二人の物語

第9章 行方




 祀りの森に静かな夜が訪れようとしていた。
 未だに風の向こうから木々が燃やされた名残の焦げた臭いが漂ってくる。森が受けた傷は、思ったよりも大きい。だが、消失したのはオルカリア山の広大な森のほんのかけら程度でもある。
 エルティス―――<アレクルーサ>のおかげで、被害は最小限で済んだ。精霊たちが導いてくれたためでもあったかもしれない。命を落とした生き物たちもそれなりにはいたが、生態系を著しく壊されるほどでもなかったようだ。
 大丈夫だ。この程度なら、また何十年の時間をかけて森は再生するだろう。
 祀りの森の統治者たる犬神は、森の被害の様子を確認するとあらためてそう判断を下した。
 火を避けて森の奥へ逃げ込んでいた獣たちも、原因であった人間たちが森から離れていくとともに徐々に本来の住処へ移動し始めている。
 ただひとつ大きく変わったことといえば、森の中にあった巨大な一本の柱が何の痕跡も残さず消え去ってしまったことぐらいか。しかし、そのことは森の住人の大部分には何の影響ももたらさない。

 元に戻りつつある穏やかな森の時間の中でうたた寝をしていた犬神は、ゆっくりとその首を持ち上げた。
 不意にとらえた音に、耳をぴくりと動かす。
 聞こえる。
 荒い息遣い。張り出した木々の枝がこすれる音。枯れ枝を踏みしめて、ひたむきに走る足音。少しずつ大きくなってくるそれらの音に、犬神はしばらく耳を傾けた。
 音が伝わり来る方向に、ゆっくりと目を向ける。
 そして、木々を掻き分けるがさりというひときわ大きな音がして、犬神の見つめていた場所に現れたのは、デュエールだった。

 顔を合わせるのは二ヶ月ぶりだったが、珍しいことに彼はルシータの神官たちが普段着ている装束に身を包んでいた。ただ、水に濡れた上に薄汚れ、あちらこちらがほつれていたから立派なものではなかったけれど。左の側頭部からは、どこか怪我をしているらしく血が流れている。
 森に火をかけた人々と同じような格好のデュエールの姿に、傍にいた精霊が奇妙な顔をしたことを犬神は見逃さなかった。
 その装束のせいで精霊たちが加護を与えることを躊躇したのか、それともあまりの速さに間に合わなかったのか、デュエールは頬や手の甲に引っかき傷を作っている。慌てて森を突っ切ることはあっても、この十七年、枝で傷を作ることなどなかったのだが。
 しかし、デュエール自身はそんなことを気にも留めていないようだった。何かを探すように辺りにちらりと視線を向けると、その表情が曇る。乱れた呼吸を整えながら、デュエールは犬神に問いかけてきた。
「ここに……エルが、来てないか……、犬神……」
 それは、実に何年ぶりにデュエールの口から聞くエルティスの愛称であっただろう。本当に幼い頃、まるで双子のように一日中一緒にいた頃は、ごく自然にやり取りされていた呼び名。
 デュエールは真っ直ぐこちらを見つめて、犬神の返事を待っている。何かを切望するような表情であったけれど、彼は既に答を知っているように見えた。
 問いかけに、犬神は静かに首を振る。ここにいるのは犬神だけ。火事騒ぎのあと、彼を最初に訪ねてきたのがデュエールだ。
『いいや、お前さんの前に誰もここへは来ておらんよ』
 その言葉に、デュエールが絶望に顔をしかめるのを犬神は確かに見た。

 神々から賜った柱が消えて、ルシータの民が大騒ぎで森から離れていったあと、半刻もしないうちに森の一部が白い光に包まれた。それが<アレクルーサ>の仕業なのだと犬神は知っていた。
 エルティスはついに自らに負わされていた役目を果たしたのだ。ルシータを包んでいた<結界>は失われた。世界から魔法は消える。それは犬神に影響を及ぼすけれど、森に住む生き物たちにはほとんど縁のないものだ。
 使命を果たし終えたエルティスを、デュエールは捜しているらしい。だが、捜しているにしては、デュエールの表情がおかしい。
『何か、あったのかね?』
 犬神が逆に尋ね返すと、ようやく呼吸の落ち着いたらしいデュエールは、静かに唇を噛み締める。しばらくして、デュエールは言葉を捜すように話し始めた。
 それは、たった一日の間に起きた、長い話だった。



