竜の王国シリーズ

番外編

昼下がりの逃亡


 とある快晴の昼下がり。竜の王国の王城の中庭では、杖を打ち合わせる音が響いていた。
 王弟・獅苑の竜珠、里珠が杖術の稽古中である。


 突き出した杖は難なく阻まれる。素早く弾き、構え直してもう一度やっても同じ。上段、中段のどこへ攻撃しても易々と受け止められるのは、まだまだ未熟という証拠だろう。
 もう一撃、と繰り出した杖は勢いよく止められ、相手から加わる力が里珠の両腕を圧迫した。
「里珠様、今日はそろそろ終わりにしましょう」
 打ち合わせた向こうから兵士がそう言い、里珠は我に返る。
「はい」
 両手で杖を持ち直し、礼の姿勢をとって、里珠は深々とお辞儀をした。
「ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。里珠様は稽古に熱心でいらっしゃるのですね。毎日欠かしたことがない」
 感心する兵士の言葉に、里珠はにっこり頷く。
「これが、私の取り柄ですから」
 それに、使わずにいると身体はすぐに武器の振るい方を忘れるのだ。
 王族の妃になるような娘が剣を持つなど眉をひそめられるだろうが、この竜の王国ではそういったことはない。里珠が『龍神』の竜珠であること、魔物退治に重要な役割を果たせること、何より魔物退治をきっかけに獅苑が見だしたこと、といった理由から特に何か言われることはなかった。
 それに、魔物退治についていき獅苑の役に立つためには、身を護れることが最低条件なのだ。それができなくなったら、ただここで護られているしかなくなる。それだけは嫌だ、と思う。
 木にかけておいた布で汗を拭い、里珠は空を見上げる。
 一休みしたら、今度は裏手の方で素振りでもしていようか、と思いついた。
 いつもの場所で。兵士達も獅苑も、里珠がそこで一人で鍛錬していることを知っているから、城の中に姿がなければそこにいると思うだろう。
 部屋においてある長槍を取りに戻ってから、里珠はいつもの場所へと向かった。


 先ほどの兵士との稽古を思い返しながら、里珠は槍を振るってみる。大の男とは力が違いすぎることを知っているし、魔物とならその差は歴然。魔物に襲われても押し勝つことは無理で、だからこそ不意を討つ術を身につけておかなければならない、というのはここ数年の魔物退治で実感したことだ。
 幸いにも今は魔物の気配を感じることができる。相手に不意を突かれる、ということは少なくなった。
 一度槍の柄を地面について、里珠は一息入れる。

 ふと、竜珠が共鳴したような気がして、里珠は顔を上げ、そして固まった。
「……え」
 見れば、城壁を越えようとしている女性の姿がある。
「ゆ、悠那様!?」
 それは間違いなく現国王妃で里珠の義姉、悠那だった。特徴とも言える艶やかな栗色の髪が煌めいている。
 なんでそんなところにいるのかと慌てて里珠が呼びかけると、振り返った彼女は悪戯めいた笑顔を見せて悪びれた様子もなく言った。
「あら、見つかってしまったわね」
「……どこかに行かれるのですか?」
 裏口どころか人目を忍ぶように、しかも城壁を乗り越えて。明らかに隠れて何かしようとしているとしか見えない。
「ええ、ちょっとそこまで、すぐ戻ってくるから」
「あの、……お一人で、ですか」

 供をつけるならこんなところから出る必要は端からない。そして城中の人間が彼女をたった一人でどこかへ出かけさせるわけがない。現に里珠にも一人で城から出ないように獅苑からきついお達しが下っている。自由奔放に出歩いてきた里珠にとって不満がないわけでもなかったが、その理由も分かるから里珠はきちんと従う。
 それはともかく、一人で出歩いてはいけない、ということは彼女にも適応されるはずだ。
 城下街の人間が長の一族の妻、竜珠を持つ女性をどうにかするということはない。だが残念なことに竜の王国を狙って誰かが『魔物の巣』を送り込んでいるという疑惑もあるし、安全とは言い切れない――という獅苑の言葉を里珠は思い返した。
 身を護る術を持つ里珠でさえそうなのだ。悠那は言うに及ばず、しかも彼女一人の身体ではない。一月前に正式に懐妊の発表がなされたが、今の悠那は妊婦である。

