時の円環-Reconstruction-


14



 今日を限りに神族は鳳族への認識を改める必要があるだろう。少なくとも、記録に残っている戦の中で、今回が最も時間が長く被害が大きかった。
 自分の天馬の武装を解きながら、海苓はつい先ほどまでの状況を思い起こす。
(いや――敵方の皇族に眠りの術を掛けようという策が持ち上がるくらいだから、いずれはこうなるはずだったんだろう)
 武官として過去の戦の記録には目を通すが、過去へ遡れば遡るほど記録の内容は薄くなる。神族にとって、鳳族など大して心煩わせるほどの存在ではなかったということだ。魔術ひとつ扱えず、武器も弱く心身も劣る。神獣すら従わせられない種族など足元にも及ばない、と史実を編纂した者でさえ平然と書き記していた。
 馬を駆り空から見ただけでもわかる。あの怪我人の多さはどうだ。それも普通に警戒していれば防げたような被害ばかりではないのか。
 辛うじて前線で鳳族の勢いを押しとどめたものの、遠投兵器によって後続部隊に大量の負傷者が出ているはずだ。怪我人はすぐに治療所に運び込まれているはずだから、そのうち報告書があがるだろう。
 海苓の周囲の兵士たちの顔色は悪い。まさか鳳族にこれだけの被害を浴びせられるとは思わなかった、と誰もが表情で語っている。海苓自身は不思議なほどに動揺はしていなかったが、それも龍炎の記憶の中に断片的に兵器の開発をしていたことがあるからだろう――ここまで強力なものだとは思いもしなかったけれど。
 いつもならば戦が終われば速やかに撤収し街へと帰る。だが今回は負傷者が多く法術士の治療も間に合わないためしばらく逗留することになりそうだった。それも神族にとっては初めてのことだ。
 武具を全部取り払うと、海苓の愛馬は気持ちよさそうに身を震わせた。せめて洗ってやりたいが、近くに水場があっただろうか。
 治療所ならば手当てに水を使うこともあるだろう――そう思い、海苓は治療所の誰かに尋ねるべく歩き出した。

 いくつも張られた天幕に近付いていくと怪我人を収容しているはずの場所なのにやけに騒々しい。何事かを叫び長衣の神官に詰め寄っているのはあちらこちらに包帯を巻いた戦の痕も生々しい男たち――負傷兵のようだった。
「罰するってのはなんだ!? あの子は一人の命を救ってくれただけだろう!」
「だったら、助かったあいつは死んでも仕方なかったって言うのか!?」
 片手を超えるほどいる兵たちの剣幕は激しく、取り囲まれた神官も押され気味だ。
「し、しかし統括者の指示に従わないというのは違反であって……」
「だから彼女がそうしなかったら死者が出たってことだろう!」
「そうだという論拠はどこにも――」
「あいつを見てた奴ならみんなわかってるさ、あの状態は尋常じゃなかった」
 一応言葉は発するもののすぐに複数の反論に合い言葉を封じ込められている。一体何の騒ぎかと視線を巡らせて、海苓は一人の少女の姿を発見した。
 神官と兵士の言い争いの現場から少し離れたところ。木箱を積み上げた片隅に寄りかかり、この喧噪の中ぴくりとも動かず目を閉じている――どうやら寝ているのは、鈴麗だった。
 彼らの言葉のやり取りの中に出てきていた、『あの子』や『彼女』、というのは鈴麗のことらしい。よく見てみれば、兵士たちは神官から彼女を守る壁のように立っているのだった。
 ――神官相手に何かやらかしたということか。しかし、兵が彼女の味方になっているということは、悪いことではないのだろう。あの話題からすれば、彼女が法術士ではできない何かの方法で兵士を癒したのかもしれない。
 海苓がここに来た目的は別だが、あの雰囲気に割り込むのはどうも難しそうだ。