 デュエールは、自分がルシータに帰ってきてエルティスが閉じ込められていることを知ってから、つい先ほど柱が壊されエルティスが姿を消すまでのことを話した。
 ことの始まりを知らず、何の情報も持たないデュエールは、自分の見聞きした断片的なものを語ることしか出来なかったのだが、それでも話し終える頃には辺りは完全に夜の気配に包まれている。
 犬神は相槌も打たずに黙って聴いていた。まったく表情が動かないが、無反応であっても彼はきちんと話を聞いてくれているのだ。
「それで、エルは風に包まれて……、消えたんだ」
 さすがに最後にエルティスが消えてしまったことを話すときは声が震えた。デュエールの脳裏に姿を消す直前のエルティスの泣き顔が焼きついたまま消えない。
 エルティスは何の言葉も残していかなかった。拒絶の悲鳴さえも。
 いっそのことあらん限りの罵声を浴びせられていた方が何倍もましだった。

『そうか…』
 デュエールの長い話を聴き終えて、犬神は一言だけ呟く。何を感じたのだろう。森から姿を現す前に、エルティスは犬神のもとへ来ているはずだ。もしかしたら、そのとき何か言葉を交わしているかもしれない。
 デュエールにはここ以外エルティスの居場所など考えられなかった。けれど、もし犬神が何か聞いているなら。
「犬神は、エルがどこに行ったか見当がつけられる?」
 デュエールの問いに、犬神は考え込む様子だった。しばらくの沈黙の後、犬神はおもむろに顔を上げデュエールを見つめる。
『エルティスは文字通り"神の子"だ。その力に覚醒した以上、天に還ったのか地上にいるのか、それすらもわからぬな』
 犬神の言葉に、デュエールは目を見開いた。
 天へ還った―――?
 その言葉の意味を理解して、デュエールは息を呑む。容易に受け入れられる言葉ではなかった。
「天へ還るって……」
『<アレクルーサ>は、ルシータを滅ぼすという使命のために神々が地上に下した神の一族なのだ。人の中に生まれながら、あの子は神々とともに生きることができる。エルティスがどこに行ったのか、もう我々では把握しきれるものではない』
 デュエールは沈黙した。犬神の言葉は、時間をおいて理解するにつれて身体と心を蝕んでいく内容だった。

 エルティスがどこに消えたのか、何の手がかりもない。もしもう一度会って誤解を解きたいと望むなら、世界中を巡らなければならないということだ。
 しかも、犬神はエルティスが神々の住まう世界にすら行けると言った。もしエルティスが同族であるという神々の世界へ還ってしまったのだとしたら。
 デュエールには何のすべもないということだ。
 人々に同じように"神の子"と呼ばれていたとしても、根本的に違う。魔力を預かれるだけであって、デュエールは人間なのだ。神々という存在ははるか遠く隔てられたところにあった。
 そんなところにエルティスが行ってしまったのだとしたら、もう誤解を解くことはできないということになる。
 まだ、神々の世界にいると決まったわけではない。だが。
 デュエールの前から消えた。犬神のところには現れなかった。姉夫婦のところにいるかどうかは分からない。けれど、もしエルティスがこの世界に居場所を見つけ出せなければ、違う世界へ消える可能性の方が高くなる。
 この世界のどこかにいるのなら、たとえ何年かかっても探しに行く。けれど、地上にいないのかもしれないという不安を抱えて、何の手がかりもないまま世界中をさまよい続けられるのか。

 何故こんなことになったのかと、デュエールはうなだれた。本当に、ただ守りたかっただけなのに―――。
 一緒に十七年生きてきた。幼い頃からの思い出もこの手にある。鮮明に思い出せるのに、その姿も覚えているのに、彼女は人ならぬ存在で、どんなに手を尽くしても二度と逢えないかもしれないというのだ。
 どうして受け入れられる、そんなこと。
 行き場のなくなってしまいそうな想いとともに、デュエールはその手を強く握り締めた。
 森の木々を鳴らす夜の風は、ずいぶんと冷える。
 その風に乗って、デュエールの背後から声が響いた。
『ここにいたか』
 安堵したかのような、楽しそうにも聞こえる声は、デュエールがよく知る懐かしいものだった。


(初出 2004.10.31)


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