二人の物語

第2章 始動




 東の空が白みつつある早朝。オルカリア山脈の麓に広がる穀倉地帯の村レンソルの朝は早い。既に田畑には人々と家畜の姿がちらほらと見えている。
 この空が青々と輝く頃には、もうレンソルの村人達の生活は始まっているのだ。
 だが、今はまだ村は薄暗く、朝もやが白く立ち込めていて、視界は狭い。

 その中、しっかりと旅支度を整えて愛馬を引き連れたデュエールは、オルカリア山への登山道の入り口に立っていた。
 山道は、たぶんここよりも視界が悪いだろう。冷えるかもしれない。けれどデュエールが出立を遅らせなかったのは、この時間にレンソルを出なければ、夕方にルシータにたどり着けないから。
 かつて礼拝者が通るため、そして人々が食料などを運ぶために緩やかに作られたルシータへの道は、馬が楽に通れる代わりにその距離が長くなっていた。そのせいである。

「じゃあ、行きます。ありがとうございました」
 振り返って、デュエールは見送りに出てきた若夫婦に声をかけた。
 烏の羽根のように黒々とした短髪の男性と、肩までの亜麻色の髪の女性―――柔和な雰囲気の水色の瞳を持つ彼女は、彼が知っている人によく似ている―――。女性の腹部は緩やかに膨らんでいた。

 かつては神官としてルシータに住んでいたが、結婚を反対されたためにルシータを捨てレンソルに移り住んだドラーク・ノベランナーとその妻リベル。リベルの妹エルティスの幼馴染みであるデュエールは、彼らとの交流があり、その縁でルシータに立ち寄った際はいつも彼らの自宅に泊めてもらっていたのであった。

「ええ、エルのことよろしくね」
 デュエールの言葉に、リベルはにっこりと笑う。そうすると、その笑顔はエルティスに酷似していた。それぞれの放つ雰囲気が違うから印象が違うだけで、もともとの顔立ちはそっくりなのである。
 その彼女の隣で、ドラークがデュエールに話しかけた。家族と、家族ぐるみで付き合いのあったファン一家以外に、デュエールが唯一気楽に話せる人だ。
「途中、気をつけろよ」
「それと、手紙、渡し忘れないでね」
 かき消すようにリベルは言った。念を押すように強い口調の彼女に、ドラークは隣で苦笑している。
 デュエールは静かに頷いた。幼いながらエルティスの面倒をしっかり見ていた彼女には、彼も逆らわない。
「はい、ちゃんと渡します」
 素直な返答に、リベルは「よろしい」と満足げである。

 デュエールの荷物の奥底には、リベルから預かった手紙が入っていた。昨夜のうちに渡されたものだ。
 巫女姫、神官たちの反対を受け入れず、結ばれるためにルシータを出たドラークとリベルに対し、ルシータの住人は一切の通信が禁じられている。それは親族であるエルティスたちも同様で、たとえ姉妹であっても連絡を取ることはできない。
 ―――表向きは。
 本来はデュエールが二人と会話をしていることや二人の自宅に泊まっていることも許されないことではあるが、厳密な監視がなされているわけではない。
 もともとファン家にかかわりのある人間に対しては冷淡なルシータの住民は、好んでドラークやリベルに関わろうとはしないから、さほどの監視をつける必要はないのである。
 だから、時折行われる荷物の検査さえうまくかわせば、今回のようにデュエール経由でエルティスに手紙を届けることも可能なのだ。そして、こういったことは初めてのことではなかった。

 さきほど新妻に言葉を邪魔されたドラークは、あらためてデュエールに声をかけた。神官だった頃は長く伸ばしていた髪は、実はくせっ毛だったらしく、時折吹く風に短く踊っている。畑仕事で日に焼け、さらに精悍な印象になった青年は、人懐こく笑った。
「まず、気をつけてな。ルシータの方角、なんだか嫌な空気が流れているし、油断しないことだ」
 ドラークの言葉に、リベルも軽く頷く。若手ながら実力は十二分にあると言われていた元神官二人がそう感じたのなら、間違いない。デュエールはしっかりその言葉を受け止める。

 それなりに整備され、警護も行われているからといっても、治安がいいわけではない。ときおり手負いの獣が迷い込んでくることもあるし、物取りやら物騒なものもいる。精霊の加護なのか元来の運の良さかはわからないが、デュエールが旅の間出会うことが少ないだけである。
 あらためて気を引き締め、デュエールは愛馬の手綱を引いて促した。この山道を馬に乗ったまま行くのは辛く、共に歩いていかなければいけない。
 最後に並び立って見送る夫婦に手を振って、デュエールは歩き出した。




 エルティスの視界に浮かぶ光景は、自分の周りにある森と酷似している。『彼』の目の前に広がるのは緩やかな上り坂と、両脇に鬱そうと茂る樹々の黒に近い緑。
 もうすぐ、帰って来る。

