悠久の絆

終章


「鮮烈な蒼」



 ―――あの海を、今度は一緒に見に行こう。


 馬の背に揺られていたエルティスの鼻孔を不思議な匂いがかすめた。
 今までかいだことのない得体の知れない匂いだ。だが不快ではなくむしろ心地いい。
 エルティスはすぐ下を見下ろすと、馬の手綱を引きながら斜め前を歩くデュエールに声をかけた。
「ねえ、デュエール、この匂いって……?」
 今歩いているのは林の中。人の手のあまり入っていない細い道を抜けているところだ。デュエールは馬の背があまり揺れないように、そしてエルティスが枝に髪を引っ掛けないように注意して馬を引いているらしく、返事はしばらく経ってから返ってきた。
「『潮』の匂いだよ。これを感じたら、海はもうすぐだ」
「これが、海の匂い」
 その言葉はエルティスも知っている。ただ本物を知らなかっただけで。

 あたりの木々はエルティスの知らない種類のものばかりだった。ルシータの森や、エルティスが彷徨っていた森とは全く違う。枝からたくさん伸びる、たぶん葉っぱなのであろう緑色の針のようなものは、エルティスが生まれて初めて見るものだ。こんな植物があったなんて。
 馬の足元から自分の頭の遙か上まで、見たこともないものがたくさんある。エルティスの視線はあちらこちらを彷徨い落ち着かなかった。

 やがて、二人は林を抜ける。突然視界が開け、思い切り吹き過ぎた涼しい風がエルティスの亜麻色の髪を舞い上げた。
 一瞬光の中に沈んだ後エルティスの目の前に現れたのは、二色の青を切り分ける一本の水平線。
「わぁ……!」
 エルティスは思わず歓声を上げた。
 夏の空は鮮やかに青く、その色を吸い込んだように海は濃く深い蒼色を放っている。水面が揺れるのに合わせて、時折陽光が煌めいて眩しい。
 ここは、見覚えがある。記憶の中の光景と一致する。鮮やかな色が何よりも印象に残っているのに、今見る本物は記憶の中の風景よりずっと色鮮やかだった。
 これが、あの日デュエールが見た景色。

 デュエールに促され、エルティスは馬を降りた。二人が辿り着いたところは少し高台にあり、見下ろせば砂色の『浜』が広がっている。
 エルティスは馬を繋ぐ適当な場所を探しているデュエールに声をかける。振り返ったデュエールは目を輝かせているエルティスに苦笑した。
「ねえ、デュー。先に下りててもいい?」
「ああ、いいよ」
 海岸へと続くこの坂を下るわずかな時間すら惜しい。デュエールに許可をもらったエルティスはもどかしいとばかりに風霊を促して砂浜に飛んだ。
 ゆっくり足を下ろした場所が軽い音を立てて沈む。エルティスは一瞬焦り体勢を整えると、目の前を見た。
 一度聴いたことのある『波』の音。一定の間隔で耳を打つ音律に、エルティスは耳を澄ませた。
 音に合わせて海が迫ってくる。波はやがて力を失い、ゆっくりと海に引き戻されていく。それがただゆっくりと繰り返されている。

「海の水も、冷たいのかな?」
 そう呟いて、エルティスは衝動的に靴を脱いでいた。あっという間に裸足になると、靴をその場に残してエルティスは飛び出した。
 波の寄せる砂は水を吸い込んで濃く色付いている。遠ざかっていく波を見つめて、エルティスは少し固くなったそこへ踏み込んだ。
 静かな波音とともに、エルティスの足は海水に呑みこまれる。足首がひんやりとした冷気に包まれた。
「気持ちいい!」
 なんとなく嬉しくなって、エルティスは子供のように水を蹴ってはしゃぐ。ルシータにいた頃も、あの湖のほとりでこんなふうに水遊びをしたような気もする。

