時の円環-Reconstruction-


26



 どれだけの時間がかかったか未だ定かではないが、ようやく終結となる。
 海苓の渾身の一撃が引き金となり、あの攻撃がもうないことを確信できた天馬部隊が次々と前線へ出て、鳳族軍を押し返したのだ。
 双方の被害は、痛み分けといっていいほど同等のものになっただろう。――ただし、同等であることがこれから問題になるはずだが。
 見晴るかす向こうに撤退していく鳳族軍。そして見下ろす足元に倒れる双方の兵士たち。おそらく、かつては行っていた鳳族の死者の弔いも、もう出来はしないだろう。
 あれだけの兵士を治療所へ運び出したというのに、それでも怪我人は溢れ、それどころか助けることも辿り着くこともできずに伏したまま命を落とした者まで居たのだ。
 前回は、怪我を癒しきれずに治療所で死者が出た。今回はまさしく戦場でだ。
 唯一の救い――それを救いと呼んでいいのか甚だ怪しいが――は、『奪われてはならない』という誓いだけは守り切ったということ。
 前線で出た死者も、彼らが身に付けたものも、あるいは弱った兵士すら、鳳族は奪えなかったのだ。海苓や凍冶も含めた前線の兵士たちが全力を以て戦った結果だった。

 疲れ切った体をどうにもできず天馬とともに空中に留まっていた海苓の隣に、静かに凍冶が天馬を寄せてくる。
「壮絶な光景だね」
 いつもは飄々としているはずの友人が、さすがに声に覇気がない。海苓も答えることができなかった。
 前回の戦のときに見た景色もひどいと思ったが、今目の前に広がるものはあのときと比べ物にならない。龍炎の記憶が蘇るとき垣間見える戦場の光景と同じだった。
 どれだけの怪我人と、そしてどれだけの死者が出たのか。
 これから先、神族は変わっていくだろう。変わっていかざるを得ない。自分たちを護るために、他部族の動きに呼応して力をつけていかなくてはいけないのだ。
 吹きゆく風だけが、たぶん今までもこれからも変わらない。未だ戦いの名残を含んだ風が、憂うように海苓の髪を揺らす。
「我々も撤退の手伝いをしなくてはいけないね」
「ああ、そうだな……」
 座り込んだら動けないだろう疲労だが、それは誰もが同じだ。そして、すべてを終わらせるためにしばらくは逗留しなければならないはずだった。
 人とものとを運ぶのに、徒歩よりも機動力に優れる天馬騎士は重宝される。
 凍冶の促しに応じて、海苓も地上を手伝うべく高度を下げようとした。


 視界の端に、何かおかしな動きをするものが映る。最初に感じ取ったのは違和感。
 それを追い、正面でとらえるのと同時に背中を悪寒が走りぬけ、海苓は思わず馬の脇腹を蹴っていた。いきなり方向転換を命じられたことに天馬は若干抗議のような嘶きをあげたものの、手綱に従って素早く動き出す。
「一人逃した!」
 説明している暇はなかったが、凍冶なら今の海苓の一言で何かを察するはずだった。
 戦場で倒れ伏す人々に紛れ込んだか、それとも遙か別の場所から潜んできたのか、いつの間にか陣を回り込み、後方へと走る人影があったのだ。神族のいでたちではない、明らかに別部族の者に懐に入り込まれてしまっている。
 空中にいて異変には気付けるはずだったのに、完全な失態だった。

 戦場で駆けた速度より遅いのは疲労のせい。それでも海苓は必死で天馬を走らせる。
 近づけばその髪が栗色とはっきり分かるその相手は、既に治療所と同等の位置に入り込んでいた。ただ、一体どこへ行くつもりなのか何かを目指すように迷いなく走っている。このまま行っても治療所からも遠ざかるばかりで、神族の懐へ入り込めるわけではないにもかかわらずだ。
 その前方では蛇行して横切る川が鳳族らしき男の進路を阻んでいる。さらにその対岸は森だ。
 見覚えがあった。この風景に見覚えがある。
 思考に引っ掛かった何かを探りながら、海苓は空から男を追った。その後ろ姿はどんどん近付いてくる。海苓がその答に辿り着く前に、男を捕まえることはできそうだった。
 これだけの距離にあっても、まだ男は海苓の存在に気付いていない。しかし、男は腰の剣を引き抜くと急に速度を上げる。ついて行き損ねた海苓は、気付かれたかと慌てて男の進行方向を見た。
(しまった……!)