 デュエールがレンソルを出発した朝から、エルティスは鼻歌を歌いながら仕事をするほどご機嫌だった。近くを通りすがる神官たちが一瞬怪訝な表情を向けるほどに。
 おかげでエルティスが掃除をして回ったところは、陽の光を照り返し輝くほどに磨き上げられている。
 仕事が早く終わらないかと彼女が思うのはいつものことだけれど、これほどまでに強く思ったのは初めてのことだ。
 仕事帰りの夕方、いつものようにこっそり門のところで、「お帰り」と言ってデュエールを出迎えるのだ。太い樹の梢に腰を下ろして上から声をかければ、驚いた彼はこちらを見て屈託なく笑うに違いない。
 一番最初に彼の姿を見るのは自分。ささいなことだけれど、エルティスにとってはわずかな幸せである。

 仕事が上がるのが楽しみで仕方なかったエルティスだが、昼の休憩が終わったところで珍しく神官に声をかけられた。
 巫女姫がエルティスを呼んでいる、と。
「巫女姫様が?」
「ええ、謁見の間でお待ちです。すぐに行くように」
 さらっと言われ、エルティスは首をひねる。神殿の最高権威、巫女姫カルファクスが一体何の用だというのだろう。彼女は神官でもなく、カルファクスの身の回りの世話をするのはそれなりの高位の女官なのだから。
 しかも、巫女姫が待っているのは謁見の間だという。単なる小間使いでしかないエルティスにはとにかく無縁の場所だ。
 だが、巫女姫が待っているという以上、エルティスは行かなければならない。慌てて使っていた道具類を邪魔にならないようまとめると、エルティスは謁見の間へ向かって走り出す。
 厳粛な神殿の通路を動物のように駆けていくエルティスを、声をかけた神官が呆れた様子で見送っていた。


 エルティスが謁見の間に入るのは今までで二度目。以前叩き込まれたはずの扉の開け方の作法を、おぼろげな記憶からなんとか引っ張り出し、エルティスはゆっくり謁見の間の扉を開いた。開けた瞬間に中から流れ出てくる、外とは違う温度の空気。
 中には巫女姫カルファクスと、長い間彼女に仕える神官の老女が控えていた。他には誰もいない。

「エルティス・ファン、ただいま参りました」
 実は巫女姫に挨拶するのもエルティスは苦手である。作法があまり得意でない、というのもあるのだが、娘を持つ母でありながら若さに溢れる彼女のその輝く瞳が常にエルティスを射るように見つめている気がして、なんとなく嫌だった。
「よく来ました、エルティス。今日はあなたに頼みたいことがあり、召喚したのです」
「あた……私に、ですか?」
 エルティスは目を瞬かせた。やはり理由がわからない。
「この街の外れ、山肌の露出した部分に祠があるのは知っていますね」
「はあ……」

 エルティスは巫女姫に言われた祠を思い出してみる。祠といっても祭られている神はなく、代々の巫女姫が儀式をするのに使った場所であるらしい。らしい、というのはエルティスが政とはほとんど無縁だからである。
 ずいぶんと奥まで伸びる横穴の一番奥に、小さな祭壇があり、その場所で祈りを捧げ、神に恩恵を乞いそして感謝するのだという。

「わたくしは、明日そこで儀式を行います。そのために、魔力封じのあの場所に新たな魔力を導かなければなりません」
 そのための準備として、誰かが神具を祭壇へ持って行き祀ってこなければならない。
 祠が魔力封じと呼ばれるのは、そこに溜まる魔力は全て神々と繋がるために使われるため、他の魔法などの用途には一切使えないからである。精霊達も、その場所では姿を一切見ることができない。
「強い魔力を持つ高位の神官は皆出払っていて、その役目を担える者がいないのです。あなたは、五精霊を操るほどの魔力を持っているそうですね。元神官のリベルから、以前聞いたことがあります」
「……は、はい。そうですが……」
 カルファクスの質問に答え、エルティスは唖然とした。ルシータから追放同然に出て行き、触れることを禁じられている姉の名を、まさか巫女姫自身から聞くとは思いもよらなかったのだ。

 巫女姫はエルティスの様子を気にする風もなく続ける。
「奥の祭壇まで行き、神具を供えて祈りを捧げてくるだけでいいのです。あなたが持つ魔力が祠を満たし、明日わたくしが儀式を行う助けになります」
 行ってくれますか、とカルファクスは尋ねる。やはりいつもと同じ射るような瞳がエルティスを真っ直ぐ見つめていた。
 拒否するすべが、あるはずがない。エルティスは静かに頷いた。
「はい。……あの、明日の儀式ということは、今から?」
「そうなりますね。急ではありますが、今から行くしかありません」

 巫女姫は神官に用意をさせる、とエルティスに告げる。老神官がエルティスを別室へ案内してくれた。
 中には女官がおり、待っているからと扉の前で老神官はエルティスを促す。
「お気をつけて、お勤めなさいませ……」
 最後にかけられた言葉に、エルティスは振り向いた。もう既に背中を向けおそらく巫女姫の元へ戻っていく老神官が、一瞬こちらを見たときの瞳が忘れられない。何故、そんな目を向けるのだろう。
 労わるような、何かを申し訳なく思うような、そんな瞳を。


(初出 2003.8.21)


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