悠久の絆

番外編


ただ今寄り道中



 目の前の建物を見上げて、エルティスは呆然と呟いた。
「……これが、治療院……?」
 その二階建ての建物は、周囲の風景と比較して明らかに異質で浮いていた。
 白い石を積み上げて作られたレンガ造りの館。綺麗に磨き上げられたその石も、このあたりから切り出されたものではないと分かる。エルティスが見てきた限りで、似たような材料で作られた建物はなかった。
 その扉も、貴族の住まいかと思うような華美な装飾が施されていて、ところどころ金や銀が埋められて煌めいている。さらにその上、二階の窓は一部ステンドガラスに神々の像をあしらった絵が浮き上がっている。
 一見、信仰の場かと思わなくもない。だが、既に一般の人々には神々も魔法も遠いものとなっているのは確かで、こんな大々的な社が立てられることはほとんどないのだ。
 そして、ルシータの神官たちはそもそも敬虔な神の使徒、というわけでもなかった。
 この場所で行われていたのは、神々への祈りではなく冨と引き換えの治療行為だ。

 エルティスの横でデュエールも一緒になって館を見上げる。
「まあ、今は誰もいないみたいだけどな」
 デュエールが言ったとおり、治療院と呼ばれる建物は扉も窓も固く閉ざされて、一切人の気配はない。
駄目元で扉に手をかけたデュエールだが、鍵がかけられているようで動く様子はなかった。
 エルティスはその隣の窓から中を覗き込んでみる。薄暗闇の中に棚や机が何とか見えるが、動く人影は見当たらない。
 取っ手を握ったままのデュエールが苦笑した。
「……とはいっても、人がいたところで薬を分けてもらえるはずもないから、ちょうどいいか」
 ここで大きな顔をしていただろう神官たちは不在なのか引き払ったのか。もっとも、ここにいるのはルシータを『滅ぼした』当の“神の子”二人なのだから、彼らがいたところで扉が開かれたはずもないのだが。

 こちらを振り返ったデュエールと目が合い、エルティスはにっこり笑う。
「あたしが行って、中から鍵を開ければいいよね」
「大丈夫か?」
「<アレクルーサ>なら平気だよ」
 風の精霊の力を使った移動の力は、風のないところでは使えない。つまりは出入り口を塞がれた部屋の中では効果を失くすわけだが、神々に近く世界の理を歪め得る<アレクルーサ>はその限りではない。
 それはデュエールもよく知っていることだ。エルティスはデュエールの返答も待たずに封じられている力を解放した。
 全身に満たされていく濃い魔力。<アレクルーサ>としての力の証明として、エルティスの髪は一瞬にして波打ち、光を照り返して銀色に艶めく。同時に遠ざかっていく周囲の空気。この、自分が世界と切り離される感覚だけは、何度繰り返しても慣れることがない。きっとこれが、エルティスをこの世界に引き戻してくれる鍵なのだろうと思う。
 普通の人間には越えられない壁がひとつ。<アレクルーサ>にかかれば大した障害ではない。
「いってきます」
 デュエールに声をかけて、エルティスはあっという間に『飛んで』いた。

 薄暗い部屋の中に足を下ろす。昼夜関係なく周囲を見通せる<アレクルーサ>の目は、床や周囲の棚や調度にうっすらとたまる埃を捉えていた。
 ここ数日で出来上がるようなものではない。ずいぶんと前から放置されているような様子だ。
 神官たちはどうやらここを閉鎖してルシータにでも戻ったらしかった。
「エル?」
 扉の向こうから木を叩く音と不思議そうな声がして、エルティスは我に返る。もともとの目的をすっかり忘れていた。慌てて扉の閂をはずしにかかる。しばらく締め切られていたのだろう扉は、妙に重かった。
 外にいたデュエールの顔が覗き、目が合った、と思った瞬間、エルティスの背後から悲鳴が上がった。
「うわぁ!?」
 少し甲高い、まだ声変わりしていない少年の声。
 驚いたエルティスがデュエールと一緒になって声のした方向を振り向くと、廊下の突き当たった向こうから数人の少年がこちらに顔を出しているのが見えた。そのうちの一人が驚愕の顔でこちらを指差したまま固まっている。
「さっきまで、だ、誰もいなかったのに……!」


