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髪をさらっていく風が冷たい。揺れる葉のざわめきも寂しく響く。どれほど太陽が明るく照っていても空気は暗く沈んでいて。
どれだけ周囲に目を凝らしても、もうエルティスの前に優しい想い出の数々は浮かび上がってこなかった。
エルティスは今までと同じ森の中にいる。ただし、かつていた湖のほとりからはもっと奥に入ったところだ。人々もさすがにここまでは入ってこない。
森のところどころに木々が切れて広場のようになっている場所がある。陽光の差し込むそれらの場所はどこか懐かしい地を思わせて、最近のエルティスはあちこち移動していることが多かった。
緑の間から覗く空を見上げて、エルティスは小さく呟く。
「デュエール、は、今頃、何をしてるのかな……」
久しぶりにその名を呼んだ。今までは声にしなくとも、その姿はエルティスの中にあったのだ。どれだけ言霊を重ねても、面影を呼び戻すことはできなかった。
あの日、すべてを終わらせた後、『神々』にエルティスは尋ねられた。
神に列する存在として我々と共に来るか―――と。
人には有りえぬ力を持ち時間の止まった身体となったエルティスは、既にひとではなかった。彼女が人として生きるために必要だった<器>との絆は失われていた。
人の世では生き難かろうとエルティスを地上に下ろした存在は手を差し伸べようとしていたのだ。
扉が閉じれば、二度と天とは通じない。この世界は神々から放たれていく世界。
もしエルティスが地上に残るなら、これから先ひとと同じ時間を紡ぐことができないままに生きなければならない。
それでもいいとエルティスはここを選んだのだ。十七年の想い出があれば、この想いと共に独りで彷徨うこともできると思っていた。
あの瞬間は自信を持って神々に答えることができたのをエルティスは覚えている。
『ここに残る。同じ空の下にいたいから』
傍にいられなくても同じ世界にいて空を共有できるだけでいいと、真剣に思っていたのだ。
けれど、ここに来てそんなささやかな望みは覆された。
抱いていこうと思っていた記憶はもうない。最後のあまりに辛い出来事にすべて掻き消えてしまっていた。
辿り着いた場所がファレーナ国内であることは予想外だったが、ここならばきっと見える空はルシータとそう変わりないだろう。デュエールも同じような青を眺めているに違いないのだ。
エルティスではない他の誰かと一緒に。
再び鮮やかな翠の光が脳裏に閃いて、エルティスは立ち止まり目を伏せた。
目や瞼を貫く鈍い痛みがエルティスの全身を粟立たせる。
考えることを止めて、あたりの音に耳を澄ませた。風霊が弾けさせた力が風となってエルティスの傍を走り抜けていく。後に残るのはさわさわという葉擦れの音。
周囲が静まるのと同時に全身の不快なざわめきが退いていく。たっぷりと時間が経ち穏やかな心を取り戻したところでエルティスはようやく目を開けた。
「ありがとう……」
エルティスが風霊たちへお礼を言うと、喜びの声が返ってくる。
「いつもごめんね」
ルシータに在ったときの最後の記憶が繰り返される度、エルティスはどうしようもないほどの不快感に襲われるのだ。それを治めてくれるのはいつも精霊たちだった。
その不快感が何を示しているのか、エルティスにはわかっている。それは既に彼女の中から失われたもの。
ゆっくり一息ついて、エルティスは再び歩き出した。
他には何もすることがないから。人々には見つかってはならないし、この森から出てどこかへ行くことも怖いのだ。
そして身体を動かさなければ代わりに心が動き出す。できればさっきのような感覚にはあまりとらわれたくなかった。
目前にかすかにちらつく一組の男女が寄り添う影をエルティスは振り払おうとする。
