二人の物語

第3章 覚醒




 物心ついたときから、デュエールとエルティスは"神の子"と呼ばれていた。
 だが、彼も彼女も知っている。
 その名称で呼ばれるのは信仰のためではなく、恐怖と敬遠のためであることを。


 神殿のある中心部に向かって、デュエールは走っていた。
 辺りは人影ひとつ見当たらずしんと静まり返り、自分の吐息と石畳を蹴る音以外聞こえない。
 人口五百人程度の街とはいえ、まだ陽も残るこの時間に神殿周囲に誰もいないのはおかしいことだった。少なくとも、仕事帰りの人や遊びまわる幼子の姿くらいはあるはずなのに、夕陽に赤く照らされている街並みには誰の姿もない。
 辺りに視線を時折向けながら、門の入り口から神殿までの大きな通りをデュエールは駆けていった。風を受けて翻る旅装束のマントがうっとうしいほどの勢いで走る。
 視界に入る建物のことごとくが、扉も窓も硬く閉め切っているのは気のせいだったか。
 既に見えなくなった先ほどの神官たちの行き先を当然デュエールは知らない。それでも、騒ぎになっているところに行けば、そこがさっき話題になっていた<祈りの祠>であり、エルティスがいる場所のはずであった。
 <祈りの祠>という名前を、デュエールは初めて聞く。
 魔力も持たず、神官でもない自分には、間違いなく無縁の場所だ。それでもミルフィネル姫が合間を縫って話をしに来るおかげで、ある程度神官や政の様子についてデュエールは知っていた。
 その話の中にも、<祈りの祠>という言葉は一度も出てこなかった。
 何をする場所なのかも、デュエールは想像がつかない。そんな場所に、魔力を持っていても神官ではないエルティスは、何をしに行ったのだろう。

 街の中心部であり、中央に巨大な柱を抱く神殿にたどり着こうとする頃、デュエールは神殿のさらに向こう、山肌と街が接する場所に人だかりができ、ざわめいているのを見た。
 考えてみれば、山肌の土が露出した部分に、しっかりと石組みで作られた入り口があったことをデュエールは思い出す。魔法に縁のないデュエールはもちろん入ったことなどなかったが、あれが祠でありその奥に何かが祭られているのだろう。
 祠があるはずの場所を取り巻くように神官たちの姿があった。その数は両手を遥かに越えていて、中には巫女姫カルファクスやミルフィネル姫の姿も見える。
 彼らが見つめる中心部にあるのは土砂が崩れている山肌。確かにあった石組みの入り口は跡形もない。
 デュエールが神官たちの作る輪の最後尾にたどり着いたときには、すっかり息が上がっていた。


 しかしデュエールが彼らを見つけてから今まで、誰一人として崩れた祠の入り口に近付こうとしていない。神官たちは今いる場所でひそひそと何事かやりあうばかりだった。
「神の子がこの中にいるのは確かなのか」
「ああ、女官が二時間ほど前に案内したと言っていた―――」
「轟音がしたのが、それから間もない頃だったが……」
 つまり、それから二時間このままだったということか。
 エルティスがここに閉じ込められたことを早々に知りながら助けずに、あまつさえ大人数で囲んで眺めているだけ―――。
 誰も彼がいることに気付いた様子はない。神官たちのささやくような会話を聞いて、デュエールはぎりっ……と歯噛みする。次の瞬間、自分が思っていた以上の大声で、デュエールは叫んでいた。
「―――そこにエルティスがいるのがわかっていて、どうして誰も助けに行かない!?」




 真っ暗闇の中、エルティスは瞳を閉じて崩れた土砂に寄りかかって座り込んでいた。
「どのくらい経ったんだろう……」
 声と共にこぼれる吐息は荒い。額に滲む汗。
 ただ黙っているのも我慢ならず少しでも土を掘り起こそうとしたものの、崩れ落ちた土砂は固く、いくらも掘り進まないうちに疲れきってしまったのだった。
 エルティスの握り締めた短剣の柄は土にまみれ、両手はもちろん爪にまで土が入ってしまっている。この手で何度も汗をぬぐっているから、あるいは顔も酷く汚れているかもしれない。

 外の音も、中の洞窟の音も、何ひとつ響かない。
 時間の感覚も既に失われていた。土砂が崩れているのを見つけたのはついさっきだったような気もするし、もう何日もこうしている気もする。
 自分の吐息の音すらも、この闇の中に一瞬にして溶け込んでしまう気がした。このまま、自分の身体も、闇の中に消えてしまいそうな。
 誰かが、祠の入り口が崩れたことに気付いただろうか。自分がいないことに気付いて、捜してくれるのだろうか。
 ―――誰が?
 両親はいない。姉はレンソルにいる。幼馴染みは仕事で不在。そしてジュノンは仕事で夜まで神殿を出ることはなく、日中エルティスと顔を合わせることもない。
 それで一体誰がエルティスがいなくなっていることに気付くというのか。

