何をしていたわけでもなかった。隣に並んで座って、ただひたすら他愛ないことを喋っていただけ。
むしろ話し手に徹していたのはアンジェラで、彼はただ柔らかな笑みを浮かべて相槌を打っていた。たまに意地悪い表情で皮肉ることもあったけれど。
なんとなくふわふわとした感覚が常にあったけれど、そんなことはどうでもよくて、肩が触れ合いそうなほど近いこの距離に浸っていたかった。
何故だかわからないけれど、こんな幸せな気持ちが長く続かないことを、アンジェラは知っていた。
隣の人の少し赤みの混じる金髪が煌めくのを見つめる。見慣れていた緋色のマントを、彼は今着ていなかった。
だって当然なのだ。そのローブはアンジェラが持っているはず。彼女の隣にいるこの人は間違いなく―――なのだから。
果たしてどれだけの時間が過ぎたのか、ついに話題のネタが尽きた。アンジェラが話すのを止めると、途端に周囲に沈黙が落ちる。
何か話し忘れていることはなかったかと、アンジェラは必死で思考を巡らせた。こうして話す―――話を聞いてもらうのはずいぶんと久しぶりだ。それこそ年単位の。
視線を感じてアンジェラが隣を見ると、興味深そうな瞳がこちらを見下ろしていた。どうやら今の様子をしっかり見られていたらしい。「何見てるのよ」と睨みつけてやると、ふと視線をそらして苦笑している。
それは、衝動だったと思う。
あの時は、こうして近くにいるなんてことはなかった。ましてや、触れ合うなんてこと。
思うのと身体が動くのとは同時だった。想いに操られるままに、アンジェラは隣に手を伸ばした。すぐ傍にあった彼の左腕をとると思い切り抱きつく。
彼の顔をうかがうと、ずいぶんと驚いた様子なのがわかる。アンジェラは微笑みかけると、そのまま彼の肩へ自分の頭を預けた。
あ、温かい―――。
そう思いながら、アンジェラは瞳を閉じる。
魔法を使えるようになるために修行の旅に出たこの人は、アルテナの男性陣より幾分か身体的にも鍛えられていたらしい。思ったよりも逞しかった腕のぬくもりが、ひどく心地よかった。
『アンジェラ』
小さく響いた呼び声が、アンジェラの心を揺らす。ぱっと目を開けて彼を見ると、ずいぶんと真剣な瞳でこちらを見ていた。蒼い光にアンジェラは易々と囚われてしまう。
彼の右手がアンジェラの頬に触れる。優しい熱にアンジェラの鼓動がかすかに跳ねた。
アンジェラは彼の左腕を解放する。向かい合う二人の距離は先ほどよりずっと近い。近付けられた顔で光を遮られ、アンジェラから彼の表情は見えにくくなった。
どんどん鼓動が速くなっていくのがわかる。きっと彼からは顔が赤くなっているのだって見えているかもしれない。
さらに近付いてくる彼に、アンジェラは確かな予感を感じて瞳を閉じた。
風を感じてアンジェラが目を開けると、そこにあるのは見慣れた天井だった。いつも朝一番に見る模様だ。どうやら自分の部屋のベッドの上で間違いない。
「……っあー……」
両手で目を覆うと、アンジェラはつい先ほどまでの出来事を反芻した。そしてため息と共に呟く。
「なんだ……、夢オチかぁ……」
窓から覗く空はどこまでも高く、青い。そういえば、少し疲れたからとベッドに横になったのだ。ぼんやりと窓の外を眺めているうちにうとうとと眠ってしまったらしい。最後に見た雲の形とほとんど変化がないから、おそらく大した時間は立っているまい。
刹那の夢。
アンジェラはベッドの上に身体を起こして伸びをした。
「よりにもよってすごいところで終わってくれたじゃない。あたしものすごくどきどきしてたのに損した……」
なんだか無駄に悔しくて、アンジェラは虚空を睨みつける。どうせ夢でもなければ逢うこともできないんだから、ちょっとくらいおまけしてくれたっていいじゃない!
ことさら大きな声でアンジェラは叫ぶ。
「あーあ、どうせキスできないんだったら思いっきり抱きしめてもらえば、よ、かった、な……!?」
叫んでいる途中でふと気付き、アンジェラは目を見開いた。思い出したのは先ほどの夢の中で確かに感じた熱。あんな風に触れたことなど今までに一度もない。
幻との逢瀬は、触れることを許されない。
それなのに、あの温かさは本物だった。そして、今もまだここに―――。
アンジェラは勢いよくベッドから立ち上がった。かすかに俯いて目元を擦る。次に顔を上げたとき、アンジェラの表情は、いつも城の人々へ見せるものになっていた。
「うん、ちょっと得したのかな。たまに疲れてみるのも悪くないわね。さて、ヴィクターにお茶でも淹れてもらおうっと」
張り上げた声が少し早口で掠れていた気もしたけれど、アンジェラは構わずに部屋を飛び出した。
泣きたくなったのは、誰にも内緒。
この頬と腕に未だ残るあのぬくもりを、忘れたくない。
END
初出2006.6.26
再掲2007.4.6