「やあ、ここにいたのかい、海苓」
 海苓は当事者ではないものの、やけに空気が張り詰めている中。それこそ不釣り合いなほど呑気な声を聞いて、海苓は脱力しつつもそちらを向いた。
 にこやかに手を挙げながら歩いてくるのは凍冶だ。
「……お前、第三治療所に行ったんじゃなかったか?」
 兵が前線から撤退した後、海苓にそう言い残して彼はさっさと姿を消した。布陣から見ればここはの反対の翼だ。予想もしていなかった姿に海苓は目を瞬かせた。
「ああ、あちらで一騒動あってね。火急の伝令としてきたんだ――もっともこちらも騒ぎが起きているみたいだけれど」
「彼女が、何かしたらしい」
 海苓が指で示すと、心得ているとばかりに凍冶は頷く。
「聞いたよ。神官に真っ向から反論して、異様に苦しんでいる兵士を法術で助けたそうだ。まあ、立場がない神官が服務規定違反を持ち出して、それに兵たちが噛みついているというところかな」
「規定違反となったら罰則があるだろう。それはまずいんじゃないのか?」
 軍部という組織において規律は絶対だ。特に上層部になればなるほどそれにこだわる傾向にある。彼女は武官ではないし軍に属する法術士でもないが、従軍している以上は上に従う義務があるのだ。
 海苓は眉をしかめたが、凍冶は何かを楽しむかのように笑った。
「理は兵士や彼女にあると思うけれどね。もっとも、事態は彼女に有利に動いていると思うよ。私が伝令としてここに来た理由がそれだからね。この言伝を聞けば、あの神官も真っ青になって黙り込むしかないだろう」
 では、役目を果たさなくてはね。そう言って凍冶は笑みを消し、いまだ言い争いを続ける集団に向かって歩いていく。何かが引っ掛かり、海苓は思わず凍冶に声をかけていた。
「凍冶、お前の預かってきた話というのは?」
 ぴたりと凍冶が足を止める。振り返ったときの彼の表情はいつになく真剣だった。
「あまりいい知らせではない。何らかの対策を取らなければ、いつか鳳族に負けてしまうかもしれない。我々は侮っていた部族に追いつめられる可能性があるよ」
 そして、凍冶が告げた言葉に海苓だけでなく神族全体が震撼させられることになるのだ。

「ついに犠牲者が出た。傷そのものが大したものに見えなかったから見過ごされたんだろう――二人、亡くなったそうだ」
 それが、戦による初めての死者だった。




 首が痛い、と最初に鈴麗は思った。一体何故かと思ううちにぐらりと頭が均衡を崩して鈴麗ははっと目を開けた。
「――あ、あれ?」
 寝ていたらしい。目を瞬かせて、自分が疲労の限界にきて意識を失ったことを思い出した。
 視界には無数の敷布に寝そべったりあちこちで休んでいる兵士の姿が見える。鈴麗が傷の手当てに走りまわっていた時と比べても人の増減はなさそうだ。鈴麗が法術を施した人以外に命に別条のある者はいなかったから、彼らまで法術士の手が回っていないということには変わりはないのだろう。
 あちらこちらに作られた天幕も静かだ。もしかすると法術士たちが皆力尽きて休息に入ってしまっているのかもしれない。人の出入りもないようだった。
(どれくらい寝てたんだろう……)
 明るさも人の様子もさほど時間が経過したようには見えないが、見当がつかない。
 内心冷や汗をかいていると、大きな籠を抱えた中年の男性二人が通りがかりに鈴麗を見た。
「おっ、目を覚ましたな、嬢ちゃん」
「もう大丈夫かい?」
「は、はい。……あの、私どれくらい寝ていましたか?」
 鈴麗が尋ねると二人は顔を見合わせて少し考え込む様子を見せる。
「そんなに経っちゃいないよな」
「とりあえずあいつが元気になって休んでるくらいだ。法術士が全員休憩中だって言うから、しばらくは自分たちで何とかするしかないが」
 男たちの声を聞きながら、鈴麗は立ち上がった。めまいなども起こらず、どうやらうまく休めたらしい。
「汚れた包帯や敷布は取り換えるといいらしいと聞いたんでな、まずはそれをすることにしたんだ。あとはできるだけ体を動かさずに休んでるしかないらしい」
 言われて気付いたが、彼らの持っている籠には先ほどまで兵士が寝ていたらしいとわかる布が入っていた。血や土ですっかり汚れている。確かにこれは取り換えるべきだろう。
 しかし、一体誰がその知識を彼らに教えたというのだろうか。
「よく洗って、あとは熱いお湯で少し煮て、それから陽に当てて干すんです」
「大鍋はさっき凍冶殿が届けてくれたんだ。火床も作ってるらしいから、それで大丈夫じゃないか」
 男の口から聞こえた名前に、鈴麗は納得した。鳳族の医学に興味を持って学んでいたあの青年なら知っていて当然だろう。抵抗もされずに受け入れられたのは幸いだ。あのとき神官と険悪になったというのに不思議だとは思うのだが。
 法術士が回復して法術が使えるようになるまで、鈴麗に特別できることはない。一緒に怪我人の世話をしておくくらいだろう。
 気を取り直して、鈴麗は服の袖をまくる。
「じゃあ、私はそれを洗ってきます」
「さっきまで気を失ってて、大丈夫なのかい?」
 男たちは心配そうにするが、なんともない平気だとある意味強引に引き受けて、鈴麗は籠を抱えて小川に向かって歩き出した。治療所を設営するときに水場があることは確認してある。少し籠が大きいが中身は大した量ではなく、鈴麗は難なく小川にたどりついた。


