願わくば。
自分たちが彼女にとって。
気を許し、頼れる存在であることを。
呼吸を整えるための吐息は白。
踏みしめる度軽く鳴る厚い雪。
今にも落ちてきそうなほどどんより重く色のない空。
そんな大地と空とを繋ぐようにはらはらと舞い降りてくる薄雪に、リースはふと溜め息をついた。
(なんだか寒気がする……)
防寒具の隙間から滑り込んでくる空気はひんやりと身体の表面を撫でていく。
すべてが雪に覆われた、濃淡だけの静かな世界。彼女は色のない世界に立っていた。
エルランドからマナストーンのある洞窟へ向かう、零下の雪原の途中。
ずっと戦いっぱなしでかいた汗が冷えたのかしら、それとも炎天下の砂漠から零下のエルランドに来たからかしら……。
そんなことを思いながらリースは前方へ視線を移す。多少ぼんやりして、焦点が合わせ辛い。
真っ白く汚れのない雪の絨毯の上に、痛いほどに広がる鮮血。その血を流すモンスターたちは、刹那に命を奪われていた。その傍らに立つ二人の少年―――そのうちの一人は青年と呼んでもいい年齢だが―――たちが、リースのすぐ横を走り抜けて飛び出していった次の瞬間には、もう。
リースがとっさに反応できず、立ち尽くしている間に全ては終わっていた。
辺りにはもう敵の気配はない。冷えきった空気の中に広がる血の臭いにも、二人は息を乱すことなくその場に立っていた。
惨劇の後のような場所に立ち尽くす青年と少年は、ひとつの絵のようにも見える。
一人は手入れしていない茶髪が目印の、グラディエーターの名を持つフォルセナの剣士。
一人は癖のある金髪の、バシューカーの名を持つ獣人と人間の混血児。
どちらもその暗い光をたたえた瞳とその中にちらつく危険な輝きは酷似しており、戦いの痕を隠そうともしない無頓着さと相まって、一般人からは敬遠されがちなのだ。一緒に旅を続けてきたリースでさえも、ときどき二人の様子が恐ろしくなることがある。
茶髪の青年は、デュランという。旅に出る前は剣技の国フォルセナで衛兵として勤めていて、剣術大会で優勝したこともあるほどらしい。
金髪の少年の名は、ケヴィン。獣人の国ビーストキングダムの王の息子。自らの身体を武器にして戦う様は、剣士たるデュランでさえも圧倒されるものであるらしかった。
当のリースも、故郷のローラントではアマゾネスを束ねる軍団長を努めるほどの者だ。闘うことにおいては、二人に引けは取っても足手まといにはならないくらいのはずであった。
本来なら、この二人に負けず劣らずの速度で飛び出していける彼女なのだが、今だけは違っていた。
飛び出そうとしたその瞬間に足下が揺らぎバランスを崩して、リースは立ち止まってしまったのだ。動けずにいたその両脇を二人がものすごい勢いで駆け抜け、モンスターの集団に突っ込み、―――そして今に至る。
青年の握る剣と、少年の身につけた爪からは未だに赤い液体が雫となってこぼれ落ちており、足元には赤い斑点が点々としている。二人の姿をしっかり見つめると、多少返り血も浴びたらしい。しかし、デュランにしてもケヴィンにしても、そんな自分の姿を気にするでもないようだ。
リースは見慣れてしまったが、実際そんな姿のままで街に入られても少し困る。染み付いてしまう前に落としてもらわなければ―――。
それに、あれだけの数を相手にして、無傷で済んでいるとも思えない。二人とも自分が傷を作ることには本当に無関心だから、こちらが気をつけておかなければならないのだ。
それを指摘すれば、たいしたことじゃないと二人とも応じるのだろうなと思いながら、歩み寄ろうとして一歩踏み出した途端に、リースの周囲の世界が大きく揺れた。
「リース!」
揺らぎが治まると、すぐ傍にケヴィンの顔が在り、自分がケヴィンに抱き止められたことにリースは気づく。
こちらを覗き込んでいたケヴィンの眉が険しく寄せられ、何かに思い当たったのか、慌ててリースの額に手を当てた。
この寒さのせいか、少し冷えた手の感触。
あ、冷たい、というリースの呟きはしかし、ケヴィンの叫びに掻き消されてしまった。
「やっぱり、リース、熱ある!」
そう言われて初めて、リースは寒気と合わない焦点の理由に気付く。ぼんやりするのも戦いのときに飛び出そうとしてバランスを崩したのも、そのせいだったのだ。
ケヴィンの声に応じて、デュランも傍に走り寄ってくる。顔色を確認するつもりなのかこちらを覗き込んできた顔が、しかめられた。
「確かに顔が赤いな。……どうしてこんなになるまで放っておいた」
