薄紅天女 阿高×苑上

始まりの季節




 生まれて初めて見たこの武蔵の空も、今日と同じように、どこまでも高かった。


 ぴ――ひょろろ―――……。
 のんびりとした鳶の鳴き声が耳を打つ。
 お使い帰りだった鈴は、ふと竹芝へと向かう足を止め、あぜ道の横に広がる光景を眺めた。
 稲穂が重みに頭を垂れ、風に波打つ水田は、後はもう収穫を待つばかりだ。まるで湖の湖面のような波を打つ黄金色の絨毯。
 この稲の収穫が終われば、待っているのは秋祭り。夏の最後の残り火がまだわずかに漂う空気の中に、祭りを心待ちにする人々の心の高ぶりが潜むことが鈴にも感じられていた。
 再び鳶が穏やかな鳴き声を響かせる。声を追って鈴が顔を上げると、空の遥か上でゆっくりと旋回している影が見えた。
 その影の背後にはどこまで見上げても青く透き通る、秋の空。
 鈴が体験する、二度目の武蔵の秋だった。


 ―――わたくし、少しでも武蔵の人たちに近付けたでしょうか。


 阿高の手をとり、武蔵のことを何一つ知らないまま、身ひとつでここに来た。
 家事ひとつ出来なくて、それでも優しい竹芝の女達に教えられて、いつの間にかこなせるようになって。
 来たばかりの頃は皇だということで大騒ぎになって、けれど慣れてしまったのか、一緒に洗濯に行ったり山菜を取りに行く友人もできた。
 足の先まで冷たくなるような雪に埋もれながら雪玉を投げ合った冬。
 勢いよく、と武蔵の少年達が評した春の息吹も体験した。燃えるような夏も、阿高たちと一緒に過ごしてきた。
 武蔵の一年を過ごして、ふと、すべてのことを都での生活と比較してしまっている自分に気付く。十五年という長い時間に刻まれた習慣は、そう簡単に拭い去れるものではないのかもしれない。


「鈴?」
 唐突に、よく聞きなれた低い声が彼女を呼んだ。
 吸い込まれそうなほどどこまでも青い空を見上げていた鈴は、はっと我に返る。瞬間、目に飛び込んでくる不思議な形をした雲。なんとなく、馬の姿に似ていなくもない。
「いったい、何を見てたんだ?」
 声の主の方へ向き直ると、腰に手を当て、怪訝そうな表情をした、陽に透かした茶色の髪をした少年が、すぐ傍で鈴を見下ろしていた。
 よほどの時間、空を仰いでいたのだろう。阿高に呼ばれて初めて、首の後ろに鈍い痛みを感じた。手を伸ばし、軽く筋をほぐしながら、鈴は照れくさそうに答えた。
「空を。青いなと思って」
 目を点にする、というのは今の阿高のような顔のことを言うのかもしれない。目を丸くして一瞬きょとんとした後、阿高は額に手を当て軽くため息をついた。
「美郷姉が、鈴が帰ってこないって心配してたぞ」
「美郷さんが? それは大変。早く帰らないと」
 阿高の言葉に鈴が慌てると、阿高は「帰るぞ」という代わりにすっと左手を差し出してくる。左に包みを抱え直し、右手を繋ぐと、阿高はその手をゆっくりと引いた。
 稲穂を揺らす風に包まれて、竹芝までの道を二人で歩く。


 ―――阿高のこの手が、大好きなんです。


 大きくて、骨ばった、温かい、男の人の手。小柄な鈴の小さな手ではすっぽり包まれてしまうほど。
 あの日、唐突に現れた阿高が、泣き出したいほど嬉しかった言葉と共に差し出したもの。
 他には何も要らないと、ただ阿高と一緒にいたいと取った手。
 そっと手に力を込めると、軽く握り返されてくる。ごく当たり前のように手を繋いでくれる阿高に嬉しくなって、鈴はふと前を歩く彼に声をかけた。
「ねえ、阿高」
「何?」
 ぶっきらぼうにも聞こえるけれど、確かに優しく響く声と共に、阿高は振り返る。瞳に映る光はひどく優しい。その瞳の奥に、自分が見えるのを見つめながら、鈴は尋ねてみた。
「わたくし、今でも周りからは皇女に見えるかしら?」
 一瞬、阿高は困ったような顔をする。……彼はなんと答えるだろう。
 お茶一杯は飲み干せるのではないかと思うほどたっぷりと時間をおいて、阿高はゆっくりと答えた。
「―――鈴は、鈴だろう。今も、昔も」
 これからも。音にはならなかったけれど、確かに続くその言葉が、鈴には嬉しくて仕方がない。
 阿高には、きっとどうでもいいことなのだろう。彼にとっては、鈴が皇であろうとただ人であろうと、変わることのない何かが見えているのかもしれない。
 鈴がふと空を見上げると、いつのまにか馬の形をした雲はどこかへ消えていた。風に流れてまた別のものへと姿を変えたのだろうか。


 十五年、都で生きてきた。そこでの生活しか知らなかった。
 けれど、これから、この武蔵が生きる場所になる。きっと都での時間よりも、長く生きていく場所。
 武蔵で生きる時間が、都でのそれよりも長くなった暁には。
 この目に映るものは、きっと今とはまた違うはず。

 本当の一年の始まりは、元旦。
 でも、わたくしが武蔵に来たのは、秋。
 その日も、今日と同じように空はどこまでも青くて、そしてどこまでも高かったのをいつまでも忘れない。

 ―――だから、わたくしの一年の始まりは、この季節なんです。


END
written by 瀬生莉都
2003.7.27


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