 その場所では何人かが水汲みをしていたので、鈴麗はそこを避けて若干下流へと向かう。包帯を煮るのに使うのか兵士が飲むのか食事に使うのか分からないが、血や土を流すわけにはいかない。
 川べりを籠を抱えてゆっくり歩いて行くと、行く手から馬の鳴き声が聞こえてくる。もし誰かいるのならさらに下らなければいけないかと考えながら歩いていると、すぐに少し開けた川原に出た。
(――あ)
 思わず口が動いたが、声にはならない。そこにあった姿を見とめ、鈴麗は瞬間的に動きを止めた。
 川辺にいるのは背中に白い翼をもつ馬――天馬と呼ばれる神獣だ。白、というよりは若干灰色がかっている毛並みは艶やかで、とても先ほどまで戦場にいたとは思えない。それでも川原に馬具が置かれているから、軍馬で間違いないのだ。空に舞い、矢や魔術を射かけられた覚えはあるけれど、こんな近くで見たことはなかった。
 天馬そのものは問題ではなく、鈴麗にとって問題なのはその天馬のそばにいる青年である。考えてみればあの日軍部棟ですれ違って重大な事実を暴露されて以来会っていなかったのだが、こんな場所で出会うとは偶然にしてもなんという確率か。

 裾をまくって天馬とともに川に浸る海苓は、どうやら天馬を洗っているらしい。なるべく穏便に通り過ぎようかと思ったのだが、突然振り返られて鈴麗は籠を取り落としそうになった。
 あのときの冷たく冴え切った表情が鈴麗の中に蘇る。またそれを見たらどうしようかと思ったのだが、当の海苓の方は一瞬不思議そうな顔をして「……ああ」と言っただけだった。
「洗い物だろう。今終わったところだから使ってくれ」
 そう鈴麗に投げかける言葉に、最後に聞いたような棘は含まれない。最初に見せてくれたような柔らかな表情はもちろんないけれど、鈴麗が思わず確認したくなるほどそこには何も負の感情が見えなかった。
 鈴麗が一人混乱し固まっている間に、海苓は天馬を促して川原に上がる。あっという間に転がっていた馬具をまとめて、そこにあった布で足を拭いて、――その途中で、奇妙なものを見るように鈴麗を見た。
「……洗わないのか?」
「え、あっ、はい、使います。ありがとうございます」
 答えた後にずいぶんと間抜けな返事だと思いながら、鈴麗は川辺に向かう。水際に布を全部出して籠を置いてから、海苓がそうしていたように靴と靴下を脱いで服の裾をまくると、鈴麗は水に入った。
 陽に暖められた水は温くて心地よい。水かさも膝と足首のちょうど中間程度だから洗い物をするにはちょうどいいだろう。
 さっさと洗ってしまおう。鈴麗は一番汚れている布を選ぶと早速川に浸して洗濯を始めた。血はなかなか落ちないが、それでもあまり時間が経っていないこともあって、思ったよりも綺麗になりそうだ。水の中で白さを取り戻していく布を見て、鈴麗は満足する。

