二人の物語

第7章 断罪




 何かが焦げる臭いに包まれて黒い煙の中を抜けると、目の前は一面の火の海。
 エルティスがよく出入りする森の入り口は、激しい炎に包まれていた。
 風もないのに赤々とした炎が木々の間を踊り狂う。飲み込まれた木は、次の瞬間には崩れそうなほどに炭化しもろくなった無残な姿へと変わっていく。
 少し離れたところにいるにもかかわらず、炎の熱がエルティスと犬神を容赦なくあぶってくる。
 一瞬、炎に包まれたリアーナの記憶が蘇りかけ、エルティスはぎゅっと犬神の毛を握り締めた。
 違う、ここはあの祠じゃない、祀りの森だ。
 犬神が立ち止まる。エルティスは素早くその背から飛び降りた。

 二人が見ている前で、次々と森が焼かれていく。炎の向こうには、何も残っていない。すべて呑み込まれ焼き尽くされてしまったのだ。
「ひどい……」
 これは、自然の燃え方ではない。エルティスはこの炎に魔力が関与していることを直感で悟った。つまり、放っておいても鎮火しない。すべてを焼き尽くすまで、止まらないだろう。
 誰がやったのか、そんなことは問うまでもなかった。他に誰がいるというのだろう。
「神官たちなのね!?」
『なんと馬鹿なことをするものだ……』
「ルシータはこの森に守られているのよ、そんなこともわからないの!?」
 犬神の嘆きを打ち消すように、エルティスは叫んだ。この祀りの森とその中にある湖とが存在してこそ、こんな山奥に人が住むことができるのだ。
 この地を切り開いた巫女と神官の血を継ぐ彼らなら、承知のことだと思っていたのだが。

 それに答える犬神の声に静かに怒りがにじみ出ていることをエルティスは感じ取った。
『<アレクルーサ>への恐怖が、それを上回っているからだろう』
「そんなに……?」
 続けて何かを言おうとして、エルティスはそこで言葉を切った。
 壮絶な音を立てて目の前で木が倒れる。吹き上げる炎はさらに周囲を巻き込んで森の奥へと進もうとしていた。
 悠長に話をしている場合ではない。放っておけばどんどん延焼していくだけだ。まずはこの火を消さなければ。
 水が要る。この火を打ち消すための大量の水が。
 考える時間は必要なかった。エルティスの脳裏にすぐに映像が思い浮かぶ。
 この森にある湖。ルシータの水源でもあるあそこに湛えられた水なら、これだけの火を消すにも十分だ。だが問題は、それだけの水をどうやってここに運んでくるか。
(湖がある。水はある。でも、どうやってここに持ってきたら……)
『お前さんならできるかもしれんよ』
 考え込んでいたエルティスは、犬神の言葉に顔を上げた。
『水霊にいつものように働きかけてみるといい。お前さんは<アレクルーサ>、人間には持ちえぬ膨大な力を持つ者だ。人間には不可能なことも、お前さんになら……』
 犬神は真っ直ぐこちらを見つめている。その瞳には揺ぎない自信が宿っていた。
 今までの自分と何が違うのかはまったく実感できなかったけれど、エルティスは犬神の言葉を受け入れて実行することにする。

