悠久の絆

第3章




 ゆらゆらと揺れる不思議な感覚の中で、エルティスは夢を見ていた。
 正確には色鮮やかに記憶された過去の時間を思い出していただけで、眠っているわけではない。あの森の中で覚醒する前はきっとこんな様子で居たのだろうと自分で思えるほど、身体と意識が切り離されていくのがわかる。

 遙か高みから見下ろした地上。夕暮れに紅く照らされた石畳の上に立つ一組の男女。その額にあるのは同じ細工が施された飾環。
 ふたつの翡翠色の光が、エルティスの瞳を焼いた。
 不意に息苦しさに襲われて、エルティスは慌ててその記憶を放り出そうとする。今の今まで、エルティスの思い返す想い出はどれも優しく愛しいものであったのに、それは突然掌を返したように牙を剥いた。
『はい、誓います―――』

 思い出す必要などないのに、忘れられない。
 その声が、あの光景が、想い出のすべてを否定する。それでもいいと思った。今までの絆を失っても、かすかに繋がったこの世界で、懐かしい記憶に包まれていれば構わないと。
 思っていたのは確かだった。


 この想いだけ持って生きていくつもりだった。


 耳に届いた声に、エルティスは我に返った。<アレクルーサ>、と彼女を呼ぶ呼び声が、横から聞こえてきた。
 エルティスが乗っているのは、輿というものらしい。人がせいぜい二人座れば一杯になる箱型の乗り物を馬がゆっくり引いている。先ほどまであった揺られる感覚は、これに乗っていたせいだった。
 外を眺める窓は左右に大きく開いていたが、そこからは厚手の織物が垂らされていて外を見ることはできない。今は一方の布が上げられて、馬で並走する男がエルティスを眺めていた。
「一体どうした、声をかけても返事もしない」
「……何でもないわ」
 感情のこもらぬ声で応じると、エルティスは男から視線をはずし前の壁を真っ直ぐ見つめる。そこには森からずっとついてきている精霊の一人がいて、今なおエルティスに危険を訴えている。
 森の精霊たちは彼女を追ってついてこようとしたが、エルティスはそれを押し留めた。それでも応じなかった数人が、ずっと傍についている。
「まあいい、日暮れには街に入る。そうすればゆっくり休ませてやろう」
 エルティスの様子を気にするでもなく男はそう言い置いて、ばさりと布を下ろした。外からの光が遮られて、輿の中は薄暗くなる。エルティスはようやく静かに息をついた。

(何か間違ったことをしてるのかな……)
 外に聞こえないように、エルティスはそっと自問する。あの男は、エルティスを必要だと求め、だからエルティスはその手をとったのだ。
 久しぶりに触れた人のぬくもりはひどく温かくて離れがたかった。とられた手が痛みを覚えるほどその熱は優しくて、自分がどれだけそれを渇望していたのか思い知った。
 けれど、それは間違いだったのだろうか。
 車が石でも踏んだのか、床が軽く跳ねる。驚いて体勢を立て直しながら、エルティスは考え込んだ。それはここ数日繰り返している行為だ。
 男は馬で何日も歩いたところに家があると言った。途中にいくつも街はあったけれどそれらをすべて通り過ぎ、夜になればそのまま野宿する。おかげでエルティスはずっと輿に乗ったままで何もすることがなかった。自然、やることといえば何かを考えることや記憶を思い返すことぐらいになる。

 おかしい、といえば、あの男の手をとったその後から、昔のことを思い出そうとすると妙なことになる。森の中にいた頃はいつも楽しかったり愛しかったりする記憶ばかりだったのに、最近は何故か辛い気持ちを喚起されることが多くて、つい先ほどのように無理やりそこから抜け出すことが多くなった。
 たぶん同じものを見ているはずなのに、哀しい気分ばかりが思い出されてひどく苦しくなる。
 どの記憶も必ず最後に思い出すのはふたつの翡翠の煌めき。それから力強く紡がれた声。
 それがなんだったか、はっきりしない。どの想い出も色鮮やかに目の前に現れるというのに、この二つの事柄だけは霧がかかったように曖昧で、それが何の意味を持つのかエルティスは思い出せなかった。
 答が出ない問いをずっとずっと考え続けて、横の布が巻き上げられ男に声をかけられたことでエルティスはようやく輿が動きを止めていることに気付いたのだった。


 だって、本当に欲しいものは、もう願うことすらできない。


 エルティスは外套を頭から被らされて男の館だというところに案内された。建物の中に入ってようやく視界が開け、エルティスは周囲を見回す。一目見て贅沢な作りだと思った。たぶん、ルシータの巫女姫たちの私室の装飾に負けてはいないだろう。
 天井は高く、明かり取りの窓からは西日がわずかに差し込んでいた。壁にしつけられた燭台には既に明かりが灯されていて、薄暗くなりつつある部屋を照らしている。