「……えっと、」
 扉を開けた姿勢のまま動けずに、エルティスは思わず言葉を飲み込んだ。
 この少年たちの驚きようから、なんとなく彼らの立場を察したのだが、どう声をかけたらよいものか。
 おばけ!? 馬っ鹿、こんなところにそんなのいるわけないだろ!?
 廊下の奥で、少年たちは混乱の極致で言い合っている。何を言ってもさらに拍車をかけそうな気がしていると、ふとエルティスの傍に気配が寄った。
「つまり、人がいないのをいいことに忍び込んだ、ってところか」
 人のことは言えないな、とエルティスの隣でデュエールは眉をしかめる。確かにその件に関してはこちらも言い訳のしようがない。ため息をついたデュエールが、一歩、廊下に踏み出した。
「お前たち、ここがなんだか分かってて忍び込んだのか?」
 デュエールの問いかけに、少年たちはいい争いをぴたりと止める。彼らはひどくばつの悪そうな表情で顔を見合わせた。
 エルティスもデュエールの隣に並んで少年たちの様子を観察する。彼らはちらちらとこちらの顔をうかがっていた。

「あんたたちは、神官じゃないよね?」
 やがて、少年の一人が意を決したように口を開く。エルティスが即座に首を振ると、彼は安堵したように息をついた。
「少し前から、ここに人がいなくなってるのは知ってたんだ。薬もあるらしいって聞いたから、母ちゃんの腰に効くのでもあればいいって、思ったんだけど……」
「俺んところも、ばあちゃんこの頃咳がひどいし、あいつのところも父ちゃんが持病抱えてるからさ、普段治療院なんていけるわけないから、今のうちだと思って」
 少年たちの言葉を聞いているうちに、エルティスは思わず苦笑したくなった。何しろ目的は自分たちとまったく同じだ。デュエールも似たような気持ちだったらしく、こちらはすっかり苦笑していた。
 エルティスは少年たちを覗き込んで聞いてみる。少年たちがぎょっとしたのは、きっとこの髪と瞳の色のせいだろう。だから余計お化けなんて騒がれたに違いない。
「ここ、いつから人がいないの?」
「……一月くらい前から、人の出入りはなくなってた。ここに入れる奴なんてほとんどいないから、誰も気にしてなかったけど」
 エルティスも噂で聞いていた治療院。一般の人間には縁遠い場所だ。だから、神官たちが消えたところで影響はなかったのだろう。
 一月前というと、デュエールと再会した後、第二王子につかまり、王都に連れられた頃だったか。それならこの埃の状態も頷ける。
 エルティスは辺りを見回した。少年たちの探すものが、何か残っていればいいのに、と思った。


 デュエールとエルティス、少年三人とで屋内中を探し回る。目的がどうやら同じだということが分かった後は、少年たちはすぐに二人に馴染んだ。それでも、エルティスに対する距離は微妙だったのだが。
 やがて、五人は大量の瓶が並ぶ棚に辿り着いた。中身は生薬の類だったが、大半は空だったり中身の少ないものばかりだ。おそらく益のあるものはここを去るときに一緒に持ち出されたのだろう。
「……駄目だな。少しでも補充できればと思ったんだけど、そう上手くはいかないか」
 少し疲れた様子で、デュエールが呟いた。その隣で、エルティスはデュエールを見上げる。
「だから、あたしが行ってこようか、って言ったのに」
 一応目的はレンソルと故郷ルシータへ行って無事を報告すること。しかし、道中あちらこちらと立ち寄り、先々で魔法や薬での治療をした結果、デュエールが持ち歩いていた薬の残りが心細くなってきたのだ。
 残念ながらこの街道沿いに大きな森はなく、薬の材料を補充するなら、もう少し南下した方がいい。それでは目的地までさらに遠回りになるとあってデュエールは難色を示した。解決策としてエルティスが出したのが、自分が森へでも飛んでいって採取をしてくるというものだったのだが、これは即座に却下されたのだ。
「そう簡単に言うなよ、あのときとは距離が違うだろ。……だいたい、間違って採ってきたらどうするつもりなんだか」
 最後の言葉が癪に障ったが、事実なのでエルティスは反論できなかった。
 犬神から薬の知識を教わったのは同じなのに、適性はデュエールの方が数段高かったらしい。いいんだ魔法が使えるからと早々に覚えるのを放棄したのは遠い思い出だ。

