悠久の絆

第5章




 そうしていたのはさほどの時間ではなかっただろう。エルティスは不意に身じろぎすると、何かを思い出したように急に腕を解いてデュエールの傍から離れた。そのあまりの素早さにデュエールは思わず唖然としてしまう。

「そう、デュエール、お腹空いてるでしょう? 足りないと思うけど、少し持ってきたんだよ」
 わずかに早口でそう言うと、エルティスは小さな布包みを取り出した。布を広げると香ばしい匂いが広がる。そこにあったのは焼き菓子だった。エルティスは包みごとデュエールの手の上に乗せてくれる。
「エルは?」
「ん、あたしは大丈夫。ちゃんと食べたから」
 だから全部食べてとエルティスはにっこり笑った。彼女を横目に一人食べるのは忍びない気もしたが、空腹には勝てず、デュエールはありがたくいただくことにする。少しでも力はつけておかなければいけないと思ったのだ。

 デュエールが無言で食べているのを、エルティスは笑顔のまま黙って眺めていた。それがあまりに楽しそうだったから、デュエールは思わず訝しげな表情になる。
「食べるところなんて、そんなに楽しいものか?」
「だって、デュエールといるなんて久しぶりだもの。別につまらなくはないから、大丈夫」
 何が大丈夫なのだか、答えるときも相変わらずエルティスは笑顔のままだった。
 身体の痛みと戦いながらデュエールはようやく食べ終わり、布をエルティスに返す。
「ごちそうさま。ありがとう、さすがに助かった」
「どういたしまして。でも、食べることより痛みを治すのが先だったよね」

 食事中のデュエールの様子を見て気がついたのだろう、エルティスは眉をしかめた。布を懐にしまいこむと、エルティスはデュエールの腕に触れる。
 先ほどとは違う温かさが腕に染み込んで、そこから全身に広がっていった。手先や足先までそのぬくもりに包まれると、代わりに節々にあった痛みが遠のいていく。身体にのしかかる重さも取れて、デュエールは一気に楽になった。軽く腕を動かしてみると、まったく痛みが起こらない。
「楽になった?」
「ああ。お礼を言うことばっかりだな」
 デュエールが笑うと、エルティスも嬉しそうだ。ただ、そうして彼女が微笑んでいることが、デュエールにはなんとなく不自然に思えてきたのだけれど。

「髪も長いままだよね」
 水色の瞳がすっかり伸び放題のデュエールの髪に向けられる。適当にまとめただけの上に、王都まででの土埃と地下での湿気を吸って呆れるような状態になっていた。それでも、エルティスの力のおかげなのか清潔さだけは取り戻したようだけれども。
 この長さが、エルティスと離れ離れでいた時間そのもの。
「ここまで伸ばすのは初めてだよ」
「切るって約束だったけど、今ははさみがないから駄目だね」
 エルティスに言われてデュエールも思い出した。旅している間よすがにしてきた約束。だが、今はそれどころではないだろう。まずはここから助かる方法を考えなければならない。身体の痛みが消えて力が戻ってきたデュエールの頭にまず浮かび上がったのはそのことだった。
「それどころじゃない、どう考えたって……ここから出る方が先だろう」
 王都の中心、城の地下からどうやって出るか。二重にかけられた鍵と、そしてデュエールに負わせられたありもしない罪とからどうやって逃げ出すのか。

 デュエールがエルティスを見返すと、エルティスは驚いたように目を見開く。その瞳がわずかに揺れた。笑おうとして、失敗したような表情だった。
「そうだよね。……じゃあ、無事にここから出られたら、ね」
 その声は確かに震えていた。エルティスの様子は明らかにおかしい。
 気付いたデュエールが確かめようとするよりも、エルティスの動きの方が速かった。彼女は再びデュエールの首に腕を絡ませてきたのだ。デュエールはその腕の中にエルティスを受け止めることになった。
 触れ合うぬくもりは先ほどよりも重く、彼女はしっかりと身体を預けてくる。どう反応したものかと戸惑うデュエールの耳元に、エルティスの囁きが響いた。
「あのね……あの森に探しに来てくれて、本当に嬉しかったの。それだけでもう充分なくらいなの」
 エルティスは完全に顔をデュエールの肩にうずめていて、その表情を確かめることはできない。その声音は柔らかで、決して偽りを告げているようには聞こえなかった。
「すぐに、ここから助けるよ」
 デュエールの胸に寄りかかったエルティスがふっと身体を離す。デュエールは彼女の言葉の意味を一瞬図りかねた。
 一体、彼女は何を思っている?