「大、丈夫です……!」
咎めるような声音で響いた言葉に反応して、リースは何とか力を込めて自分の足で立とうとする。だが、一度抜けてしまった力は二度と戻らなかった。ケヴィンに支えられてかろうじて地面に脚をついている状態なのだ。
「一度街に戻った方がいい。そんな状態で先に進むのは危険だ」
「リース、デュランの言うこと、正しい。一人でも立ってられないのに、先に進むの、大変」
リースの隣で、ケヴィンもデュランの言葉に賛同する。
二人の意見は間違っていない。
つい先ほどの自分の様を見れば、このまま無理に進んだところで完全に戦いの足手まといになることは目に見えている。
街を出て相当な距離を来てはいるが、今までの経験からしてマナストーンのところで戦いになることは確実だ。戻って休養し、万全の態勢で臨むべきだと、冷静に心が告げていた。
しかし。
情けない、と思う。国を守る軍を束ねる長でありながら、こんなに容易に体調を崩すなどという失態。一緒に旅をしている二人は調子の悪い素振りすらないというのに。
簡単に言えば意地だ。戦いを常とする二人に負けていられないというその気持ちだけが、今リースを動かしている。
「駄目です、今戻ったら、ここまで来た時間が無駄になるわ……!」
力の入らない手で、それでもリースは無理やりケヴィンの助けを振り払った。荒い呼吸と共に吐き出された言葉はもう独り言のような呟きに近い。前に倒れそうになりながらリースは一歩踏み出そうとした。
途端に後ろに引き戻されるような感覚がして、周囲が反転する。
目の前に現れたのは灰色の雲に彩られた雪国の空。そして、こちらを睨みつけるデュランの顔だった。
「……この程度に抵抗できないようじゃ、この先は無理だ」
一体何が起きたのか、リースはしばらく理解できなかった。
どうやら足を払われたらしい。そして後ろに倒れそうになったところをデュランの両腕で掬い上げられるように支えられる羽目になったというわけだ。
「どこに行くか、どう進むのか、決めるのはリースだ。フェアリーに選ばれた勇者だからな。でも、俺は今だけはそれに従わない」
そう言うと、デュランは顔を上げてケヴィンに声をかける。
「ケヴィン、街に戻るぞ。リースは俺が負ぶっていくから、先頭を行ってくれ」
「わかった」
周囲には幕がかかり、すぐ傍にいるはずの二人の声は遠い。何も反論できないでいるうちに、リースは軽々とデュランの背に負ぶわれてしまった。輪郭もぼんやりとしかとらえられない視界に映る濃茶色の髪。
「モンスターが襲ってきたら、ケヴィンに任せるからな。俺は手が空かないから」
「わかってる」
その言葉を最後に、二人は走り出したらしい。デュランの走る動きに合わせて、身体が規則正しく揺れる。
防寒具越しであるはずなのに、体重を預けた背中の体温が伝わってくる気がする。温かいと思いながら、リースは自分の意識が沈んでいくのを感じた。
何年ぶりかで体験する感覚。
体がだるくて、重くて、身動きすることすらうっとうしい。
身体が熱くて、何も考えたくない。
やらなければならないこと全て投げ出して、このまま休んでしまいたい―――。
そんなことを思ったのは本当に久しぶりだった。
暖かい空気に包まれている。リースは静かに瞼を開けた。
途端に飛び込んでくる光。ゆっくりと焦点が合っていく視界の中で、金色の輝きが揺れていた。獣人特有の煌めく瞳がこちらを覗き込んでいる。
「あ、リース、目、醒ました」
デュラン、リース起きたよ。明るい表情に相応しい無邪気な口調で、ケヴィンは近くにいるらしいもう一人の仲間に報告する。間を置かず、リースを覗き込む人影が一つ増えた。
ふと額に触れるぬくもり。これはたぶんデュランの手。デュランはもう片方の手を自分の額に当てていた。
「……まあ、このくらいならもう大丈夫だろう」
安堵したような口調でデュランが言う。額の手が離れるのを待って、リースはゆっくりと身体を起こした。ケヴィンが手を添えて助けてくれる。
窓の外は一面が白く染まり、ところどころに建物や木々が黒く見えている程度だ。雪が音もなく降り続いているのが、窓から少し離れたここからでもわかる。一体どれだけ時間が経ったのだろう。
「私、一体どれくらい眠っていたのですか?」
リースは窓の外から視線をはずすと、目の前で桶を片付けているデュランに問うた。返答は、しばらく上目遣いで考え込んだあとに返ってきた。
「雪原からだと……半日くらいか、ケヴィン?」