「陛下はお忙しいし、今日でなければならないし、兵士たちをね……あの場所に連れて行くのは気が引けるのよ」
 悠那は城壁の上で困ったように言った。しかし里珠も困った顔になるしかない。知っていて、黙って見送れるわけがないのだ。
 どう答えるべきか困り果て固まってしまった里珠を見て、悠那は楽しそうに笑った。
「そうね……では、里珠殿、代わりに私の護衛をしてくれる?」
「え、私ですか?」
「そう、貴女ならかまわないわ」
 悠那の言葉に里珠は逡巡する。一人で行かないのはいいことだろうが、竜珠持ちが二人で出歩くのも問題なのでは?
「先に下りているわね」
 しかし、里珠の返事を待たずに悠那は城壁の向こうに行ってしまい、里珠は向こう側を想像して肩をそびやかした。

 ここは城の裏手だ。既に悠那は外へ出てしまっているし、表へ行って誰かに言付をこっそり頼む暇もない。どうしたものか。
 ふと、里珠は腰に手挟んだ短剣を見る。一瞬で閃き、里珠は服の裾を少し乱暴に裂くと、近場にあった木に短剣で縫い付けた。ぼろぼろになった布切れが風に揺れる。
 誰かがこれを見て、里珠がいないことに気付いたら、何か妙だと思ってくれるだろう。
 後で獅苑に目一杯怒られるのだろうな、とちょっと遠い目になって、里珠は悠那のあとに続いた。



 副官の霞炎と獅苑が魔物出現の報告について取りまとめていると、執務室の扉が鳴った。一体誰かと首を捻ると、扉の向こうから顔を出したのは国王である天眞(てんま)だった。
「兄上?」
「すまない、獅苑。里珠殿はどちらにいるだろうか?」
 問われて獅苑は時計を見る。昼食も済んだ昼下がり。この時間なら稽古を受けているか、城の裏手で一人鍛錬をしているだろう。
 そう獅苑が告げると兄は困ったような顔をした。
「そうか。それなら悠那が里珠殿と一緒にいることもないだろうな」
「何か問題でも」
「いや、姿が見えないようなんだ。侍女も見ていないといっているし」
「悠那様に誘われていれば、里珠も訓練を止めてお茶をしているかもしれませんが」
 確かめてみればいいと獅苑は通りがかりの侍女に言付けて里珠の様子を見に行ってもらう。

 が、戻ってきた侍女からの報告は珍妙なものだった。
 里珠は部屋には不在。もちろん悠那の姿もない。
 城の裏手を確認しに行った侍女は、木に突き立っていたという布切れの刺さった短剣を持ち帰ってきた。
 短剣は獅苑がかつて里珠に渡し、そのまま彼女がお守り代わりに持ち続けていたもので、まとわりついている布は確か里珠が今日着ていた服と同じものだったはずだ。
 あたりに争ったりした様子もない、とのこと。
「……何かあったか?」
 獅苑は小さく呟いた。 
 というよりは里珠が何かを伝えるべく細工をしていったとみるべきだろう。そしてどうやら竜珠を持つ女性二人とも城に不在、ということになる。