 神族はこの川を背後に置くように布陣していたのだ。それは背後からの襲撃を防ぐためでもあるし、治療に清潔な水を使いたいという法術士たちからの申し入れがあったからだ。汚れを落とすためにも炊き出しをするためにも、水は必要だった。
 当然、治療所から離れていたとしても水を汲みに来る誰かがいる可能性がある。
 この男はそれを狙っていたのかもしれず、しかも間の悪いことにそこに一人の娘がいて、今まさに大きめの器で水を汲もうとしていたのだった。
 ――しかし、おかしい。剣を握ったまま走る男の行動は、神族の情報を得ようとする鳳族の行動としては明らかにおかしかった。
 速度さえ落とすことなく、剣を振り上げて男は娘のところへ向かっていく。海苓の天馬はそれ以上速度を上げられず、このままでは海苓が男をとらえるより娘に切りかかる方が早い。男を追ったまま、海苓は弓を構え矢をつがえる。
 水を汲みに来た娘、鳳族の男――双方が誰かを認識した瞬間に海苓はすべてを理解した。呼応するように、脳裏に起こる記憶の再生。
 男の声が響き渡る。
「この裏切り者め!」



 ――芳姫がすっかり回復したというのに、休暇期間が過ぎても登城してこない。そうこうしているうちに控室が整理されて私物がなくなっていると芳姫の護衛より報告があり、街へ人をやれば親子の家は使われた形跡が残ったまま明らかにものの量が減り人気がなくなっていた。
 問題は、誰にも知られずどうやって消えたのかということだった。
 光玉は町医者をしていたから、いつまで待っても来てくれないという騒ぎになっていて、それなのに誰も姿を消す光玉・鈴麗親子を目撃していないのだ。夜陰に紛れていなくなったわけでもなく、そもそも荷物を持ち出したような目撃談すらない。
 あったのは、娘の休暇を利用して大掃除をしていたという母親の目撃情報だけ。
 それを聞いた芳姫は随分と衝撃を受け落ち込んでいたが、最近になってようやく落ち着いたようだった。
『幸せでいてくれればいいわ。……あの人たちはここで生きるのはあまりにつらすぎると思うもの』
 しかし、報告はさらに数ヵ月後にもたらされたのだ。鳳族にとっては凶報として。


 その日、龍炎は芳姫とともに会議に出席していた。皇位を譲られ、ともに鳳族を護り導く存在となったものの、政を進めるには未だ先帝と臣下たちとの話し合いを持たなくてはならない。
 終始穏やかな雰囲気で進んでいたように思う。ついこの間戦があったばかりでも、その結果が比較的良好であったために臣たちは皆機嫌が良かったのだ。
 突如そこへ別の仕事に取り掛かっていた文官が部屋を訪れた。どうしても報告したいことがあるのだと入室を請い、龍炎はそれを許可した。
 そしてその文官がもたらしたのが、神族軍の中に鈴麗を目撃したと訴える兵士がいる、という報告だったのだ。
 川辺で布を洗うその姿は間違いなく鈴麗であったとその兵士は断言したらしい。運よく森へ入り込むことができたその兵士は、神族の偵察を行おうとしたもののそこに鈴麗の姿を発見し、思わず矢を射てしまったという。
 残念ながら彼女は一人ではなく、攻撃は阻まれた上隠れていたことも知られてしまったために撤退しそれ以上のことはできなかった、と。