 デュエールは棚を検分して、瓶のうちの一つを取り出した。祖母の咳がひどい、と訴えていた少年に手渡す。
「これなら、粉末にして煎じれば咳止めになる……あとは道具があるかだけど」
 応じて、エルティスは部屋の中を探し回った。ほとんどのものは処分されるか持ち帰られたかしたようだが、古びた薬研が残っていて、これでなんとかなりそうだ。分銅がいくつか欠けているがはかりも使えそうなものがあった。
 目的のものを得た少年は安堵した様子だが、まだ二人残っている。
 一人は腰、もう一人の言っていた持病というのはどうやらぜんそくらしい。
 デュエールは何かを呟きながら並んだ瓶を見ていたが、ふっとため息をついて俯いた。
「駄目だ。ここにあるのじゃ足りない。俺は医者じゃないから、診断しようがないけど……」
 その言葉に、少年たちが泣きそうになる。エルティスは思わず一歩進み出ていた。

「ねぇ、デュー。……やっぱりあたしが行ってきたら駄目?」
「……」
 エルティスの提案に、デュエールはひどく困った顔をする。困っているこの少年たちを助けたいと思うのは、二人とも同じなのだ。しばらくして、デュエールは諦めたように息をついた。
「……ハルサスの森。そこなら、たぶんあると思う」
「何を採ってくればいいの?」
 デュエールは端においていた鞄から地図と皮袋を取り出す。傍の卓の埃を払って地図を広げると、デュエールは一点を示した。
「ハルサスはここ。一度行ってるから、わかるよな」
 採ってきて欲しいのはふたつだと、デュエールは言う。皮袋から探してくるべき薬草を出してみせて教えてくれた名前を、エルティスは必死になって覚えた。問題は、乾燥しているこれを見て、実際の森から採取してこれるかだが。
「うん。わからなくなったら、『周り』に聞いてみる。だけど……」
 エルティスは地図を見下ろした。今いる街とハルサスは、思っていたより遠い。デュエールが以前言った懸念を思いだして、エルティスは沈黙した。行ったはいいが戻って来れなくなったらどうしようか。
「けっこう、遠いね」
「だから言っただろ」
「……戻ってこれるかな」
 考えてみたら、これほどの距離を飛んだことなど数えるほどしかない。
 できないわけではないのだ。しかし、それはすべてルシータや王子の元から逃げ出したときだとか、意識がなく彷徨っていたときだとか、特定の場所を狙い定めたものではなかった。行き先が描けなければ、いくらエルティスが<アレクルーサ>という特別なものであっても移動は難しいのだ。

 エルティスがふと視線を感じて顔を上げると、こちらを見つめるデュエールと目が合った。
「俺はここから動かないから。俺のところに戻ってくればいい」
 それなら問題ないだろ、とデュエールは笑う。エルティスも頷いて笑った。
 ――それなら、できる。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね。雨とかじゃないといいけど」
 エルティスはいつの間にか話から置き去りにしてしまった少年たちに向かって笑いかける。今から起こることは彼らの予想を超えるだろうけれど、デュエールが上手く話してくれるだろう。
「大丈夫。きっとみんなに必要な薬、作るからね」
 身体に満ちる力からわずかに引っ張り出して、エルティスは風を巻き起こした。
 目指すは、ハルサスの大森林。