「エ……」
 デュエールはエルティスの名前を呼ぼうとして、―――そこで動けなくなった。
 視界を占めるのは彼女の顔。声を出そうとした唇に柔らかいものが触れている。彼女が離れた瞬間に、デュエールはようやく自分が口付けられたのだということに気がついた。
 ほんのわずかな時間、本当に軽く触れただけ。それなのに、その感触は焼きついたように残ったまま。
 この十八年、一度としてしたことのない行為。

 呆気にとられていたデュエールは、辺りに起こった変化で我に返った。そして、ようやく彼女の意図を理解する。既に牢の中には風が巻き起こっていた。
「いつまでだって、デューのこと、大好きだからね」
 こちらを見つめる水色の瞳は、薄暗い地下にいてさえ煌めく光を放っている。
 声と同時に風と光がエルティスを包み込み、デュエールの腕から引き離そうとする。それは彼女が最初にこの場所に姿を現したときと同じ光景。
「エル、まさか……っ!」
 デュエールは慌てて彼女を抱きとめようとしたが、わずかに遅かった。瞬間、風と光とともにその重みは消え去ってしまう。デュエールの手は空をかいただけで、何も残っていない。

 牢の中は薄暗闇に沈んでいく。鉄格子の向こう側は闇に沈み、はっきりとはとらえられない。エルティスが光臨を放つことで明るく照らされていたということに今更気がついた。
 あのときとまったく同じだった。ルシータからエルティスが姿を消したあのときと。


 脳裏にちらついた記憶の中の光景に、デュエールは弾けるように立ち上がり鉄格子に飛びついた。
 当然ながら、剣も荷物も取り上げられている。ここにあるのはデュエールの身ひとつだけだ。
 素手でこの太い鉄格子をどうにかできるはずがない。
 鍵は二つ。もともとついているものと、鎖をかけた上でかけられたものと。盗賊ではない自分は、道具も何もない状態では対応のしようもなかった。
 普通の人間ならば、ここから出ることなど不可能。
 だが。
「くそ……!」
 デュエールは格子を強く握り締めたまま歯噛みした。地下の冷気に冷え切った鉄は、デュエールの手の熱を奪っていくだけで、もちろんどうにかなりはしない。

 デュエールはルシータに生まれた人間だった。生まれたときから魔力を持ち、普通の人間にはできないことをしている姿を何度も見てきたのだ。
 何もないところへ炎や水を呼び起こすこと。医者にも手を出せない病を癒し、枯れかけた植物を蘇らせること。そして、その最高峰であるエルティスは一瞬にして違う場所へと移動することすらできる。
 ルシータに育って、人々が魔法を使う姿を目にしてきて、自分は同じことができなくても何一つ不自由は感じなかったというのに―――、デュエールは生まれて初めて魔法が使えないことを悔しいと思った。 魔法さえ使えれば、この状況を打破する方法があったかもしれないのに。 

『すぐに、ここから助けるよ』
 エルティスの言葉が何を意味するか。
 デュエールが今牢に入れられているのは王子にとって単に邪魔なだけだからではない。それはエルティスに対する盾としてだ。だからエルティスはあの森で一人逃げることができなかった―――デュエールとしては逃げてくれて構わなかったのだけれど。
 王子に直接何か言われたわけではないが、これに似た状況に非常に覚えがあるから、デュエールは容易に想像できたのだ。
 デュエールがここにいる限り、エルティスは逆らえない。彼の安全を条件にすることで彼女を従わせることが王子にはできるはずだ。
 しかも、デュエールは罪人としてここに入れられている。いずれ裁きにかけられるわけで、そうなれば結末は簡単だ。<アレクルーサ>を手にするための障害を、王子が放置しておくはずがない。
 そして、彼女が従ったとして、デュエールがここから解放されるという願いが叶う保証もないのだ。かつて彼が巫女姫に出された条件に従ったのにその約束を反故にされたのと同じように。

