珠を取り囲んでいく。犬、馬、巨大な猫……どこか見慣れた動物たちの姿をしているが、目がひとつだったり角があったり足が多かったりと、明らかに異形の姿ばかりが並ぶ。
 さあどうしようかと、里珠は口元に笑みを浮かべた。ぐるりと周りを見渡して、一番包囲網の薄いところへ目を止める。

「里珠様、お伏せください!」
 声と同時に里珠の右手から矢が降り注いできた。それを避けるように里珠はしゃがみ、狙いをつけていた包囲網のゆるい部分へと槍を構えて突っ込んだ。
 周囲の空気をかき乱した突然の攻撃に混乱している魔物の間を潜り抜け、ついでに一体を昏倒させて、里珠は包囲網を突破する。
 その頃には矢が飛んできた方向から幾人もの騎士の姿をした青年たちが勢いよく飛び出してきて、魔物たちへ向かっていく。見上げれば、いつの間にか数体の飛竜が空を舞っている。

 騎士の一人が里珠の元へ近づいてきた。彼らは竜の王国の正規兵。竜族の血を引く魔物討伐の精鋭だ。
「里珠様、後ろへ下がっていてください」
「わかりました。お願いします」
 青年の言葉に頷き、里珠は身を翻して戦いの場から離れる。 
 腕と頬にちりっと痛みが走り、確かめるとかすかに切り傷ができていた。魔物の爪でも引っかかったのかもしれない。「顔に傷が」と母に嘆かれることはないが、ある意味もっと悪い相手がいる。傷さえ残さず強制的に治療されるとしても、あまり繰り返すとよい顔をしなくなるだろう。
 後は迎えが来るまで、後方で待機するだけだ。もちろん魔物は他にもいるだろうから、それに対して警戒は怠らない。
 魔物たちと騎士たちの戦いを見ながら、里珠は感嘆の息を吐く。さすが精鋭部隊。その腕前は惚れ惚れするほどだ。男女の差はあれ、仮にも里珠もその騎士の身分を持つ者に鍛えられた身。とても彼らのようには動けないだろうと実感する。
 だからこそ、無理に自分も魔物と戦おうとはしないのだ。

 それに。
 思い出したように里珠は魔物たちが集まる戦いの場所から距離をとった。できるだけ離れなければならない。そうでなければ、自分の役目が果たせない。
 彼らでも及ばない、もっと強い人を里珠は知っている。魔物たちを瞬殺できる、『龍神』――魔物の天敵と呼ばれる人。彼の役に立ちたい、と思う。けれど足手まといにもなりたくない。
 里珠の耳に、遠くから魔物の咆哮が届く。徐々に里珠のいるところへと近付いてくるそれを捉えて、これがきっと今回の目標である魔物だと見当をつける。
 声の方向を見つめていると、やがて木々の上から飛び出す頭が見える。
 ――あれだ。
 里珠がすることは、ひきつけて逃げること。
 背後に魔物の気配がしないことを確かめ、里珠は庇うように長槍を構えると、一歩後方へ下がった。

 一瞬太陽が遮られ、里珠は空を見上げる。
 そこに映るのは、巨大な飛竜の影。翼の音も勇ましく舞い降りてきた飛竜は、木々の間を抜けてきた巨大な魔物と里珠との間を遮るように回りこむ。
 飛竜の背に乗っていた青年が、里珠を見て息を呑んだ。その表情が歪む。何に気付いたか里珠にはわかったが、あえて何も言わずに傍に駆け寄った。
 伸ばされた手の助けを借りて飛竜の背へ上がる。入れ替わるように青年が地上へ降り、里珠を見た。
「後は空で控えてくれ、里珠」
「はい、獅苑様」
 素直に返事をすると、青年――獅苑はわずかに表情を緩める。獅苑に背を叩かれた飛竜は里珠だけを乗せたまま、空へ舞い上がった。
 里珠は手綱をつかんで鞍へ跨っているだけだ。飛竜の扱いは知らない。だが獅苑の意図を汲んだ飛竜は里珠が乗りやすいように動きを調整し、魔物の攻撃が及ばないよう空を旋回した。

 地上には、数多の魔物と戦う騎士たちと、巨大な魔物と向き合う獅苑が見える。それを見守りながら、里珠は頬の傷を確かめた。もう血は出ていないようだ。たいしたことはなさそうだが、きっと誰よりも先に『癒しの光』を受ける羽目になるだろうと里珠はため息を吐いた。
 獅苑が落ち着かないだろうし、何より誰一人それに異論を唱えないに違いない。
『龍神』である獅苑が戦いに参加すれば、もう勝負はほぼついたも同然だ。里珠が見つめる中、獅苑はあっさり巨体の魔物を倒し、残る魔物も騎士たちに制圧されつつあった。