 霞炎、天眞と三人、不穏な空気になる。確実にまずい事態だ。
 沈黙を破ったのは天眞。
「悪いな、獅苑。忙しいとは思うが、星陵の泉まで行ってくれるか」
「陛下は何かご存知なのですか」
 獅苑が口を開くより先に質問を投げかけたのは霞炎だった。
「ああ、霞炎も知っているだろう。悠那の集落が襲われたのは……九年前の、今日、らしい」
 天眞がひどく言いにくそうに答えたその言葉の意味を、獅苑はすぐに理解した。霞炎の表情も曇る。そして、悠那が誰も供をつけずに誰にも知られず姿を消した意味もわかったのだ。
「本当は俺が行きたいところだが、俺が動くと余計な騒ぎになる。行ってくれるか、獅苑」
 たぶん、里珠もそこにいるのだろう。勘ではあるが、獅苑はそう確信する。
 竜の一族、そしてこの城に仕えるほとんどの者が数年前の事件を知っている。その後に城に仕えるようになった者たちはまだ歳若く悠那の傍にいられるほどではない。
 里珠だけなのだ、悠那の間近にいてあのときの出来事の詳細を知らないのは。
 獅苑は頷き即答していた。
「はい、行ってまいります」



 悠那を馬に乗せ、里珠は手綱を引いて歩いていた。目的地は星陵の泉。さしたる遠さではない。街を出てほんの少しの距離だという場所だと知り、里珠はほっとした。一応槍の穂先は布でくるんであるし、二人とも胸元の竜珠は隠すような服装だ。早々見咎められることもないだろう。
 ――進化した魔物に嗅ぎ付けられなければ、だけれど。
「里珠も馬に乗っていていいのよ? 一応二人は乗れると思うけれど」
「いいえ、今日は私、悠那様の護衛ですから」
 馬は乗れるようになったけれど、まだ馬に乗ったまま武器を振るう自信はない。それなら、下にいたほうがいいと思うのだ。何かあれば、馬を引き離して自分だけ囮になってもいいのだし。
 それに何より、久しぶりの外出だ。考えてみれば魔物退治以外で外に出るなんてことはないのだから、罪悪感は伴うとはいえゆっくり行きたいという気持ちが勝った、というのもある。
 里珠たちは何事もなく街を出て、星陵の泉へと向かった。



 ――緑の木々に包まれた、星のうまれし泉。
 神聖なる場所とされるこの泉は、神殿の管轄とされている。水面は鏡のように陽光を照り返し、天地をさかさまに泉の中に映し出していた。
 綺麗だな、と里珠は思う。
 馬から下りた悠那はほとりを迷うことなく歩いて、やけに目立つ大きな石のある場所へ向かった。馬を繋いだ里珠も慌ててそれを追う。
 ただの石かと思ったそれは、表面が滑らかに削られ、何かが刻まれていた。意図的に作られたものだと分かる。
 そこへしゃがみ込むと、悠那は静かに手を合わせた。

「お久しぶりです、お父さん、お母さん。もう、九年になりました。……あっという間ですね」
 その様子を見て、ああ、と里珠は思う。断片的に語られるこの女性の半生を思い返していた。
 幼い頃、竜王より竜珠を受け、何も知らぬまま育った人。竜珠を狙った魔物に襲われて故郷と同朋とを失った人。魔物から逃げ回りながら、数年を経て竜王に見出された人。
 里珠が知っているのは、そんな漠然としたことだけだ。獅苑が語った話や、侍女や兵士のやりとりで聞き取れる程度。
 詳細について、語られることはほとんどない。獅苑でさえも口を噤む。
「私、子供を授かりました。陛下との子です。自分が母になるなんて、信じられません……」
 里珠は目の前の石に語りかける悠那の背中をただ見つめていた。
 その石は、――墓なのだろうか、既に亡き人を悼むものなのだろう。 