 考えれば、妥当な話のように思えた。彼女の父親は神族でありその血を受けた彼女もまた神族なのだ。魔術を行使して芳姫を眠りから覚ましたことがその血の証明である。母親である光玉も、鈴麗が生まれてからしばらくは神族のところにいたというのだから、これ以上にないほど明快な行き先だった。
 二人が誰にも気づかれず姿を消したのも、神族がかかわっていればありそうな話だ。光玉が娘を連れて出てきたという過去があったから誰も思い当たらなかったのだ、そこへ戻っていくという可能性を。
『まさか、光玉もか?』
『確認できておりません。しかしながら娘がいるなら母親もいた可能性はあるかと』
『始めからまさかそのつもりで芳姫様に仕えていたということはないのか!?』
『おのれ、なんということを……』
 貴重な情報源となるかと思われた親子を奪われていたという事実に、そこにいた人々は一瞬にして騒然となった。口々に二人を罵り始めるその筆頭は先帝だ。その雑言はひどさを徐々に増し、「裏切り者」という罵りまであがる始末だった。

 龍炎は思わず隣の芳姫を見たが、彼女の顔は真っ青になっている。
『違うわよね、まさか最初からそのつもりだったなんて……』
『違うだろう。芳姫の護衛になることも城にあがることも、鈴麗が言いだしたことじゃなかったはずだ』
 龍炎が指摘すると、芳姫は何かを思い出したように表情を変えた。そこにいた誰もが怒りと失望に身を焦がし忘れているに違いないが、自分たちが彼女を利用しようとしたのが先だ。
『そう……そうね。私が言ったのだったわ。鈴麗がなんとかして断ろうとしていたのを、私が無理を通したのだったわね』
 安堵したように芳姫は息を吐いた。芳姫は彼女が神族かどうかということの前に鈴麗のことを気に入ってあれこれ気を遣っていたから、そう思うのも仕方ないだろう。
 問題は、突然の報告に怒りと恨みの熱をはらみ始めたこの場だ。鈴麗から神族へ鳳族の情報が流れていくことを元から懸念してそれなりに振舞ってきたはずなのに、手に入れられそうだった宝が目の前で取り上げられたためか、目がくらんでしまっている。
 どうしたものかと龍炎は誰にも気づかれないように嘆息した――。



 怒りと恨みのすべてを込めたかのような大音声とともに、男は振りかざした剣とともに飛ぶ。
 その奇声に気付いた鈴麗がとっさに手元の器を振り上げるのと、海苓が矢を放つのも同時だった。
 器と剣がぶつかる音、弓弦の鳴る音、矢の音に、吹き抜ける風のざわめきが強く混じり、一瞬どうなったかを見失いそうになる。
 鈴麗は器を捨てて横へ転がり、男は海苓の矢を背中に受けながら剣ごと器へのしかかっていた。鈴麗が起き上がるより、男が器を乗り越える方が早い。
 だがそれより矢をつがえて駆けつけた海苓の方がさらに早かった。
 男の進路を阻むように矢を打ち、回り込んで鈴麗の真上を旋回すると、男はようやく自分を追ってきた神族の存在に気付いたらしい。海苓を見て一瞬目を見張ると、舌打ちをして川へと飛び込んだ。そのまま対岸の森へ逃げていく。