 男は広間だという部屋の一人がけのソファに勢いよく腰掛けると、エルティスにも適当に座れと命じるような口調で言った。二人の他にこの部屋に人はいない。エルティスは妙に落ち着かない気分になった。
「今、食事を用意させよう」
「私には必要ない。貴方だけ食べればいいわ」
 エルティスは所在無げに入り口近くに立ったまま答える。
 あらゆる人間の営みは、神の力を身に帯びる時間の止まったエルティスには無用のものだ。<アレクルーサ>になった瞬間からエルティスの時間は動かないのだから、食事も睡眠も必要ない。
 エルティスの返答に男はわずかに目を見張ると楽しそうに笑った。
「そうだな、お前は神に並ぶものだったな。人のものはいらぬか」

「……ここはどこなの?」
 そして、貴方は誰なの?
 基本的な疑問を投げかけて、エルティスは初対面のときにそれを尋ねなかったことに気がついた。本当は、何よりそれを確認するべきだったのではなかったか。
 男は静かに椅子に座りなおすと、口元にあの笑みを浮かべる。
「ここはエルンデンだ。……そう言われた所でわかるのか?」
 聞いたことはあるかもしれないけれど、エルティスはそれが一体どこなのか全く思い浮かばなかった。ルシータから一歩も出たことがなく、外の話は人から聞くしかなかったのだから仕方ない。ルシータ以外のことなどほとんど知らない。
 エルティスの沈黙を肯定ととったのか、男は静かに続けた。
「王都ライゼリアから南の街道を下った所にある街……と言えばわかるか」
「ライゼリア……!?」
 ファレーナ王国首都ライゼリア。もちろんそれくらいはエルティスも知っていた。
「ここは、ファレーナなの……」
 考えてみれば、森の外から来る人々の話す言葉が理解できたのだから、そんな遠い異国にきているわけではないことくらい思いつくはずだ。逃げるように遠ざかったつもりなのに、ルシータからさほど離れてはいなかったのか。
「そして私はファレーナ王国の第二王子だ」
 次の返答にはエルティスはあまり驚かなかった。どうして王子が<アレクルーサ>のことなど知っているのだろうと思い、次の瞬間には答を見つけていた。
 ルシータの巫女姫の血脈から、何人もの姫が王族に嫁いでいる。今の王妃は確か巫女姫カルファクスの従姉妹であったはずだ。神官たちも何人か城にいるはずだから、ルシータの内情を知ることがあってもおかしくはない。
 魔法を失わせ、ひいてはルシータの権力を失墜させる<アレクルーサ>という存在を、他の人々に漏らすということは考えにくかったのだけれど。

「貴方は<アレクルーサ>がなんなのか知っているの」
 エルティスは森で始めて会ったときと同じ質問を男に繰り返した。きっと返ってくる言葉は同じだろうということもわかっていた。
「この世界で最も強い魔法の力を持つ者だ。私はその力が欲しい。だからお前を欲した」
 男は事も無げに答える。エルティスの予想した通りの答。欲されたから、エルティスはついてきたのだ。
 けれど、今その言葉を聞いたときに最初に感じたのは違和感だった。
 何かが、違う。

 男が椅子から立ち上がった。彼とエルティスとは十歩も離れていない。
 一度気付いたその気持ちは、見る見るうちにエルティスの心の中で膨れ上がっていく。何故ここにいる。何故見知らぬ男に従った。―――何故その手をとった。
 王子と名乗った男は、躊躇いなくエルティスの距離を詰めてくる。圧迫されるような息苦しさに、エルティスは思わず半歩後ろに下がった。けれどその抵抗に何の意味もない。顔が触れ合うかと思うほど近付いてくると、男はエルティスの手首を捻るようにつかんだ。
「私にお前を与えよ。私にファレーナの王位を与えてくれ」
「王位? 何を言って……」
 エルティスは男から離れるように身を引く。このあまりに近い距離が許せなかった。
 手に触れたとき、この男のぬくもりを温かいと思ったのは間違いない。捜しているといわれたとき、嬉しいと思ったのは本気だったのだ。
 でも、ずっと待っていたのは。
 男の手から逃れようとしながら、エルティスは脳裏に懐かしい幻を描こうとした。
 しかし、思い出せない。
 その事実に気がついて、エルティスは愕然とした。幼い頃の姿は思い描ける。その姿を今の年齢まで成長させようとして、できなかった。
 風に揺れる茶色い髪。彼女よりいくらか背の高い姿。でも、どんな優しい表情で笑ってくれていたのか、思い出せない。あの日まではあった彼の姿はエルティスの中から失われていた。