 しばらくして、悠那は満足したような様子で振り返り、その石の隣に座り込んだ。
「ごめんなさい。無理を言ってしまって。獅苑様には私がきちんと話しておくわね」
 悠那に笑われ、里珠は頭を振った。
 折角だから少し休んでいきましょう、という悠那の言葉に頷いて、里珠もその隣に座る。悠那は一瞬石の文字に目を向けると、里珠に問いかけてきた。
「里珠は、私が竜珠を受けてからのことをいくらか聞いているでしょう?」
 その問いに里珠は頷くしかなかった。
「……少しだけ、ですけど」
 まったく知らないわけではない。けれど、関わった人々が口を閉ざすほどの事の重大さは、未だ知らない。
 里珠の返答にわずかに微笑んで、悠那は空を見上げる。里珠も一緒になって空を仰いでみた。
 青空の下、緩やかに雲が流れていく。

「私の部族はね、特別な力があって、そのために隠れ住んでいたの。そこを魔物に襲われた。――それが今日なのよ。大部分の人は助からなかったと聞いているわ。本当はそこへ行きたいのだけれど、あまりにも遠くてわたし一人ではいけないから、ここに勝手に祀ったの」
 そこは森の奥深くだから――と悠那は言った。地図にも記載されることのない、人々にも知られない集落。だからこそ、村ひとつ壊滅したことを竜の王国の大部分は知らずにいる。
 里珠は隣に座る悠那の様子をこっそり伺ってみる。彼女は静かに目を閉じていて、極力感情を殺した口調で続けた。
「あの日のことは、知っている者にとってはとても深い傷になっている。だから誰もあなたに詳しいことを話してくれないでしょう? 獅苑様であってもね。もう何年も経っているのに、私を含めて誰一人として過去にすることができないのよ」
 それだけ重い出来事だったということだろう。
 だからこそ、獅苑は今もなお西封周辺を魔物が襲うことがないかどうかひどく気にしているのだ。悠那の集落の二の舞にならないことを願って。それは竜珠を持つ娘がいたからだと分かっていても、そうせずにはいられないらしい。

「一人で出歩いてはいけないのは分かっていたのだけれど、若い兵士はともかく、あの頃から城に上がっていた者ならこの碑の意味はわかると思うから――まるで責めているような気がして、連れて来ることができないのよ」
 あなたがいてくれてよかったわ。
 そう言われ、里珠は思わず俯いた。何だか踏み込んではいけないところに割り込んでしまったような気分だというのに。しかも久しぶりの外出だなんてちょっと浮かれていた自分が恥かしい。
 竜王と獅苑、桜華(おうか)の兄弟と悠那との間に、里珠の知らない絆ができていることはなんとなく知っていた。それが悠那の竜珠を巡ることに関わっているのだということは、彼らの様子や周囲の言葉から薄々は察せられる。
 本当はそこに入れたらいいと思っていたけれど、知らない者がいることが救いになるならそれもいい、と里珠は初めて思った。
「いつか、昔話として話せるようになったら、貴方に聞かせるわね」
「はい」
 笑顔で言ってくれた悠那に、里珠も笑ってみせる。そう、誰からでも、獅苑からでも、悠那からでもいい。いつか聞かせてもらえたら、それでいい。

 すっと風が吹きぬけて、水面の風景が揺れる。穏やかな風に髪を梳かれて、里珠は目を閉じて身を預けた。気持ちいい。寝転がれたらどんなに気分がいいだろう。
 魔物退治に行けば、伴うのは必ず空気の不穏さ。物々しい雰囲気だから、風を堪能することだって無理だ。
 不謹慎だというのは分かっている。獅苑に怒られるのも目に見えていて、けれど抜け出してきてよかったのかもしれない、と思った。また、あの城の中で頑張れそうだ。
 不意に隣からくすくすと笑い声が響いた。
「……?」
 何事かと里珠が悠那を見ると、彼女は堪えきれないとばかりに笑っている。
「里珠はきっと素直だから、獅苑様の言うこともきちんと聞いているのでしょう? でも、一人魔物退治をしていたというあなただから、この城の中にただいるばかりでは退屈なのではない?」
 完璧に見透かされた言葉に、里珠は呆気に取られた。確かに稽古は許されている、一人で鍛錬だってできる。けれど里珠はそれだけで生きてきたのではないし、それ以外にすることは実はあまりに少ない。