 男が弓を持っている様子はなかった。再度の襲撃はないだろうと踏んで、海苓は鈴麗の傍へ天馬を下ろす。
 しゃがんでいる姿勢から無理に転がったせいか、どこか打ちつけたのか、鈴麗は地面に伏したまま動けないでいた。結いあげている髪は乱れて落ちかかっていたし、水をかぶった上で転がったために土で汚れている。
 海苓は天馬を降りて身を起こすのを手伝った。
「怪我は?」
 問いかけたものの傍目には見当たらない。剣を直接受けたのは水の入った器だったようだから。割れはしなかったものの、器の縁に大きくひびが入り転がったために辺りは水びたしになっていた。
 なんとか起き上がった鈴麗は痛みに顔をしかめていたが、海苓と目が合うと焦ったように表情を強張らせる。海苓は一瞬身構えたが、鈴麗の反応は予想外だった。
「今の、人は!?」
 息を継ぐのが若干辛そうだが、それにも構わず鈴麗は周囲に視線を巡らせている。
「逃げた――森の方にだ。たぶんそのまま鳳族のところへ戻るだろうな」
 男が姿を消した方向を追うと、やはり見覚えのある景色だ。前回海苓が天馬を洗い、鈴麗が洗い物をしようとして矢を射られたあの場所だった。
 偶然なのか、それともあのときいたのがあの男であえてここを狙ってきたのか。確かめようがなかったが、既にこんな懐近くまで鳳族に入り込まれていたということでもある。急を要す報告事項だ。
 海苓の返答に鈴麗はひどく焦っているようだった。しかし、その憂いの内容も、海苓には予想外のことだった。
「でも、あのまま逃げられて神族のことを話されたら……もっとひどいことに」
 そう呟く声が震えている。泣き出しそうだとも思ったが、その眼の光は強く、潤んでいる様子はない。
 戦のことでもなく、逃げて行った男のことでもなく、裏切り者と叫ばれたことでもなく。そのことが最初に出てくるとは思わなかった。
「いや、あの男は何も見ずにまっすぐここへ向かってきていた。だから、目的はたぶん――」
 命を奪うつもりだったのか、捕らえるつもりだったのか、初めからあの男は鈴麗を目的にしていたのだろう。戦場に転がる神族の武具ひとつさえ、彼は手にしていなかった。だから鈴麗が恐れるような事態にはなっていない。
 そう言うと鈴麗はようやく納得したようだった。落ち着いたところで海苓が立つように促すと、彼女は素直に従う。土埃を払い、すっかり汚れた服を見下ろして、鈴麗は静かに呟いた。
「……そうですよね。裏切り者って叫んでましたから、きっと私を殺すつもりで」
 海苓は鈴麗の顔色を窺ったが、その言葉と同じに表情も落ち着いていて、かつての同胞に裏切り者と呼ばれた事実に動揺している風ではない。
 かつては魔術を使えず鳳族の中で育ってきた神族の娘。少なくとも、彼女は鳳族からゆるやかに神族へと変わろうとしているのかもしれない。

 話題を変えるように、海苓は転がったままの器を見る。
「ここで何をしていたんだ?」
 海苓の質問に鈴麗は再度顔を強張らせた。
「そう、もう薬がなくて、火傷の手当てをしようって、水を……」
 若干説明になっていない彼女の言葉の意図を汲んで、海苓は彼女を追い越し器を拾い上げる。そうなのだ、運ばれた兵士たちがまだ沢山いるはずだった。
「?」
「俺が汲んでいこう。その方が多く運べるだろうしな」
「でも……」
「後は撤収だけだ。手当てが早く終わる方がいいし、その汚れのまま治療はできないだろう」
 海苓の動きに戸惑った鈴麗だったが、その指摘に自分の状態にあらためて気付いたらしい。せめて服を替え汚れを落とさなければ怪我人に近付けないだろう。そのための時間が要る。
 次に顔をあげたときの彼女は、間違いなく治療者の顔をしていた。
「じゃあ、お願いします。先に戻ります」
「ああ」
 その背中を、いっそ晴れ晴れしいほどの気持ちで見送り、海苓も水を汲むべく川へ向かう。幸いにもひびは大したことがなく、海苓の知っている補修の術で当面は何とかなりそうだった。
 鳳族軍を退けても、侵入を防いでも、まだ数多の怪我人とそして認めたくないことに死者が残っている。そのすべてに決着がつくまで、神族にとって戦は終わらず、領地に帰ることもできないのだった。



2010.11.14


Index ←Back Next→
Page Top