 幸いにして、ハルサスの森は晴天だった。とはいっても鬱蒼とした森の中なのだから、空気が水を含むのは仕方がないが。
 どのみち<アレクルーサ>であるエルティスには暗さも湿気も問題ではないから、探索に影響はしない。
「さて、確か広いんだよね、ここ」
 植物を見分けるのが苦手な自分が自力で探していては、おそらく日が暮れてしまう。少年たちのためにも、聞いた方が早そうだ。
 一体何をするのかと興味深げな様子で寄ってきた精霊たちにエルティスは聞いてみることにする。
 当然だが、彼ら、彼女らに人間の生活に関する知識があるわけではない。植物の名前も人間が勝手に呼んでいるもので、彼らにとっては意味を成さない。しかし、どんなものを探しているのかを説明すれば、それに見合いそうなものを教えてくれた。

『ひとには薬になるんだってね』
 ふいとエルティスの肩に寄って来た精霊の声を聞き、エルティスは驚く。エルティスと目が合った精霊は楽しそうな顔をした。
「知ってるの?」
『ここよりちょっと向こうに行った山を治める守に聞いたのよ。ひとのことをよく知ってるのよね。なんだか人間のことも心配してたけど』
 精霊がいうのは北の方らしい。エルティスは思い当たり、思わず聞いていた。
「犬神を知ってるの」
 あれから、ずっと会っていない。<アレクルーサ>だということを教えられた、ルシータの罪を聞かされた、あのとき以来だ。どうしているのだろう。魔力が失われていく、ということはいずれ犬神と交流する術もなくなるということだった。今はまだこうして魔法も使えるから、そんなにすぐのことではないのだろうけれど。
 エルティスの問いに精霊は時々遊びに行く、と答えた。
「じゃあ、今度行ったら伝えてくれる?」
 無事に逢えたから、二人で会いに行くから――この調子で寄り道を続けたら、また先に伸びていきそうだったから。けれどそれを嫌とも思っていないのだけれど。
 わかった、と精霊は応じてくれる。

 彼女がいてくれたおかげで、エルティスは難なく指示された通りの薬草を探すことができた。彼女が他の精霊に通訳をしてくれるので、精霊たちも探しやすくなったのだ。
「ありがとう、おかげで助かったよ」
 お礼を言うと、嬉しそうな笑い声が返ってきた。
 いつものデュエールの様子から予想できる必要量よりも多めにもらっていくことにする。これならあとあとまで使えるだろう。

 咳や腰の痛みや喘息といった病。魔法で治してしまえば早いとは思う。けれど今の自分ではどれほど魔力があっても一時凌ぎのことしかできないのも事実。だから治療院に何か参考になる書物でもないかとは思ったのだけれど。
 それに、自分が魔法でどんな病を癒せるとしても、きっと一部の人しか救えない。同じもので苦しんでいる人はたくさんいて、でもエルティスはそのすべてに手を差し伸べることはできないのだ。その差は、許されるのだろうか――。
 だから、最近デュエールはエルティスにあまり魔法を使わせなくなった。薬で対処できるものにはほとんど彼が手を出している。命を落としかけている人やどうしても薬では何ともできない人たちに出会ってしまったときだけ、エルティスが力を振るうことになる。
 困っている人がいて、自分たちが助けられるなら何とかしたいと思ってしまうのは、デュエールもエルティスも変わりない。けれど、その度に二人で悩むことにもなるのだ。

 木々の隙間からほんのわずかに覗く空を見上げる。日が暮れてきたような気配はない。今すぐ戻れば夕暮れまでに薬を作ることもできるだろう。
「よし、帰ろう」
 大事な薬草を抱えて、エルティスは目を閉じた。地下牢に閉じ込められていたデュエールに会いに行ったときのように、心の中でデュエールのことを想ってみる。
 行きたいのは、待っていてくれる人のところ。
 やがて力が渦を巻いて、周囲に風を呼び起こしていく。風霊の力が遠くにいるデュエールを捉えて、あ、と思ったときにはエルティスは風の力で飛んでいた。