 全身を襲った悪寒を振り払うようにエルティスは思い切り首を振る。ふとエルティスはあることを思い出した。
(大丈夫よ、巫女姫様は『明日』儀式をすると言った。だから遅くたって、明日には助けてもらえるはず。デュエールが帰ってくるなら、もっと早く助けてもらえる……)
「そうだ、今日、デュエールは帰ってくるんだ……」
 この仕事を言いつけられる前は片時も頭を離れなかったことなのに、土砂崩れに巻き込まれるという衝撃で今まですっかりデュエールのことが頭から消え去っていたらしい。
 祠に入る前から、デュエールがどこにいるのかエルティスは確認していない。あの速度でなら、もうルシータにたどり着いていてもおかしくはないはずだ。

 慌てて、エルティスはデュエールの視界を手繰り寄せる。
 いつもと同じようにきつく閉じた瞼の裏に、遠く離れていても繋がっている幼馴染みの見ている光景を呼び出した。
 ―――何よりも一番最初に飛び込んできたのは、崩れ落ちた山肌。
 デュエールが真っ直ぐ見つめているものは、石組みすら巻き込んで崩れ落ちた、無残な祠の入り口跡だった。
 白い装束をまとった神官たちが円を描くようにその場所を取り囲んで視界を遮っているのがわかる。彼らはそこから一歩も動くことなく何事かをひそひそ話していた。神官たちに守られるように輪の中にいる巫女姫とミルフィネル姫の姿。
 同時に、エルティスは二ヶ月ぶりに懐かしい声を聞く。それは、珍しく怒りの響きを伴っていた。
『そこにエルティスがいるのがわかっていて、どうして誰も助けに行かない!?』

 帰ってきた? すぐ傍に、いるの?
「デュエール!?」
 寄りかかっていた土砂から跳ねるように起き上がり、エルティスは外の方角へ向き直った。
 デュエールも、この光景を見ている。すぐ傍にいる。
 エルティスには、厚く崩れた土砂の向こうに、懐かしい幼馴染みの姿が見える気がした。一体二ヶ月の間にどれくらい髪が伸びただろう、日に焼けているだろう。
 本当は、誰よりも先に、門でデュエールを出迎えるはずだったのに。
 どうしてこんなことになったのか。
 ふと、エルティスは思いつく。
「神官たちも、巫女姫様も、すぐそこにいた……」
 ルシータの民達は、祠が崩れたことを知っていた。少なくとも、明日巫女姫が行う儀式のためにここは必要なはずなのに、どうして彼らは土砂を取り除こうともしていなかったのだろう。




 その声が響いたとき、誰もが驚いてその声が聞こえた場所を振り返った。
 巫女姫カルファクスもミルフィネルもその中の一人だった。彼女らは、この声の主が近日中に帰ってくることがないと確信していたから。
 カルファクスは驚きを隠せないままに振り返る。その視線の先では、肩に着くほど伸びた茶色の髪を風に揺らした旅装束姿の青年が、深緑の瞳でこちらを睨みつけていたのだった。
「デュエール、あなた、帰ってきて―――」
 思わずこぼれた自分のうめき声は、カルファクス自身にも予想外だった。
 エルティスの話では、まだレンソルにもたどり着いていないのではなかったのか。
 風が彼らの間を吹き抜けて、デュエールを包み込むマントを揺らす。幻ではない、間違いなく本人。

 カルファクスにすれば、完全な誤算だった。
 デュエールが―――もう一人の"神の子"がいないからこそ、計画を実行に移したというのに。彼が帰ってきた以上、カルファクスが描いていた台本は意味がない。
 カルファクスの動揺は、小波となって周囲の神官たちへと広がっていった。水を打ったようにしんと静まり返っていた周囲が、途端にざわめき出す。
「どうして、それだけ人が集まっていて誰もエルティスを助けようとしないのですか。挙句の果てに二時間以上も放置して!?」
 ぼそぼそと言葉をやりあうだけの神官たちに苛立ったのか、デュエールの言葉が怒気をはらむ。瞳に宿る光は射抜くかのように鋭い。

 彼が言っていることは至極正論である。魔法の使えない祠の中、閉じ込められているのは年若い娘が一人きり。彼女は別段体を鍛えているわけでなく、自力でこの土砂をどけ出てくることもできない。
 比べてこちらは大人数だ。力のある男性も数多くいるし、魔法で土砂を取り除くことさえできる。普通なら、今頃は土砂をどけて中の人物は助け出されているに違いないのだ。
 閉じ込められている彼女が、滅びと繁栄の予言をその身に併せ持つ"神の子"の娘でなかったなら。
 彼女がエルティス・ファンでさえなければ二時間も閉じ込められることはなかったはず。否、彼女がエルティス・ファンであるからこそ、祠に行くように命じられたのだ―――。
 デュエール・ザラートの言葉は間違いなく正しい。だが、助け出すべき人がエルティス・ファンである限り、ルシータの民にその正論は成り立たないのだ。

 カルファクスは黙ってデュエールの目を見つめ返した。彼女が言おうとしていることは、間違ってはいない。
「……わたくし達がここでこうして手をこまねいているのは、彼女が滅びを呼ぶ娘だからなのです」


(初出 2003.9.11)


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