二人の物語

第6章 真実




 口付けによる誓いを果たさないままに、婚約式は一時中断せざるをえなかった。
 カルファクスがそれを宣言すると、目の前にいたミルフィネルはあからさまに不満そうな顔をしたが、大事な娘の反応がどうあろうと今はそれどころではない。
 もともと目的があって急遽用意された、簡素なものなのだ。後日、正式に婚約式を行えばいい。

 神々の前に、デュエールは誓いをあげた。エルティスと関わりを持たないこと、ミルフィネルと婚約すること。神々への宣誓は、守られるべき約束ごとになる。
 彼がルシータの民であり他のどの部族よりも神々に親しむ以上、それが最も大きな束縛となることを、カルファクスは知っていた。
 デュエールは二度とエルティスに関わらない。<器>の協力のない<アレクルーサ>に、ルシータを滅ぼすことはできないのだ。ルシータは滅びから免れる。

 それでも、カルファクスにとってエルティス―――<アレクルーサ>が姿を消したという事実は恐怖に値した。例え彼女が今ルシータを滅ぼすことができなくても、その血が続く限りは、カルファクスたちの戦いは終わらない。
 何より、エルティスを失うということは、神々に捧げるべき最も適した存在を失うということだ。
 <柱の結界>がその力を弱めつつあると知ってから約百年。その間<結界>を維持するために生贄として捧げられた人々は数十人にのぼる。最後の生贄が選ばれてから二十年以上の時が経っており、<結界>の力を保つための魔力は、既に尽きようとしているはずだった。
「今、行きます。あなたたちは神殿内の捜索を」
 入り口に立ったままの蒼白な顔の女官にそう告げると、カルファクスは静かに壇を下りた。まず、エルティスが本当に消えてしまったのか、自分のこの眼で確かめなければならない。

 デュエールは表情を険しくしたまま立ち尽くしている。カルファクスは通り過ぎざま、念を押すつもりで声をかけた。
「エルティスは私たちが捜します。あなたは手を出してはいけない。―――神官たちの行動を、覚えていますね?」
 神官たちはエルティスを傷付けようとした、彼女を助けようとしたデュエールごと。止めたのは巫女姫の一声。再び神官たちが暴走することがあれば、デュエールでは止められない。
 十分に理解できているからだろう、動き出そうとしたデュエールはそのまま凍りついた。その緑色の瞳に、焦りの色が浮かんでいるのをカルファクスは確かに見る。
 その彼の隣に立つミルフィネルは、こちらの様子を伺っていた。頷いて返すと、カルファクスは女官が既にいなくなった扉へ向かって歩き出す。後ろからついてくるミルフィネルの靴が床を叩く音を聴きながら、カルファクスは広間を出た。


 その場所に辿り着いたとき、既に辺りは動き回る人々で騒々しかった。
「巫女様!」
 目的の部屋の扉の前に立つまだ若い女官は、カルファクスに気付くと慌てて一礼をする。それに軽く礼を返すと、カルファクスはミルフィネルとともに部屋に入った。
 部屋の中は綺麗なものだった。この部屋にいたはずのエルティスが寝台から起きるときめくりあげただろう布団以外は、椅子や卓や、部屋を飾る装飾品までどれひとつとして動かされた形跡はない。窓も破られておらず、もちろん扉の鍵が壊されていることもなかった。エルティスをここに閉じ込めたときと、まったく変わりない光景。
「一度、大きな声のような音が聞こえたのです。それきり静かになって……相談し、確認のため鍵を開けましたら、既に姿は……」
 カルファクスの耳に、女官の報告は遠く響いた。その内容を聞かなくとも、彼女にはこの光景を見るだけで充分だったのだ。

 窓は外から開かないように固定していた。椅子か何かで窓を破らない限り、そこから出ることはできないはずだった。
 扉には外から鍵がかけてあった。鍵開け道具となるような細い棒状のものが部屋にないことも、エルティスがそういったものを持っていないことも確認してあった。
 エルティスが空間移動をしてのけるほどの魔法の素質の持ち主でも、空気の大きな流れのない場所からは移動できない。閉鎖された空間から、外へ出ることはできないのだ。
 外へ出るには窓か扉を破るしかないはずだった。しかし、そんな形跡はまったくないのに、エルティスの姿だけがない。それが何を意味するか。