 一瞬にして景色が変わり、エルティスの目に映ったのは埃が清められた室内だった。
 目の前には驚いた様子もなく床に座り込んでいるデュエールと、目を真ん丸くして固まる三人の少年。
 あー、びっくりさせてしまったかと思う。
 どうやら薬を細かくしていたらしいデュエールはにこやかに言った。隣で状況についていけない少年たちを気にした様子はない。
「おかえり」
「ただいま。……びっくりした?」
 どうしたものかと少年たちに聞いてみると、一瞬の静けさの後、妙に頬を紅潮させて騒ぎ出した。
「すげえ、ぴったり!」
「なんでわかったの?」
「兄ちゃん、魔法使えないなんて嘘でしょ?」
 なんでどうして、と賑やかになる室内に首を捻り、エルティスはデュエールを見る。
「……どうしたの?」
「ちょっと魔法めいたことを」
 悪戯めいた表情と共に答が返ってくる。何を言ったのだろうと思いながら、エルティスは袋一杯に詰めた薬草をデュエールに渡した。
「これだけあれば充分だよね」
「ああ、あとは夕方までに作ればいいな」
 手伝いを求められてエルティスは頷き、今度はエルティスも混ぜた五人で薬作りに取り掛かる。なんだかんだ騒ぎながらやったから、結局全部完成したのは陽が完全に沈んだ後だった。



「本当にお金とか要らないの?」
 少年たちはそれぞれ包みを抱えたまま言った。その顔は少し不安げだ。エルティスの隣で、デュエールはなんでもないことのように笑う。
「言っただろ、さっき。……ああ、ただ宿探しをしなくちゃいけないから、本当に泊めてくれるならありがたいけど」
「まかせとけよ! 確か部屋開いてたし、予定の客もないって言ってたから、母さんに頼んどく!」
 デュエールと少年の間で交わされた内容に、エルティスは聞き覚えがない。おそらくはエルティスがハルサスの森で一仕事していたときに話していたことなのだろう。
 わずかに街灯が灯る薄暗闇の中、三人の少年は姿を捉えられなくなるまでこちらを向いて手を振っていた。普通の人間なら見えなくなるところでも、エルティスには見通せる。デュエールにはもう見えていないだろうに、角を曲がるまで少年たちはこちらを向いていた。

 石畳を駆け去っていった三人を見送って、エルティスは笑う。
「賑やかだったね」
「久しぶりにあの村のこと思い出した」
 デュエールが言っているのはサシャという少女を助けたときのことだろう。命の恩人だと村全体に歓待されて、幼子たちに囲まれたのは楽しい思い出。何しろルシータではほとんどなかった経験だ。
「ところで、泊めてくれるって何の話」
「ああ、あの子の家が宿屋なんだってさ。薬作ってたら、きっと部屋を探す時間がなくなると思って」
「……ここでも良かったんじゃない。人いないし、お金もかからないでしょ?」
 エルティスが首を捻ると、デュエールは眉をしかめた。
「あの埃だらけのところでいいならだけど。ついでに今から掃除する気になるか?」
「……それはやだ」
 心底嫌そうなデュエールの声音に、エルティスは調度に降り積もった埃を思い出し、一緒になって眉を寄せる。当然ながら寝台にも同じだけの埃が積もっているわけだ。薬を作ったあの部屋でさえ掃除が大変だったというのだから、考えただけでぞっとする。
 見てはいないものの埃に覆われた寝台を想像して身震いをしたエルティスは、揺れた自分の髪がまだ波打つ銀色のままであることに気がついた。
「あ、あの子たちの前でずっとこのままだった」

 実際慌しく、デュエールに戻してもらう暇などなかったのだから仕方がない。自分で戻れれば一番楽なのだろうが、エルティスは未だに<アレクルーサ>になることはできても戻ることができないでいた。
 本当は自分で自在に変化できるものなのだと思う。自分の中にある感覚もそう告げている。
 それでも、一度自分で切り離してしまった世界に、自分だけでは戻れないのだ。
「……なんで、一人で元に戻れないんだろ」
 デュエールの傍を離れられない。力を解放してしまったら、デュエールの手を煩わせるしかないのだ。だからこそ、エルティスはいつもデュエールに確認してから<アレクルーサ>になる。