隣に並ぶことのできるミルフィネル姫と比べたら、同じ空の下にいることしか叶えられない自分とデュエールの繋がりのなんと薄いことか。離れ離れの時間を埋めるかのようにエルティスに宿っていた、デュエールと感覚を共有する力さえ絆のない今は欠片も発現されない。
選ばれた彼女が羨ましいと思った。そして自分が選ばれなかったことが哀しかった。
ずっと一緒に育ってきて誰より近くにいたのだと思っていたのに、幼馴染みの心が違う人へ向いていたことすら気付かなかったのだ。
また溢れてくる不快感に、エルティスは眩暈がした。この感覚は身体の中を暴れまわるだけで決して外へ零れていくことはない。誰かが今のエルティスを目撃したとしても、いつも彷徨っていたときと違うようには見えないだろう。
この想いが報われないことを吐露したかった。それこそ目が痛くなるまで嘆くことができたなら、その後はわずかでもすっきりできるような気がした。
けれど、今のエルティスにはそれができない。どれほど悲しくても悔しくてもエルティスの瞳から涙が流れることはないのだ。こんな事態になって初めて気がついたが、それが神々に近付くことのひとつだった。
時間が流れないから想いはいつまでも巡り続ける。けれどその気持ちを溢れさせることもできない。
このままどこまで彷徨えばいいのか。
錯覚でなくふらふらする足で、エルティスは軽く地面を蹴った。舞い上がる身体を優しく風が包み込む。
「今度はどこへ行こうかな……」
思い出を取り戻せる場所へ辿り着くことを祈って、エルティスはその中へ姿を消した。
馬をゆっくりと繰りながら、デュエールは心が小波立つのを止められなかった。いらいらしていては馬にもその乱れが伝わるというのにもかかわらず、背後に注意が集中して仕方ない。
結局エルンデンを出発してもデュエールを追いかけてくる視線は途切れることがなかった。
意を決して振り向くと嫌な感覚は霧散するが、街道を行く人影が多く相手を特定することはできない。
気にしなければいいのだが、デュエールが宿の自室にいる以外は四六時中気配を感じるのだから不快にもなる。
相手が下手くそなのかそれともわざと存在を知らせるためなのか、とにかく腹立たしかった。
(一体何なんだ)
心の中で珍しく悪態をつくとデュエールは馬を下りた。このままでは馬を制御できずに自分が落ちてしまいそうだからだ。少し休んだ方がいい。
街道沿いの休める場所を探しながら、デュエールは後ろへも視線を投げかける。瞬間、刺されるような嫌な感覚は掻き消えた。
走り去る早馬やこちらへ向かってくる馬車、その間を歩く人々が見えるばかりで、おかしな動きをするものはない。
デュエールはふっとため息と共に身体の力を抜くと手ごろな木陰を捜した。オルトの接する森が近いせいか、この辺りには木々が多い。ついでに昼食にしてしまえ、とばかりにデュエールは馬を繋ぐと街道から見えないように荷物を広げた。
太い幹に背を預ければ、自分がひどく疲弊していることがわかる。
誰かに見られているいう精神的な疲れだけではないのは確かだ。
デュエールは焦りのあまりエルンデンからはずいぶんと無理な行程で通していた。ゆっくり二日で行けるところを一日で走破した場所もある。馬にも相当の負担がきているに違いない。デュエールを追いかけている人物もひどい思いをしているだろう。
今日ここ少し長く休憩しても日が沈む前には集落へ辿り着けるほどの余裕がある。―――むしろ急いで辿り着いて落ち着く場所で休んだ方が効率的か。
手早く食事を済ませると、デュエールは馬を促し荷物をくくりつけ始める。
思い出したようにデュエールは空を仰いだ。海を連想するような青に、目が眩むほどのはっきりとした白雲が泳いでいる。
『同じ空の下にいたいと、そう言っていた』
エルティスもどこかでこの空を見上げているだろうか。
代弁された彼女の想いをデュエールは思い返す。
忘れてはいない。その言葉があるから諦めずにいられるのだ。
デュエールは祈るように服の胸元を強く握り締めた。そこに収まるべき光は、未だ戻らない。
初出 2006.10.8