 エルティスはゆっくりと目を閉じた。
 露出した肌から伝わる熱い空気。焼かれる木々の声なき悲鳴が伝わってくるかのようだ。
 不思議なことに、目を閉じていても森の様子が手に取るように分かる。焼け落ちて命が奪われた場所、炎から逃げ出した動物たちがざわめいている様子、まだ出来事を知らず穏やかな様子でいる森の奥の精霊たち。
そして、この騒ぎにもなんら変わりなく水をたたえる湖もその中にとらえることができた。エルティスはその場で気紛れに踊る水霊たちの気配をつかむ。
 今までそんなことはできなかったのに、エルティスは声の届かぬ遠く離れた場所にいる精霊たちに呼びかけた。願うよりももっと束縛の強い、命令にも似た圧力で水霊に訴えかける。
 ―――森が焼かれている。人間たちの手により焼かれている。火霊の力を使った魔法の炎で。このままでは森がすべて失われてしまう。だから、どうか、力を。
 答えがあったような、気がした。
 一瞬にして、エルティスの体が熱くなる。炎にあぶられているからではなく、自らの内から生まれる熱さだ。同じ感覚を、エルティスは一度味わったことがあった。
 祠で意識を失う直前に感じた突然の熱さと同じ。
 自分の中にある魔力が爆発的に膨れ上がり、行き場を探して暴れまわっているような気がする。
 だがあのときと違うのは、エルティスがその熱さに呑み込まれずにいること。自分の中に溢れかえるその魔力の使い方を、エルティスはごく当たり前のように理解できた。
 この魔力を使って、湖の水を呼べる。この強大な力で引き寄せられる。
 方法を理解したエルティスは躊躇わず、それを実行に移した。
「この火を消すのよ!」
 エルティスはその言葉と同時に押さえつけていた枷を解き、体の中にあった魔力を解放する。

 脳裏に浮かび上がる鮮明な光景。そして確信にも似たはっきりとした意思。『蘇った』と表現してもいいほどくっきりと思い浮かぶ記憶。
<アレクルーサ>の使命とは何か。
<アレクルーサ>の呼び寄せるルシータの滅びとは何か。
 ルシータの滅びのために何故膨大な魔力が必要なのか。
 全ての答がそこにあった。

 それは一瞬。
 炎に煽られからからに乾いていたはずの周囲の空気が湿り気をはらむ。むっとするほどの湿気が肌にまとわりついてくると、ほどなく最初の一粒がエルティスの手のひらに当たった。
 雨のように見えるが、違う。空は晴天で、雨雲はない。これはエルティスが引き寄せた湖の水だ。森を焼く炎を消すための水。
 追いかけるように音を立てて降り出す。少しずつ勢いを増す雨のような光景を見つめたまま、エルティスは隣にいた犬神に声をかけた。
「犬神、少し離れよう。このままだと、濡れてしまう」
 頷いた犬神とともに、エルティスは水の降り注ぐ場所から離れる。

 水に襲われ、炎はずいぶん勢いを失っていた。既に燃え広がる力はない。白い煙を上げながらその場で炎を揺らめかせているばかりだ。それでも、炎がわずかでも残っていれば再び神官が魔法を使うことは可能。
 エルティスは体の中に満ちてきた魔力を再び解放した。完全に炎を消し、二度と神官が森を焼けないようにしなければならない。
 もう一度水を落とし、完全に火を消す―――。
 魔力を伴った祈りは瞬時に力を発し、くすぶる炎に勢いよく水が襲いかかった。残るのは白い煙と無残に黒く焼き尽くされた森の痕。
 炎が消え、そして木々が焼かれたことにより広がったエルティスの視界に、呆然と立ち尽くす神官たちの姿が映る。森に火を放ったのは間違いなく彼らだった。
 エルティスが呼び出した水のせいでずぶ濡れになった彼らはずいぶんと憔悴した様子に見える。ぐるりと視線をめぐらせたエルティスはある一点で動きをとめた。

 神官たちがいる場所は、共同墓地のすぐ近く。だが、エルティスの両親の墓はその共同墓地からは離れた祀りの森の傍に作られている。
 そのエルティスの両親の墓が、無残にも踏み荒らされていた。飾ってまだ一日程度の花は踏み潰され、盛り土には足跡が残り、墓碑代わりの石は離れた場所に転がされている。
 二つの墓碑のうちの片方、父のものは真っ二つに割れていた。
 視線が縫いつけられてしまったかのように、エルティスはそこから目を逸らすことができなかった。