 男の顔が目の前にあることに気付いて、エルティスは慌てて身を反らす。離れたのは一瞬で、エルティスは顎を持ち上げられていた。
「ファレーナの王位は魔法の力の強さで決まる。お前がいれば私は王位を継ぐことができる」
「魔法? そんなもの、そのうち使えなくなるのに……!」
 エルティスは表情を歪めて叫ぶ。<アレクルーサ>のことを知っていれば、そんな誤解をするはずがない。彼女が強い魔法の力を持つのは、世界から魔法の力を失くすためだ。既に事は起こり、後は緩やかに世界から魔法という存在が失われていくのみ。

 指で触れられた場所に、悪寒が走る。
 エルティスの中に湧き上がった違和感は、もう破裂するほどの勢いだった。あの時は温かいと思ったぬくもりも今はただ厭わしい。
 違う。これは違う。欲しかったのは、『これ』ではない。
 帰りたいと思った瞬間、エルティスの中で力が渦巻いた。空気の流れの乏しい部屋だというのにエルティスの銀色の髪が舞い上がる。静かに静かに風の力がエルティスを包み込んでいく。
「貴方が欲しいのは、この力だけね」
 エルティスの様子の変化に驚いた男の力が緩む。渾身の力で手を振り払うと、エルティスは彼女を運び去ろうとする力に身を任せた。
「でも、私が欲しいのは、貴方じゃない」
 呟いたときには、エルティスは完全に風の力に覆われて、男の表情を確認することはできなかった。 


 代わりを手に入れようとすることが、すでに愚行だった。
 本物でなければ、何ひとつ意味はなかったのに。


 あの場所に、帰りたかった。風の力で空間を彷徨う間、思っていたのはそれだけだった。
 辿り着くべき先を探しながら、エルティスは強く強く何度も願い続ける。どれほどの時間、心の中で繰り返しただろう。
 懐かしいあの地に戻りたい。もう一度あの森に帰りたい―――。

 エルティスがそっと目を開けると、目の前に広がったのは、白んだ空を照り返す、深緑色の湖面だった。故郷ルシータが思い返されるほどに思い出の場所に酷似した。
 あの男を拒んで風の力を使ったのは陽が沈んだばかりの刻だったと思ったが、ずいぶん彷徨っていたのか、辺りは明るい陽射しに包まれ始めている。
 鳥の鳴き声が静かにエルティスの耳に滑り込んできた。波紋ひとつ拡がらない水面は綺麗に周囲の木々の姿を映し出している。穏やかな空気に包まれる湖のほとりにエルティスは立っていた。

「……違う」
 でも、違う。
 エルティスは呻いた。湖を覗き込めば、そこにいるのは波打つ銀の髪を持つ、見知らぬ自分。 
 周囲の木々は、ここ最近でエルティスがようやく見慣れてきたものだった。高地に存在するルシータとは、種類がまったく違う。エルティスはあの男に会った森に戻ってきたのだ。
(帰る場所は、もうないんだった……)
 愕然として、エルティスはその場に座り込む。
 鮮やかに目の前に映る記憶を、エルティスはもう拒むことができなかった。それが何を意味するのか、思い出してしまったのだ。
 美しい黒髪の娘と、茶色の髪を揺らす青年の額に輝く同じ飾環は、婚約の証だった。
 あの誓いの言葉は、その二人の絆を約束するものだった。
 そして、それはエルティスの望みをすべて否定する。

 彼女が『帰りたい』と願った場所は、もうどこにもないものだった。
 犬神がいて、あの人の帰りを待って、両親の墓守をして過ごすなんでもない時間。
 両親の墓は壊され、彼の傍にいる資格は失われ、その日々はもう二度と返らない。
 彼女が『帰る』場所はもう、どこにもない。
「……っ」
 目覚めるべきではなかった。陽射しの温かさにもこの風景にも気付かずに彷徨っているべきだったのだ。
 エルティスはその姿勢のまま隠れるように小さくなった。辺りにいる精霊にすら聞こえないように俯いて小さく囁かれたのは、久しぶりに紡いだ幼馴染みの名前だった。
(デュエール……っ)
 




「……?」
 誰かに、呼ばれた。
 荷をしっかりと馬の背にくくりつけたところで、デュエールは手を止めて辺りを見回した。
 厩の前には、エルンデンへと続く街道が貫いている。朝も早いが、既に人の往来は多い。しかし、そこにいる人の誰かが彼を呼んだのではなかった。そもそも彼の名を知る人などいない場所で、そんな人がいるわけがない。
 はっきりとした声ではなかった気もしたが、それでも誰かが自分を呼んだという確信がデュエールにはあった。
 どこから聞こえたものなのか、もう手繰り寄せることもできなかったが、幻聴ではないと断言できた。
「エル……?」
 

初出 2006.7.10


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