遙か3 将臣×望美

夢逢瀬




 それは、勝浦での夏の夜。

 望美を包み込むのは、気だるくなるほどの熊野の熱気ではなかった。季節がいつなのかははっきりしない、もう半年―――否、厳密に言えば一年以上も離れていた懐かしい空気。
 規則正しく机の並ぶ、音のない教室。望美が当たり前のように授業を受けて、友達とおしゃべりをして、同い年の幼馴染みと笑い合っていた、よく知っている場所。
 ただそれが本物でないとわかるのは、いつまでも褪せることのない窓の外の茜色と、しんと静まり返り放課後の喧騒が何ひとつ聞こえてこないせいだ。
 そういえば、今日は満月だったっけ……?
 ぼんやりとした頭で思い出そうとしてみても、外を眺めた記憶がなかった。

 望美は何かを思いついたように周囲に視線をめぐらせる。これは、夢なのだ。時間の止まった黄昏の教室は、ある人と繋がった特別な夢。
 振り返ると、そこに望美が探した人の姿があった。今日の夕方最後に見た、武装を解いたくつろいだ姿で、窓際一番後ろの机に座り窓の外を眺めている。
 同じ教室の中にいるのに、その背中が何だか遠い。
 ねえ、気付いて。
 名前を呼ぶのを躊躇っていると、彼はこちらを向いて瞑目した。一瞬で呆れたような表情に変わる。

「将臣くん」
「あのな、お前、こんな夢見てねえでとっとと寝ろよ」
 昼間熱出してたくせして、と彼は眉をしかめた。望美は返事をせずに傍まで歩いていって、将臣の座っている隣の机に腰掛ける。
「こんな夢見てる将臣くんが悪いんだもん」
「俺のせいかよ……」
 零れたため息に望美が将臣を見上げると、すっと伸びてきた手が額に当てられた。大きなその手を、温かいと思う。
「熱は下がったのか……っていっても、夢の中なら関係ねぇか」
「もう熱はないと思うよ。朔がもう冷やさなくても大丈夫って言ってたから。明日には出発できるよ、たぶん」
 熊野川を増水させている怨霊を追いかけていざ上流の方へ行こうとしたところで、望美が倒れて勝浦で休む羽目になったのだ。八葉のみんなは、骨休めになっていいと笑い、望美の体調を心配してくれたけれど、それぞれ早く本宮に辿り着きたくているだろう。
 きっと一番そう思っているに違いないのは―――。
「お前、んな無茶言うなよ。どうせ弁慶とか譲とかに止められるのがオチだぞ」
 望美がじっと見つめていると、視線に気付いたのだろう、将臣が訝しげにこちらを見た。
「……どうした?」
「将臣くんは、はやく本宮に着いたほうがいいよね。やらなくちゃいけないことがあるって、言ってたもんね」

 突然に学校の渡り廊下から見知らぬ雪原へ連れ去られて、春の京でようやく再会して別れて、またこの夏の熊野で再会して―――。今までずっと離れたことなどなかった幼馴染みなのに、別の世界に飛ばされてから、一緒にいられる時間の方が少ない。
 京では、将臣を追いかけてきた老尼と子供と共に彼は去っていった。熊野では目的地が一緒だったから本宮までの道のりを共にしている。将臣と離れ離れでいる方が、彼が何をしているのか知らない時間の方が、ずっとずっと多いのだ。
 早く本宮に着かなければと焦るのに、こうして辿り着けずに日々が過ぎることをどこか喜ぶ自分がいることを、望美はちゃんと知っていた。

「ばーか」
 ずいぶんとひどい言葉が投げつけられて、頭の上にぽんと何かが乗せられる。望美がそっと上目で見上げると、頭の上にあるのは将臣の手だった。その向こうには優しい笑顔。
「どうせ川の水がひかなきゃ本宮には行けないんだ。余計なこと考えないでこういうときくらいちゃんと休んでろ」
 その言葉はどこまでも優しくて、望美は思わず泣きそうになった。この人はこういうときに限って望美の考えていることを見抜いて甘やかすのだ。一緒に居る時間が短いなら、それに慣れてしまってはいけないのに。
 将臣の腰に巻きつけられ机の上に大きく広がる紅い上着を、望美はそっとつかんだ。
「もう少しいてもいい?」
「何だよ、いきなり」
「だって、折角逢えたのに勿体無いじゃない」
 望美が言い訳のように言うと、将臣は困ったように笑ってみせる。

 かろうじて離れ離れの日々さえも繋いでくれるのが、今望美がいる夢の中だった。
 それは、満月の晩。月に一度だけ叶う巡り逢い。
 時間はほんのわずかのこともあったし、ゆっくり話すことができることもあった。三草山での戦の後のように学校中走り回っても将臣がいないこともあったし、熊野の道中のように望美がその夢を見れなかった日もあった。龍神温泉で将臣と再会する前に見た夢のように、呼ぶ声だけを聞いたときも―――。
 今は一緒にいる。それでも、一分でも、一瞬でも長く、傍にいたいと思うのだ。

 望美の手にふれる、ぬくもり。将臣の大きな手が重ねられていた。
 知らないうちに彼の上に過ぎていた三年間で見知らぬ手になっていたのに、その温かさはかつて手を繋いだあの遠い日と同じ。
 願うようにその手を握って、望美は窓の向こうに広がる茜色の空を見た。

「ああ、そろそろ覚めるな……」
 ふと掠める夜明けの予感。将臣の呟きがどこか切なく響いたのは、望美自身がこの時間の終わりを惜しんでいるからだろうか。
 何の言葉もかけられないうちに、望美の前から夕暮れの教室も将臣の姿も消え去って、白い光に包まれる。明日もちゃんと顔を見せてといえばよかったと、その一瞬で望美は後悔した。
 ……まだ大丈夫。今は昼でも一緒にいる。傍にいられる。
 早く身体を治して将臣に逢いに行こう。
 そう言い聞かせながら、望美はゆっくりと眠りから覚めた。


END
written by 瀬生莉都
(初出)2006.6.26


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