「大丈夫よ。私も最初はそうだったから。城から抜け出そうとして何度大騒ぎになったか」
「……そうなんですか?」
「魔物に襲われた昔のこととか、色々あったからね、表立って怒る人はいなかったけれど。……そうね、後で教えてあげるわ。この広い城の中を歩き回るだけでもけっこう楽しいわよ?」
 そうして悪戯めいた笑顔を見せた悠那の遙か向こう――空に飛竜の影が見えた。
「あ……」
 里珠の声に悠那も気がついたらしい。飛竜の背に乗る人影が誰か分かったらしく、悠那は肩をすくめてみせた。
「もうお迎えが来てしまったみたいね」



 飛竜で泉のほとりに下りてきたのは、予想通りと言おうか、獅苑だった。あからさまに安堵した表情と呆れた表情を器用に同時にやってのけている。
「悠那様……里珠も、やっぱりここにいらしたんですね。兄も……いや、陛下も『心配』していましたよ」
 そう言いながら飛竜を降りる獅苑を、悠那は背筋をぴんと伸ばして出迎えた。凛としていて、やっぱり王妃様なんだなあと里珠は今更なことを思う。
「ありがとうございます、獅苑様。ご足労をかけて申し訳ありません。それと……あなたの大事な姫君を無理やり護衛に借りてしまったことも」
 悠那は里珠に語ったこの外出の理由を一切口にしなかった。それはつまり彼を責めることでもある、と思っているからなのだろう。たぶん獅苑もそれを分かっていて、あえて追及しないのだ。

 そろそろ夕方になりますから、帰りましょう、とだけ獅苑は言った。それはつまり飛竜に乗ってということだが、そこで里珠は我に返る。向こうに馬を繋いだままだ。紐は長く余裕を持たせておいたから、自由に草を食んだり水を飲んだりしていたと思うのだが。
 が、これを言い出すと獅苑の機嫌を損ねるような気がしてならない。
「あの、獅苑様」
「……どうした?」
「馬を置いていくわけには……」
「馬?」
 里珠の示した先を見、そこにつながれた馬の姿を捉えて、獅苑は表情を曇らせた。城の馬だから、まさかそのままにしておくわけにはいかない。いくら治安が良くても、誰かが連れて行ってしまうことだってあるだろう。

 問題は誰が乗っていくかということだ。三人とも乗馬の心得はある。城まで乗っていくことは造作ないだろう。
 竜の乗り手は獅苑。他の二人は一人きりにできない竜珠持ちだ。しかも悠那のほうはお腹に子供を身ごもっている妊婦。いくら里珠が獅苑の竜珠であっても、本来の乗り手でない者が二人だけで飛竜に乗るのも無謀だ。
 となると考えられるのは。
「私が乗っていってもいいですか?」
 そう提案した一瞬、確かに空気が怒気をはらんだ。きっと怒られると思い、里珠は獅苑の顔が見られない。
 だがしばらく待っても思ったような言葉は聞こえてこず、里珠の耳に届いたのはため息だった。
 里珠が恐る恐る顔を上げると、困ったような顔をした獅苑がいる。
「……魔物の気配は感じられるか?」
 そう問われ、里珠は感覚を澄ませてみた。特に何も感じられない。里珠が首を振ると、獅苑は思いなおしたように口を開いた。
「では、馬の方は里珠に任せた。俺は悠那様を送り届けてくるから、気をつけて戻って来い」
 許されるとは思わなくて、里珠は嬉しくなった。けれど、悠那たちが先に帰るのを見送ったとき、獅苑がひどく自分のことを気にしているのも分かったから、早く帰ろう、とだけ思う。