 自分の手を見つめて、エルティスは考え込む。と、突然その体が傾いだ。
「エル」
 一瞬後には強い力で引き寄せられて、エルティスはデュエールの腕の中に抱きしめられていた。触れ合う体と耳元から、響いてくる声。
「エルはその方がいい?」
「今だって不便はないけど、その方が便利だし、デューも楽かなって……」
 言葉を遮るように、デュエールの腕の力が強くなる。
 薬作りで忙しかったし、賑やかだったからつい忘れていたけれど、やっぱり今自分は<アレクルーサ>なのだとエルティスは痛感した。触れ合うデュエールの腕も胸も温かいと感じるのに、どこか遠い。
「俺は面倒だと思ったことなんでまったくないよ。エル一人でも、本当は戻れるはずなんだ。そうすると俺は別に必要ないってことなんだけど」
 デュエールの言葉に、エルティスは勢いよく顔を上げた。応じるように背中を拘束する腕の温かさが消える。
「ちが……そういうことを言いたいわけじゃなくて……!」
 見上げた表情が思ったより真剣さを帯びていて、エルティスは言葉を飲み込んだ。

 顔の動きに合わせて揺れた横髪にデュエールの手が触れる。銀色の髪を梳くその指先が耳を滑って、未だ感覚は遠いのに、それに反応したエルティスの心は急に騒ぎ出した。
 前髪が避けられ、デュエールがわずかに身をかがませるのを見て、エルティスは思わず目を閉じる。これから起こることの予感と背中を走るしびれの後、額に口付けが落とされた。
 余分な力が抜けていく、という感覚があって周囲の気配がまたエルティスの元に戻ってくる。横目で見た自分の髪は、亜麻色の真っ直ぐなものに戻っていた。
「触るのの言い訳に都合がいいんだけどな」
 やけに余裕なデュエールの声が癪に障って、エルティスは思いっきり抱きついてやる。といっても逆効果にしかならないとはわかっていたが。
「……言い訳しなくたって、好きなときに触るくせに」
 くすくすという楽しそうな笑いと共に、エルティスは再びデュエールに抱きしめられた。今度は温かさがしっかり伝わってきて、しかも額に落とされた熱がはっきり残っていて落ち着かない。だんだん恥かしくなってきて、やっぱり<アレクルーサ>の方が同じことしてても平気だったと頭のほんの片隅で後悔したりする。
「それは触りたいんだから仕方ないと思うけど」
「だからっ、またそういうこと言う……!」 
 きっと顔はまた真っ赤になっているに違いない。暴れてみるも腕の力はまったく揺るがず、エルティスは諦めて最後の抵抗として顔をうずめて、せめて顔の赤さだけは見られないようにしようとする。
 こうしていつも悩みをうやむやにされてしまう気もしないではない。戸惑うことはたくさんあるのだ。一人では<アレクルーサ>から元に戻れないこと、万能とも呼べる自分の魔法でどこまで人を助けたらいいのかということ……それ以外にもたくさん。
 けれど、こうしてデュエールに名前を呼ばれて抱きしめられて、ついでにからかわれてしまうとすっかりあちらのペースで、エルティスが悩んでいる暇はなくなってしまう。
 だから余計離れられないと思うのだ。たとえ一人で何でもできるようになったとしても、居心地のいいこの場所を、誰かに譲る気になんてなれない。だってそうだろう。『ここ』にいるためにこの世界に残ったのだから。
「とりあえず、片付けてからあの子の家にお邪魔しようか」
 デュエールの提案に、エルティスは顔を隠したままで頷いた。

 心臓の鼓動は、さっき以上に落ち着かない。けれど、これは泣きたくなるほど幸せなこと。
「元に戻す方法だけど、俺も教えられるし、リベルさんに聞いてもいいんじゃないか」
「……いい。しばらくこのままで」
「? どうした?」
「デューに触られるの、嫌じゃないから。……でもたまに心臓に悪いけどっ!」
 あの街にいたままだったら、きっと手に入れられなかったものだと思うから。


初出 2008.4.13


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