「よけろ! 前から来るぞ!」
 唐突に後ろから声がして、鈴麗は顔をあげた。ほぼ同時に肩を後ろから思い切り引かれて、鈴麗は布をつかんだまま何を言う暇もなく後ろへと姿勢を崩した。足元の石が勢い良く滑る。
 見えたのは、鈴麗の横を走り抜けていく人影と、視界のほとんどを占める布の白と、向こう岸の林。
 そして、盛大な水音とともに鈴麗は川の中にひっくり返った。
 両手は布をつかんだままだったから手をつくこともできず、頭から完全に水浸しだ。幸いだったのは、ここの川底が砂場で、腰や頭を硬い石にぶつけずに済んだことだろう。
 茫然としたまま鈴麗は横を駆けて行った後ろ姿を見つめる。鈴麗が川に沈むのとほぼ同時に向こう岸へ渡り切った海苓は、素早く印を切って術を使ったらしい。
「鳳族か!?」
 彼の叫びに鈴麗はその視線の先、林を見た。何か不自然に動く影が二つ。あっという間に消えてしまう。川と木々の音以外は何も残らない。
 鈴麗は川の中で姿勢を直し目の前を見て、先ほどまで持っていた布に矢が一本刺さっていることに気がついた。そこでようやく聞こえた叫びと今起こったことを理解する。
 ひとつ間違えばこれが自分に刺さっていたかもしれない――。
 つまり自分が狙われたのだとわかって、鈴麗は血の気がひいた。これを撃ったのは誰か。後ろには海苓もいたはずで、それでも鈴麗が目標にされたというのは?

 もう誰の気配もないようだ。鈴麗は向こう岸から戻ってくる海苓をただ見つめた。まだ陣へ戻っていなかったこの青年は、偶然なのか鈴麗を狙う向こう岸の存在に気づいて彼女を助けてくれたのだ。
 立ち上がってお礼を言うべきなのだろうが、鈴麗は力が入らず川の中に座り込んだままだった。
 戻ってきた海苓は鈴麗を見て、何かに気づいたようにひどくばつの悪そうな顔をする。
「すまない……少し、乱暴に引っ張ってしまったか」
 全身ずぶ濡れのことを言っているのだと気づいて、鈴麗は慌てて頭を振った。彼が助けてくれなければ、今頃矢が刺さっていたのは布ではなくて鈴麗だったのだ。しかも何も気づかないうちに。
 海苓は鈴麗の手を引いて助け起こしてくれ、その後困ったように溜息をついた。
「これで洗い物をするのは無理だな」
 足どころか髪の先まで滴っている。顔に張り付いた前髪を鈴麗がよけていると、何か思いついたらしい海苓が上着を脱ぎだした。何をするのかと思っているうちにそれが鈴麗の肩に着せかけられる。
「俺はこのまま戻るから、濡れたのを脱いでそれを着るといい。丈が長いから服代わりにはなるだろう」
 確かに身長差があるから、鈴麗が着れば膝まで達しようかという長さだ。前をしめてしまえば服とも言えるだろう。
「え、や、大丈夫です、どうせ濡れるんだし……」
 鈴麗が断ってその上着を脱ごうとすると、海苓は眉をしかめてあからさまに不機嫌になった。
「それでか? 熱でも出したらどうする気だ」
 少し怒ったような声に鈴麗は動きを止める。怒ってはいるけれどそれは鈴麗を心配しての怒りで、決してあのときのように睨んではいない。その瞳に怖いと思った鋭い光はない。
 助けてくれた。
 ――優しい、人。
 鈴麗から反論がないのを見て、海苓は川から上がり、そのまま天馬を連れて戻って行った。こちらを振り返りはしない。あるいは濡れたのを脱げと言った通りに配慮しているのかもしれなかった。
 海苓の後ろ姿を見送ったまま、鈴麗は動けずにいた。目の前に積み上がる洗い物を放置しておくわけにはいかない。海苓の言った通り、濡れたのを脱いでしまって彼が貸してくれた上着を着る方がいいだろう。
 鈴麗は濡れた自分の服の胸元を強く握りしめた。完全に水を吸った服は鈴麗の体の熱を奪うばかりだというのに、なんだかとても熱い。肩から掛けられた上着の温かさに泣きたい気分になる。

 ――きっと、誰にだって優しい。

 たぶんこれを享受するのは自分ばかりじゃない。そう、思うしかなかった。



2009.6.22


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