 馬のところへ向かう前に、里珠は傍にあった石碑を見た。少し苔に埋もれて、読み取りにくい字だ。
 そこに書かれているのは、鎮魂の言葉。
 もう何年も前に竜珠のために失われた人々。
 でも、どうだろう。もし里珠が戦う力を持っていなかったら、獅苑に出逢うことがなかったら、たとえ竜珠が絡むことがなくとも、自分たちも同じような末路を辿っていたのかもしれない。
 最終的に里珠たちの集落の近くに『魔物の巣』があったというのだから、北の街道の分が解決した後は、きっと気付かれなかったに違いない。一度は去った獅苑が再び軍を率いてきてくれたのは、隣国の報告で魔物がまだいることが分かったからだったと聞いた。もしそうなら、きっとその頃には周辺の地域は――。
 その習慣は里珠の故郷とは違ったけれど、里珠は悠那を真似て石碑の前で手を合わせた。
 どうか、今は安らかでいますように――。
 しばらくしてから、里珠は顔を上げる。今は西封も大丈夫。王国はきちんと国中に守護の力が及ぶように尽力してくれているのだ。
「……帰ろうね、早く」
 自分を心配してくれる人のために。



 馬の足音を聞きながら、石畳を歩いていく。この速度で歩くなら、自分でも充分操れそうだ、と里珠は手綱を繰りながら思った。遠乗りすることなどないから、たかだか城に帰るだけだというのに気分がいい。
 城への門が見えてきたとき、里珠はそこに誰かが立っていることに気付いた。
 ――獅苑だ。
 里珠が帰ってくるまでは落ち着かなかったのだろう。里珠の姿を認めると、あからさまに安堵した様子だった。里珠は馬を下りて、獅苑の傍まで馬を引いていく。
「おかえり」
 優しい言葉で迎えられて、里珠はほんの少しだけ泣きたくなった。この言葉を聞くのは何だか久しぶりだ。

 獅苑の顔に笑みが浮かぶ。
「久しぶりの外出はどうだった?」
 その言葉に、里珠は思わず目を瞬かせた。
 考えてみれば、西封から王都へ迎えられてから里珠がこの場所を歩き回ったことなどほとんどない。街の外もしかり、だ。せいぜいが飛竜に乗って上から眺めたくらいで。
 里珠はちょっと獅苑の様子を伺って、にっこり笑って言った。
「――楽しかったです」
 悠那と歩いたあの道のりも悪くなかったし、泉は綺麗だった。悠那と話せたことも良かったと思うし、馬に乗って帰ってきたことも。
 里珠が獅苑を見ると、彼は少し困ったような顔をしていた。
「悪いな……不自由させる」
 その言葉に、里珠は即座に首を振る。説明されて、竜珠を受けることはそういうことだと分かっていて、里珠はついてきたのだ。

 少しずつ陽が暮れてきて、獅苑の姿が少し翳る。馬を引いて、里珠は少しだけ青年に近づいた。
「今度……休めたら、一緒に遠乗りに行こう」
「遠乗り……馬でですか?」
 里珠の問いに獅苑は頷いた。大抵は飛竜に乗ることが多いから、実際のところ馬を操る獅苑というのを里珠は数えるほどしか見たことがない。
「馬の扱いがどれだけ上手くなったか見せてもらおう」
「……わかりました。今度は笑わせたりしませんから」
 城で最初に馬に乗ってみたときに見せてしまった醜態のことをちらつかせ笑う獅苑に、里珠はふくれ面で返した。
 最近また魔物の出現の頻度が増し、多忙を極める獅苑が休めるとは、里珠にも思えなかったのだ。それでも合間にでも自分のことを思ってくれるのなら、それでいいと思える。
「帰るか」
「はい」
 馬を引いて一緒に城への門をくぐる。考えてみればこうして並んで歩くことも久しぶりだなと里珠は嬉しくなった。



 しばらくして、悠那の教えを受けた里珠が城のあちこちに出没するようになり、居場所を把握できなくなった獅苑が頭を悩ませる羽目になるのは、また別の話。


2008.3.8

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