 エルティスはまたもとの居場所に戻ったようだった。すぐに動き出すような様子はない。
 どうすればいい。
 このままでは、エルティスが王子の手に落ちるのも時間の問題だ。助けが来ることなどないのだから、ここから出ることも叶わない。ルシータのときよりも近くにいながら、また護ることもできずに見ているだけ―――。
(冗談じゃない!)
 デュエールは心の中で叫んだ。ルシータと同じことを繰り返すためにエルティスを追いかけてきたわけではないのだから。



 デュエールは薄暗い牢の中、壁に寄りかかって耳を澄ませていた。
 待っているのは階段を下りてくる靴の音。さすがに目的を達する前にデュエールを餓死させるつもりはないのだろう、一日に一回だけ、ささやかではあるが食事が運ばれているのだ。
 考え抜いてデュエールが思いついた、現状を打破する方法だった。

 一番最初に食事が運ばれたとき、兵士は扉を開けてすぐのところに食器を放置していったのだ。だが、満身創痍のデュエールはそこまで動くことすらできず、手付かずのままだった。このままではまずいと思ったのだろう、兵士は逡巡した後、食事をデュエールの傍まで運ぶことにしたらしく、その後はきちんと手元まで持ってきてくれるようになった。
 もちろんその間鍵は開いたまま、食事係の兵士は一人きりで、立ち去るときの背中はがら空きだ。何らかの抵抗をする余地もないほどデュエールが弱っていたからだが、デュエールの様子に気付かなければ、今日も同じように動いてくれるだろう。
 機会はその一度だけだ。
 脱獄、ということになるが、この状況を何とかする方法はそれしかない。犯罪者の汚名はそのままになってしまうからエルティスは牢からデュエールを逃がすことができなかったのだろうが、彼女の言葉に従って待っているつもりはデュエールには毛頭なかった。

 ―――いつまでだって、デューのこと、大好きだからね。
 最後のエルティスの言葉を思い返す。デュエールがあのとき数年ぶりに彼女を愛称で呼んだように、それは久しぶりに彼女の口から聞く自分の愛称だった。
 言葉に込められた彼女の心は嬉しかった。長い間欲しかったものだから、嬉しくないはずがない。けれど、自分の想いもきちんと伝えていないのに、このままで終わらせるわけにはいかないのだ。
 約束した。父と、犬神と、そして彼女の両親に。必ず二人で戻ってくる、と。
 どちらか欠けてしまっては、何の意味もない。二人でなければ駄目なのだ。

 そろそろ兵士が食事を持ってくる時間のはずだ。デュエールはできる限り身体を投げ出して疲れ切っているふりをしていた。
 やがて、頭上の方で重い扉が開かれる音が響く。
 デュエールは身体を強張らせ、唾を飲み込んだ。目を閉じて耳に意識を集中させて、階段を降りてくる音を聞きとろうとする。
(……?)
 いつもと違うその音に、デュエールは眉間に皺を寄せた。微妙に間隔のずれた響きは、いつもの兵士のものではない。しかも複数の足音が重なっているようにさえ聞こえる。
 まずい、とデュエールは思った。彼が考えていた作戦は、相手が二人以上では成立しない。一人を運良く昏倒させたとしても、他にも人がいれば逃げ出せない。
 おかしなことに、なにやら声も聞こえてくる気がする。じっと耳を澄ませていると、突然何かが階段を転がり落ちる盛大な音がした。
「何してるの、ミファエル!」
「ごめんなさい、だって重いんだもの!」
 被さるように反響した声は、女性のもの。
 予想外のことに、デュエールは目を開けて石壁から身を起こした。

 足音は、石畳を蹴る音に変わる。デュエールは目を凝らして鉄格子の向こうを見つめていた。一体誰だ?
 しばらくしてデュエールの前に現れた人影はふたつ。その手にある灯りに照らし出されているのは、そっくりというよりはほぼ同じ顔をした黒髪の女性二人だった。
「あなたが、兄上が捕らえてきた重罪人、ですか?」
 片方の女性が灯りを掲げてデュエールに尋ねてくる。
 デュエールは片膝をついたまま唖然としていたが、もう片方の女性が抱えているものが自分の剣であることに気がついた。何かが落ちた音はこれだったのだ。
 剣を抱えている女性は、デュエールが自分の方を見ていることに気がついたらしい。微笑んで、彼女は言った。
「精霊たちがあなたを助けたがっていました。これは、あなたのものなのですね?」 


初出 2007.2.19


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