「お母様……まさか……」
 ミルフィネルが、掠れた声で呼びかけてくる。カルファクスが隣にいる娘を見ると、彼女は先ほど婚約式の最中に報告に来た女官よりも蒼白な顔をしていた。
 ある程度の説明を受けているミルフィネルですらこの反応なのだ。それ以上の真実を知っている自分は、もっと蒼白な顔をしているのかもしれない。
 なるべく感情がこもらないように、動揺が見えないように、カルファクスは抑揚のない声でそっと呟いた。
「<アレクルーサ>は、完全に覚醒してしまったのかもしれません」
 たとえエルティスであっても、この閉じられた空間からでることはできない。
 だが、それがもし、地上に降りた神々の一族であるなら? 人間には持ちえないほど強大な魔力を抱える<アレクルーサ>ならば? 
 そして、現にエルティスはこの部屋のどこにもいない。
 周囲にいる女官たちに、明らかな動揺が走る。ざわめきが波のように引いていき、辺りはしんと静まり返った。

 それでも。カルファクスにはまだ勝ち札がある。
 デュエールが―――<アレクルーサ>の<器>である彼がこちらにいる限り、ルシータの滅びもまたありえないのだ。
 女官たちもミルフィネルも、動きを止めてカルファクスを見つめていた。
 彼女たちを、そして自分を安心させるために、カルファクスは穏やかな笑みを浮かべて告げる。
「まだ、終わりはしません。私たちにはデュエールがいる。―――彼のところへ戻りましょう」



 巫女姫と、ミルフィネル姫が部屋を出て行く音を聞きながら、デュエールは固まったままだった。
 ―――神官たちの行動を、覚えていますね?
 巫女姫の言葉を反芻して、きつく拳を握り締める。
 覚えている。忘れられるはずがなかった。
 エルティスと、そして彼女を護ろうとした自分に向けられた、殺意とも思えるほどの敵意。一度目は、巫女姫が止めた。しかし、次はないに違いない。
 デュエールがエルティスに近付こうと、関わろうとすればするほど、神官たちはそれを止めようと暴走する。デュエール自身の力では、エルティスを護るどころか被害を大きくするだけなのだ。
 だから、神官を止めることのできる巫女姫に委ねた。エルティスを助けるために、自分のすべてと引き換えにして。……けれど。

「……っ!」
 神官の衣装を揺らして、デュエールは身を翻した。真っ直ぐ引かれた絨毯を蹴って、先ほど自分が入ってきた入り口から飛び出す。
 通路は、神官や女官が走り回り、慌ただしい。ぐるりと巡らせた視界の端に黒髪の女性二人が廊下の角を曲がって姿を消すのをとらえると、デュエールはそれを追って走り出した。動き回る神官たちの間を素早くすり抜けていく。
(エルティス……)
 本当に姿を消してしまったのか。どこへ行ってしまったのか。確認しなければならない。
 デュエールが巫女姫たちの曲がった角にたどり着いたときには、既に彼女たちの姿はなかった。それでも、どこに行ったのかは十分に見当がつく。
 先行する巫女姫たちを追い、デュエールは神殿内を駆け抜ける。仕事の命令を請けるときに出入りする見慣れた場所を抜け、勢いに任せて見慣れぬ通路に飛び込もうとしたとき、背後から声が響いた。
「デュエール殿、いけません! そこは巫女様の居住区域です!」

 鋭いその叫びに、デュエールははっと我に返る。慌てて立ち止まり確認すると、確かに巫女姫とミルフィネル姫の住む居住区域だった。彼女たちと女官、そして神官の中でも一部の女性しか入ることを許されない区域。どれだけ高位の神官であっても男性は立ち入り禁止なのだ。
 デュエールはここから先へは入れない。そして大部分の神官も。だからこそ、エルティスは安全のためこの中に閉じ込められていた。
 巫女姫か誰かが戻ってくるまでは、中の様子を知ることもできない。
 全力で走ったせいだけではない呼吸の乱れを整えるため深呼吸を繰り返すと、デュエールは通路の壁に寄りかかる。どれだけ呼吸を繰り返しても、いつもより速い心臓の鼓動はまったく治まらなかった。

 巫女姫とミルフィネル姫が居住区域の奥から姿を見せたとき、デュエールの呼吸はまだ荒く、肩はゆっくりとではあるが大きく上下していた。
 気が遠くなるほど待ったような気もしたが、実際それほど時間は経っていないのだ。
 二人の後ろに続いてくるのは、どこか不安げな様子の女官たち。亜麻色の髪の幼馴染みの姿はなかった。つまりはエルティスは閉じ込められていた部屋にはいなかったということだろう。
 巫女姫が戻ってきたらデュエールはエルティスのことについて尋ねるつもりでいたが、わざわざ口にしなくても巫女姫たちの様子で想像はつく。

