竜の王国シリーズ

番外編

その言葉の響きは


 王城の中庭。
 時刻は昼下がりを過ぎ、陽光は徐々に傾きつつある。里珠の手元にある本に落ちる光もだんだんと弱くなっているのが分かる。先ほどまでは陽の当たっていた部分が汗ばむほどだったのに、今は程よいぬくもりが里珠の身体を包むだけだ。南を向いて椅子に腰かけているせいで陽のあたらない背中は、かすかに冷気が通り過ぎていくような気さえする。
 それでも教本の文字を読むには全く問題がなかったから、里珠はそのまま作業に没頭していた。
「ええと……」
 頁に書かれた注意事項と里珠が自分で書きつけた補足とを参考にしながら、そこにある文章を音読していく。どうにもいまいち発音に自信が持てない上に、単語を一つ一つ追っているせいで滑らかに読むことができない。
 やっぱり一人では会話の勉強にはならない、と里珠は諦めたように溜息をついた。ちらりと横にある丸い卓に目を向ける。そこには三人分のお茶とお茶受け用の皿が置かれていた。皿はすでに空であり、湯呑も二人分は隅に寄せて置かれている。
 使用者のいなくなった湯呑をほんの少し恨みがましげに眺めて、里珠は自分の分のお茶を手に取った。

「里珠、ここにいたのか」

 背後から聞こえた自分の名前に、里珠はお茶を飲もうとした手を止めて振り返る。
 城の幾つかの棟を繋ぐ渡り廊下。そこから中庭へと降りてくるのは、獅苑である。
「獅苑様」
「何をしていたんだ」
「外国語会話の勉強をしてました」
 獅苑の問いに里珠は手元の教本を示して見せた。目を瞬かせた獅苑は不思議そうに首をひねる。
「……一人でか?」
「……少し前まで、ラエルとミーナが相手してくれてたんですけど」
 里珠は卓の上に視線を滑らせた。横に避けてある二人分の湯のみは、名を挙げた兄妹のものだ。
「さすがに疲れてきたみたいで。二人とも部屋に戻ってます」
「で、一人で頑張っていたわけか」

 王族ともなれば他国とやり取りができるよう、外国語の素養が求められる。それは妃となる里珠であっても例外ではない。飽くまで一市民でしかなかった里珠のことを考慮して教師や講義の時間は十分配慮されているが、それでも言葉を覚えるのには苦労していた。
 隣国の言葉もなんとか読み書きをすることはできるのだが、最大の問題は会話だ。それができなかったら意味がない。
 自分が話すことは何とかできる。とっさに表現できなくて教師役のラエルやミーナに相当補足されたが、しゃべるだけならまあいい。
 問題は聞き取ることができないということだ。こちらが言葉の理解がしにくいからとゆっくり簡単に話してくれているならいい。しかし、普通の速さで話しかけられた日には何を言っているのかさっぱりわからないのだ。ためしにラエルとミーナが会話をしているのを聞きとろうと試みたが、結局惨敗。
 一度言葉が聞き取れずつまずくと、以降の話は完全に混乱してしまって聞き取れない、という状況を確認できただけだった。
 獅苑や悠那がラエルやミーナに話しかけたときの流暢な言葉を思い出すと、しみじみと哀しくなってくる。獅苑は幼い頃から学んでいるし、悠那に至ってはかつては部族そのものが隣国にいたこともあったのだから母語のように使えてもおかしくない。そうは言われたものの、自分のあまりの落差に落ち込みそうになる。
 
「本を読むだけでは分からないだろう。実際に使ってみなければ」
「そうなんですけど……」
 卓の向こうから手元の教本を覗き込んでくる獅苑に、里珠はため息で返事を返した。辛抱強く付き合ってくれたけれどさすがに集中力が切れてしまったらしい兄妹を引っ張り出すわけにもいかないし、外国語の教師は今日は不在。誰か相手を探そうにも皆それぞれに役目を抱えているのだから簡単には頼めない。声をかけたら喜んで相手をしてくれそうな悠那はここのところ調子が悪いようであまり部屋から出てこられない。
 となれば自習するより他になかったのだ。今日は切り上げる、という選択肢もあったのだけれど、なんとなくあと少しでつかめそうな気もしてやめられなかった。結論としては一人では勉強にならなかったのだが。
「――やっぱり、今日は終わりにします」
「そうだな、そろそろ冷えてくるだろうし、中に戻った方がいい」
「はい」
 
 獅苑に頷いて、里珠は教本を閉じて卓の上を片付け始める。銀盆の上に一式を乗せて、里珠は椅子から立ち上がった。これは厨房に返さなければならない。お茶受けの焼き菓子はとてもおいしかったから、お礼も言っておかなくては。
「里珠」
 ふいに呼ばれて里珠は顔を上げた。卓をはさんで向かい合うように立つ獅苑が、こちらをまっすぐ見下ろしている。先ほどまでの他愛ないやり取りをしていたときとは違う、真剣な光が里珠の視線をとらえた。
「獅苑様?」
 一瞬にして変化した周囲の空気に、里珠は息をのむ。どうしたんだろうとそのまま見つめていると、獅苑がわずかにかがんで顔を近づけてくる。
 そして、耳元に柔らかな声が落とされた。
「――」
 歌うように紡がれたその言葉は、今まさに里珠が勉強していた隣国の言葉だ。ラエルとミーナがおしゃべりをしているのよりも早口な獅苑の言葉は、意味をすくう前に通り過ぎて行ってしまう。
 なぜか心が震える気がしたのは、近いその距離のせいか、何より好きなその声のせいか。聞き取れたのは、その言葉が獅苑にしては珍しく熱を帯びていたことだけ。
 獅苑が離れ、二人の間に卓一つ分の距離が開く。
 何かとても大切なことを言われたような気がするのに、全くわからなかった。呆然として里珠は獅苑を見上げる。その口元に悪戯めいた笑みが浮かんでいることだけ、見えた。
「何と言ったか、わかったか?」
「あ、あの……なんて言ったんですか……?」
 里珠の答えを予想していたかのように、獅苑は楽しそうに笑う。
「それなら、今のは宿題だな。さて、日が陰らないうちに戻ろうか」
 あっという間に身を翻してしまう。里珠は何度か呼びかけたけれど、獅苑は答えずに渡り廊下へ戻り、執務室のある棟の方へ行ってしまった。
 残された里珠はとりあえず考え込む。
「……ずっと何かだ、って言ったような気がするんだけど、でもそこは全然聞き取れなかったし……」
 流暢なんてものではない。里珠が聞き取れないことを分かっていてあんな早口で言ったとしか思えなかった。きっと里珠にとってはとても大事なことなのだ。けれど、やっぱり単語の断片すら拾いだせない。
(ああ、もっと頑張らなくちゃ駄目なんだなあ……)
「うーん、最初は『何かあっても』って言葉だったかなあ……。なんか終わるとか尽きるとか言ってた気もするけど……」
 盆を手に持ったまま、里珠はまたしばらくそこで立ち尽くす羽目になった。





『これから先に何があっても、必ず護る。この命が尽きるまで、永遠に愛している』


2009.2.14

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