 神官たちはかつてエルティスの両親をどうしたか。<アレクルーサ>の血を絶やす、ただそれだけのために病に苦しむ両親を見殺しにした―――。
 つい先ほどエルティスの頭に思い浮かんだ自分自身への質問が、もう一度脳裏をよぎる。
 真相は分からない。
 だが、もし巫女姫も神官もその理由で両親を見殺しにしたのだとしたら。自分は彼らを許せるか?
「―――犬神。あたしが<アレクルーサ>なんだと言ったよね。ルシータを裁く者だと」
 エルティスは犬神の方を向かずに尋ねた。ようやく両親の墓からはずすことのできた視線で、今度は正面の神官たちを睨みつける。
「あたしが決めていいのね!?」
『そうだな。お前さんは天からつかわされた使者。神々はすべてを<アレクルーサ>に委ねた。自分の思うままに動けばいい。それはたぶん正当な怒りだ』
 犬神の言葉は、静かにエルティスの耳に染み込んでいった。
 真実はすべて、エルティスの内にある。
 裁かれる彼らに、同情はしない。神託を受けていた彼らは努力次第でその未来を変えることもできたのに、それをしなかった。神託にはきちんと滅びを避けるすべも含まれていたのにもかかわらず。
 結果、神々が期待したように自ら滅びへと転がっていったのだ。
「そう……。それなら、滅びればいい、こんな街」
 エルティスは神官たちの前へ姿を現すべく、崩れ落ちた木の枝を鳴らし一歩前へ踏み出した。


 森の影から姿を現したエルティスを見て、神官たちがざわめきだす。彼らにも想像がついただろうか。自分たちが呼び寄せた火を、<アレクルーサ>に跡形もなく消されたということを。
 リアーナは、炎の中で命を落とした。そしてその命を、このルシータを包む<柱の結界>の存続のために使われた。
 もし何かひとつでも狂いがあれば、エルティスも同じ道を辿っていただろう。
 だからこそ、神官たちはエルティスがいると予想された祀りの森に炎を放ったのだ。ルシータの滅びを未来に伸ばすために。まさか、それを<アレクルーサ>自身に邪魔されるとは想像もしなかっただろうけれど。

 エルティスはゆっくりと前を見た。エルティスの視線の先、ちょうど真正面には、デュエールが立っている。
 森を囲む神官たちよりも向こうにいる彼の姿を、エルティスはいとも簡単に見つけ出した。これほど遠くにいるのにはっきりととらえることができるのは<アレクルーサ>の力のせいだろうか。
 帰ってくることが分かってから、ずっと逢いたいと、姿を見たいと思っていた幼馴染み。彼がルシータに戻ってきてから、エルティスはようやくデュエールと顔を合わせることができたのだった。
 二ヶ月前見送ったときよりもさらに髪が伸びて、肩につきそうなほどだ。それでも、他はほとんど変わっていない。
 彼女が大好きな、デュエールそのまま。
 ただひとつ違うとすれば、それは額を飾る飾環を身につけていること。
 おそらくはエルティスが覗き見た婚約式で与えられたもの。額の中央に緑の宝石を輝かせるその飾環は、デュエールの隣にぴたりと寄り添っているミルフィネル姫の額を飾っているものと同じだ。
 ミルフィネル姫はいつも身につけている鎖の額飾りの代わりにそれをつけている。
 婚約の証だということは明らかだった。

 何も変わらないで、ずっとこのままで―――。望むことはただそれだけだったのだけれど。
(やっぱり、それは無理なのね……)
 留めることはできない。デュエールがエルティスを探す力を失くしたように、エルティスが新たな力を手に入れたように。時間の流れとともに、すべては変化していくのだ。
(あたしが<アレクルーサ>になったように、デュエールがミルフィネル姫と婚約したように、みんな変わっていって、……元には戻らないんだ)
 すべて失くしてそれを自覚してしまったら、あとは簡単だった。
 エルティスはその唇に悠然と笑みを浮かべる。明らかに動揺する神官たちと巫女姫を静かに見回し楽しそうに呟いた。
「残念だったわね。今度は殺し損ねたわ」
 あたりのざわめきはさらに大きくなる。
 そんな中こちらを真っ直ぐ見つめるデュエールの心配そうな表情が、泣きたくなるくらい嬉しかった。


(初出 2004.7.10)


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