 一体、エルティスはどこへ消えたというのだろう。彼女は生まれてこの方一歩もルシータの領地内から出たことがないのだ。姉のところへ行ったのでもない限り、ルシータ以外に行く場所はない。
 ぼんやりとめぐらせていたデュエールの思考は、勢いよく靴が床を蹴る音と背後から響いた叫び声に遮断された。
「巫女様! 神殿内に<アレクルーサ>の姿はありません!」
 声の主を捜して、デュエールは後ろを振り返る。慌ただしく駆け込んできた一人の神官がそこに立っていた。額には汗がにじんでおり、おそらくは神殿中を走り回っていたことが判る。
「自宅は確認しましたか?」
「今、数名が確認に向かっております!」
 巫女姫の質問に対し素早く答えると、その神官はくるりとデュエールたちに背を向けて走り去ってしまう。またエルティスの捜索に戻るつもりなのだろう。

(エルティスは……)
 デュエールは、エルティスが家に帰ったとは思えなかった。彼女にしてみれば、何が起こったのかかけらも理解できていないに違いない。たった一人でその混乱に耐えうるか。
 このルシータで、今彼女が行くことのできる場所といったら。
 もうそこしかないはずだった。
 呼吸はすっかり落ち着いていた。まだ心臓の鼓動は元に戻らないが、それは疲れのせいではない。全力で走っても、まだ大丈夫だ。

 デュエールは何かをささやきあっている巫女姫たちに背を向ける。
 もう、神官の誰かはたどり着いてしまったかもしれない。そのうち、巫女姫のもとにもエルティスの居場所が知らされるかもしれない。けれど、そんなことはどうでもいい。それだけの時間を、待っていることすら耐えられない。
「デュエール、どこへ行くの?」
 その声と、デュエールが神殿の床を蹴ったのはほぼ同時。ミルフィネル姫の叫びを背に聞きながら、デュエールは目的の場所へ向かって走り出していた。



 玄関に鍵はかかっていない。扉に手をかけ軽く横に動かすと、玄関の扉は何の抵抗もなく開いた。
 <アレクルーサ>の自宅の捜索を任された神官二人は、顔を見合わせ頷くと、そっと中を覗き込む。
 夕暮れを間近に控え、外はまだ充分明るいものの家の中は薄暗かった。ひんやりと冷えた空気が満ちており、物音ひとつしない。<アレクルーサ>が誰かが捜しに来ることを考えて息を潜めているのではない限りは、誰かがいるとは思えなかった。
 だが、万が一、ということもある。任務を果たさなければいけない二人は念のため家の中に入り、すべての部屋を見て回る。
 どこも静かなものだった。彼ら二人が扉を開ける音以外は何も聞こえず不気味なほどに静まり返っている。

「いない、な……」
 そう呟く神官は、<アレクルーサ>がここにいないことでどこか安堵している自分を自覚した。任務だから抵抗する気はないが、だからといって本当に<アレクルーサ>に出会ってしまった場合、彼には何の対抗策もないのだ。本音としていきなり滅ぼされてしまってはたまらない。
 正確に言えば、彼は<アレクルーサ>がどのような方法を以ってルシータ、そしてそこに住む彼らを滅ぼすのか知らなかった。ただ、<アレクルーサ>を宿すエルティス・ファンにより自分たちの生活が脅かされると聞かされているだけで。
 けれど、滅びるということは今までの穏やかで裕福な生活が完全に崩れるということだろう。神官として仕事も充実していて、妻がいて、もうすぐ子供も生まれる彼にとって、それだけはなんとしてでも防がなければならなかった。

「<アレクルーサ>は、どこへ逃げたのでしょうか……?」
 一緒にいる、彼の後輩に当たる神官が尋ねてきた。その質問に、彼は思考を巡らせる。
「<アレクルーサ>は昔から外へ出て行くのを禁じられている。行く場所があるとすれば、このルシータの領地内だけだろう」
「では、<アレクルーサ>は誰かのところへ?」
「親しいものは限られている。デュエール・ザラートは、ミルフィネル様と一緒にいるはずだ、だとすれば……」
「それでは、<アレクルーサ>がいる場所というのは」
 後輩の声に応え、彼は顔を上げある方向を見た。
 視線の先にあるのは、かつては神々の祀られていた祀りの森。ルシータを包みこの地の水源である湖を抱える、ルシータにとっては大事な森だ。
 この森は犬神と呼ばれる知性持つ山犬によって統治されている。その犬神と<神の子>たちが旧知の仲であることは、一部の人間には知られていること。
「……あそこだ、あそこしかない!」
 その瞳に木々の濃い緑を映して、彼は叫んでいた。


初出 2004.3.18)


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