デュランに尋ねられたケヴィンは眉間に深く皺を寄せ悩んだあと、たぶんそのくらいだと答えた。今はすっかり陽も傾いているくらいの時間だという。
リースは唇を引き結んだ。時間がない、と言ったフェアリーのことを考えれば、これは痛い損失だ。少なくとももう何日かは休まなければ体力は回復しないだろう。それは自分自身が誰よりよくわかる。
情けない勇者だ―――と心の中で自嘲気味に笑う。たまたま偶然でフェアリーを宿すことになったものの、己がやらなければならないと言われれば、もともと責任ある立場にありそういう事態に慣れているリースにしてみれば、それは何が何でも遂行しなければならないことなのだ。
「あんた、また自分だけで抱え込んでいるだろう?」
静かな言葉が、リースの思考を遮った。
はっと顔を上げると、暗い光が凝ったような深い色の瞳がこちらを見据えている。
デュランは足を組み、胸の前で腕を組んで椅子に座っていた。その椅子の背に寄りかかったケヴィンも、同じような瞳でこちらを見ている。
すべてお見通しなのだと、その表情が語っていた。
「そんなに俺たちは信用できないか?」
「……え?」
リースの視線よりわずかに高い位置からこちらを睨みつけたまま、デュランは尋ねてきた。その質問の意図を理解できず、リースは目を瞬かせる。
「俺にしても、ケヴィンにしても、もともと自分の理由で旅に出た。今も一緒にいるのは自分の都合かもしれない。そのせいであんたに迷惑をかけることもあるだろう。それでも―――」
どこか怒ったような顔で喋るデュランの口元がふと緩んだ。その瞳が柔らかな光を帯びる。次に続いた言葉は、リースに不思議な感覚を呼び起こした。
「それでも、俺たちはあんたについてきたんだ」
「オイラたち、リースの『仲間』。仲間に頼る、ちっともおかしくない」
デュランの声に呼応するように、椅子の背もたれに寄りかかったケヴィンも笑う。
リースは、目の前の二人の姿を交互に見比べた。
たとえ敵に容赦なく武器を振るい、戦うことに慣れきり、人々に恐れを呼び起こすような存在であっても。一緒に旅をしてきて、他の誰よりも彼女のことをわかってくれている、大切な『仲間』。
嬉しい、と思った。『仲間』という言葉が、ひどく心地いい響きでリースの中に染み込んでいく。この二人は、私の大切な仲間。一緒に未来に立ち向かっていく人たち。
リースは晴れ晴れとした気持ちで二人を見つめ返した。
「……それなら、早速頼ってもいいですか?」
人に頼るなど、今までほとんどしたことのない行為だ。何しろ彼女は何かを任され、頼られる立場だったから―――。
少し気恥ずかしいと思いながらリースが尋ねてみると、デュランとケヴィンは静かに頷いた。
「どうぞ」
「なんだか、お腹がすいてしまって、今にも鳴り出しそうなんです。何か食べるもの、作ってもらえませんか?」
一瞬の間。ようやくその内容を理解したらしいデュランは、その姿勢のまま困ったように笑い出した。
珍しい。この青年がこんなに笑うなんてこと。
「何かおかしいこと言いました?」
「―――いや。簡単なものでよければ作るが」
むっとしてリースが声をかけると、デュランは笑いに口元をゆがめたまま応えた。そのまま、わかった、とばかりに横に置かれた桶を手にデュランは立ち上がる。
椅子の向こうの扉に向かっていく途中で、デュランはリースに振り返った。
「いい傾向なんじゃないか。そうやって、言葉にしてくれればいい」
リースとの視線が交差する前にデュランは首をめぐらせ、ケヴィンに向かって呼びかける。
「ケヴィン、お前も手伝え」
「お、おう」
野宿の際の食事担当はデュラン。リースもケヴィンもささやかに手伝う程度だ。いきなりのご指名に、ケヴィンは面食らった様子で従う。
さっさと部屋を出て行くデュランに続いたケヴィンは、入り口で勢いよく振り返ると、にっこりとリースに微笑みかけてきた。
「リース、少し寝て待ってる。デュランとオイラとで、ものすごくおいしいもの、作るから!」
ぱたんと扉が閉まると、静けさが周囲を包み込む。
リースは再び横になると布団を鼻先まで被って天井を見つめた。身体を休めた途端に襲ってくる眠気に逆らわずにその身を委ね、目を閉じる。
さあ、二人はどんなおいしいものを作ってくれるだろう。
リースが眠りから覚めたとき、二人は優しい笑顔で待っていてくれるに違いなかった。
それはささやかな願い。
お互いが、気を許し合い、いつでも頼れる仲間であるように。
END
2005.4.15