 他に残る魔物がいないか捜索が行われたが、ついに姿は見つからなかった。おそらくはすべて里珠の持つ竜珠に見事に誘き出されてきたのだろう。
 依頼のあった魔物討伐の完了。領主へと報告が行われ、獅苑に呼ばれた飛竜は里珠を乗せたままようやく森へ降り立った。
 傷を負ったが他には何事もない様子の里珠を見て、獅苑はようやく安堵したようだ。
「お疲れ様です、獅苑様」
 労いの言葉をかけると、獅苑はかすかに笑い、その手を里珠の頬へと伸ばした。
「大丈夫か、これは」
 傷のことを言っている。里珠はなんでもないと頷き、その返答を聞いた獅苑は胸を撫で下ろした。すぐに応急処置がなされ、里珠の頬と腕には薬が塗りこまれる。かすかに染み込むそれに里珠は眉をしかめた。



 騎士たちは飛竜で隊列を作り城へと帰還するべく空を飛んでいた。
 その殿を行くのが獅苑だ。その背にしがみ付きながら、里珠は獅苑の声を聞いた。
「……あまり里珠を連れ出したくはないんだが」
 ため息のように紡がれた、言葉。できればそうしたくはない。けれどそうせざるを得ないこともわかっている。

 竜珠は魔物に狙われる。それはずっと前からわかっていた事実だ。だからこそ、魔物を一掃するのにこんな都合のいい存在はいない。魔物のほうから竜珠を狙って姿を現すのだから。
 武術を修め実際に魔物退治をしていて、身を護る術を持つ里珠は格好の存在だったのだ。
 今まで竜珠を受けた娘たちは、そんな力を持っていなかった。それどころか魔物に目を付けられれば悲惨に追い込まれることは現竜王妃で証明されていた。だからこそ、誰もそんなことを考え付かなかったのだ。
 人々は縋るように『守護の女神』にそれを求めた。里珠はそれをごく自然に受け入れた。そして獅苑は苦渋の表情でそれを認めたのだ。

 どうしたものかと里珠は考え、わずかに獅苑にしがみ付く腕に力を込める。
「獅苑様、私、この間悠那(ゆうな)様とお茶会をしたんです」
「……?」
 唐突な言葉に意図がつかめなかったのだろう、獅苑は首を捻った。その動作の幼さに笑い、里珠は言葉を続ける。
「悠那様に羨ましいと言われました」
「羨ましい?」
 悠那、というのは現竜王妃。つまりは竜珠を受けたことで魔物に狙われた半生を送った女性である。里珠にとっては義理の姉、竜珠を受けるという同じ境遇にある人だ。
 この間の悠那の言葉を里珠は思い出していた。
『戦いのとき傍にいて役に立てるのが羨ましいわ。私はここで待っていて、迎えることしかできないのだもの』
「はい。こうして一緒に戦いについていけるのが羨ましいと」
 魔物と戦う術がある。身を護る術がある。自分の力を知っているから、危険であれば退くことができる。

「……里珠は、どう思うんだ」
「私ですか?」
「自分では、どう思う?」
 獅苑の問いかけに、里珠は静かに笑って彼の背中に身体を預けた。
 里珠の立場に羨望を訴えた直後に、だが義姉はきっぱり言ったのだ。
 ――でも、こんな自分だから、戦うことを知らない、癒すことしかできない自分だから、竜王と出会えたのだ、と。
 その想いは、里珠とまったく同じだった。傷を癒すことのできる悠那を羨望したこともあるけれど、魔物退治ができる自分だから、だからこそ獅苑と逢えたのだ。そうでなかったら、巡り逢うことすらできなかった。
「私は……武器を使うことしか知らないから。それで獅苑様の役に立てることがあるなら、それをしていたいです」
 傍にいて、戦う姿を見ることのできる自分は、きっと幸せなのだと里珠は思う。思うまま気持ちを口にすると、獅苑は沈黙した。不思議に思い呼びかけても返事をしない。
 二人の乗る飛竜の眼下に王都の街並みが広がった。飛竜たちは悠々とその上を飛び、真っ直ぐ城へと向かっていく。
 しばらくして、困ったように頭をかいた獅苑は、長いため息をついた。
「何があっても、木の上に姿を見つけたときよりは、ずっとましだな」
 いつのことを言っているのか思い当たり、里珠は思わず笑う。魔物に狙われたときのことを言っているのだ。
「はい。今は一緒にいるから、そんな無茶はしません」
 竜珠を抱える大切な存在。今は、そこまで追い込まれてしまう前に、獅苑でなくても誰かの手が伸ばされるだろう。自分の立場を知っている里珠も、そんな状況になるような危険は冒さない。
「そうだな。離れて待たせるよりは、こうして傍で護れるほうがいい」
 姿の見えない不安よりも、ずっといい。
 獅苑の身体に回していた里珠の手に、獅苑の手が重ねられた。
 力強いその体温を感じて、里珠は甘えるように腕に力を込める。
 ぬくもりは、こんなに傍にある。
 ここが、里珠の居場所なのだ――これから先もずっと。


「……とにかく、王城に戻ったら『癒しの光』を受けてきてくれ」
「大した傷ではないですよ。もっとひどい人たちがいるでしょう?」
「駄目だ。傷なんて一切残すな。母君と約束してきた俺の立場がない」
「あのとき母とその話をしてたんですか……!?」


2008.3.8

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