 ゆっくり響く波の音が消える。水かさが急激に下がっていくのと同時にエルティスは奇妙な感覚に襲われた。足元が引っ張られる。
「え? え?」
 強い力が足を攫って行くような感覚。エルティスは慌てて下を見た。
 波がすべて退いていって、エルティスの足元に残ったのは紋様のような砂の痕。海水に持っていかれたのはエルティスの足ではなく、その周りの砂だったのだ。
 もう一度波が来て、エルティスの足を海水で洗った。再びエルティスは身体ごと引き寄せられるような感覚に襲われる。わかってしまえば、怖くはなかった。

 遠くから声がして、エルティスは振り向きざま声をかける。デュエールが笑いながらこちらへと向かってくるところだった。
「エル」
「デュー、気持ちいいよ!」
「来てよかった?」
「うん!」
 デュエールも手早く靴を脱ぐと、エルティスの隣に並ぶ。その手には自分とエルティスの靴の他に布巾も握られていた。
「足拭き。砂だらけで靴を履くわけにはいかないから」
「あはは、準備がいいね」
「馬を繋いでエルを追いかけようと思ったら、もう波打ち際に入ってるんだもんな。取りに戻ったんだよ」
 デュエールはそう言ってエルティスに靴を差し出す。エルティスは自分の分を受け取ると、幼馴染みを見た。
 何度も何度も波が二人の足を洗い、遠ざかっていく。デュエールは一瞬驚いた顔をした。
「びっくりするよね。そのまま連れて行かれるかと思った」
「そうだな、でも、確かに気持ちいい」
「でしょう」
 幼馴染みに笑いかけて、エルティスは一面に広がる海を眺める。

 視界に青以外のものはほとんどない。どこまでも果てもなく続き、永遠に広がっているような気さえする。
 湿気と、独特の匂いと、心地よい音をたっぷり含んだ風が水平線の向こうからエルティスとデュエールの周囲を吹き抜けていった。
 彼女が生まれて初めて見るもの。
 エルティスは瞳を輝かせてため息をついた。
「ファレーナって、広いんだね」
 同じ国の中なのに、ルシータとは全く違う場所がある。
 ルシータにいたままなら、この光景を眼前に見ることはなかっただろう。それを思えば、ルシータでの一件も、幼馴染みと離れ離れの時間も、王都での騒動も、悪いものではなかったのかもしれない。

「少し、歩こうか」
 デュエールに促されて、エルティスは迷わず手を繋いだ。足元を海に洗われる心地よさに預けたまま、二人は波打ち際をゆっくりと歩く。
 交わされるのは、本当に他愛ない会話。ルシータにいた頃と変わりないやり取り。
 それでもしっかり繋がれた手が、あの頃とは確かに違うことを教えてくれる。それは決して嫌なものではなかった。
「姉さんはそうだけど、犬神も海なんて見たことないよね」
「そうじゃないか。あの森から出たことないだろうし」
「ジュノンさんはどうかなあ」
「父さんは料理の修行で国中歩いたっていうから、海にも来たことがあると思う。よく、ここでは新鮮な海の幸が使えないってぼやいてた」
「じゃあ、姉さんと犬神にはこのことを自慢しなくちゃ」
 楽しげにエルティスが言うと、デュエールも笑って応じる。
「ここからレンソルまでどのくらいかかるの?」
「王都からここに来るまでと大体同じくらいかな」
「そんなに!?」
 そうして喋り続けて、デュエールとエルティスがふと振り返ると、二人分の足跡が波に攫われて消えていくところだった。馬を繋いだ場所は遙か遠い。
「うわ、もうこんなところまで来ちゃったの?」
「ここをまた戻るのか……」
 げんなりした様子のデュエールに、エルティスはまじまじと幼馴染みの顔を見つめ、そして思い切り笑い出した。

 

 背に負わされているものは何もない。互いを引き離すものもない。
 ―――こうして二人、手を繋いでどこまででも歩いていこう。


ーおわりー
初出 2007.6.2


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