時の円環-Reconstruction-

番外編

未だ知らぬ



 鈴麗が王宮を辞したとき、既に街は闇に包まれていた。本来の退出時刻から著しく遅くなったわけではないが、冬も半ば、陽が落ちるのも早い。
 背後に城門が閉まる音を聞きながら、鈴麗はあまりの寒さに身震いした。外套の袷をきつく抑え少しでも風が入らないようにしてから、家までの決して短くはない距離を歩きだす。
 母が夕食を用意してくれているだろうから、あとは寄り道せずに帰るだけ。大人たちが行きかう賑やかな通りもあるが、鈴麗はそこを避けて別の静かな通りを抜けていく。
 既に歳は十一となり、城にあがって芳姫に仕えるようになってから三年だ。所々に灯された街灯の火をたよりに街を歩くのにもすっかり慣れた。
「あ、今日は満月だ」
 ふと火が届かない場所でも足元が明るいのに気づいて、鈴麗は空を見上げる。東の空高くに、くっきりと円い月が見えた。こんなに美しく見えるなら、おそらく明日はひどく冷え込むだろう。そう思い、鈴麗は思い切り白い息を吐いて肩を落とした。
(明日の朝、起きたくないだろうなあ……でもまだ仕事が終わってないから、今日くらい早く出なくちゃいけないかな……)
 銀色に円い月を眺めながらも、優雅に月見とはいかず鈴麗は明日のことを思う。
 三年。芳姫や龍炎の命に従い仕事をこなすのにもさすがに慣れてきた。そろそろ医学の勉強も許可されそうな様子で一安心したところだった。しかし、それ以外に鈴麗と母親を取り巻く環境はあまり変わったとは言えない。
 日々生き抜くだけで精一杯だ。過ごしてきた日々を振り返っても、道ができているという自信はなく、当然そこから続く道標など見えやしない。これから自分はどうなっていくのか――。
(でも、ここで生きて行かなくちゃいけないから)
 その容姿が示す神族のもとへは行けない。鳳族の中にいれば『異種』と呼ばれ、足場を作ることだけに時間を費やす。
 しばしその場に佇んで、鈴麗は夜空を仰ぎ月を見る。辺りを淡く浮き上がらせる光の中にいると、少しだけ現実から遠ざかるような不思議な気分がした。
 本当は、感傷に浸る間も嘆く暇もないのだけれど。




 遠く遠く離れた場所に、今同じ月を見上げている人がいることを、知らない。




 目の前の石畳に落ちる獣の絵の影を見て、海苓はようやくそれが明るい月の光のせいであることに気付いた。
「満月か……」
 差し込む光を追って通路の東へ目を向けると、庇へかかるかという高さに陰りもなくくっきりまるい月が煌々と輝いている。
 武官候補として城に入るようになってから一年が経ち、歳は既に十六。まだまだ駆けだしとは言え仕事も任されるようになっている。今日は宿直ではなかったが、めったに使えない修練場を使えるからと打ち込みすぎたせいでこんなに遅くなってしまった。
 冬とはいえ結構な時間だ。すっかり冷え込み、昼用の防寒着でもかなりつらい。こんな寒いときは痛みが余計に染みる。
「っ……痛っ」
 確かめようと体を動かし走った痛みに、海苓は思わずうめき声をあげた。幸か不幸か渡り廊を通りかかる者は誰もおらず、それを聞き咎められることはない。
 夕方に見た友人のあきれ顔を思い出す。
『あまり自棄にならない方が良いよ』
 忠告してくれたのはたぶん正しかったのだろう。だが、昼間の苛立ちが尾を引き、雑念交じりの稽古中、見事に体を痛めた。それでもなお気持ちは収まらず、一人剣の形を打っていて、結局こんな時間になった。
 ――昼間、彼に向って放たれた何気ない言葉。思い出すと今でも拳に力が入る。あのとき、隣に凍冶がいなければ、胸ぐらをつかんで殴るくらいのことはしていたかもしれない。
 否、言った本人にしてみれば、海苓を褒めたのだ。神族ならば皆、それを称賛の言葉ととる。だが。
(『記憶があるから良い』か。俺が存在する意味はそれだけか)
 剣の腕前も魔術の技術も、評価はされる。しかし、そのすべてをはるかに凌駕するもの。誰かが海苓を語るとき、その一番最初に与えられる賛辞はいつも『生まれ変わりを証明すること』だった。
 それは自分に与えられたものではある。だが自由になるものでもない。海苓の一部ではあっても、本質そのものではなかったはずだ。
 賞賛される度に、心の中で違和感が渦巻き、叫びだしたくなる。けれどそれが言葉となっては表に出てこない。何と表現すれば他の人々に理解してもらえるのかと、いつも悩む。
 記憶などなければよかっただろうか。過去に生きた自分など知らなければ、こうして人々から仮面を被せられたような評価をされずに済んだだろう。――過去世の記憶など、なければ。
 そんな疑問がよぎる度に思い出すもの。
 数多の記憶の断片の中で、もっとも色鮮やかに蘇る――最期の記憶。
 その中で語られる海苓自身の未来。もしその記憶が事実ならば、これから先ひとつだけ確かに約束されたことがある。
 月を見上げても何も解決するわけではなかったけれど、海苓はしばし降り積もるような淡い月の光の中佇んでいた。その光を見上げたまま、動くことができない。
 脳裏に鮮明に再生された記憶を手繰る。それは一体何年後の自分なのか、青年となった『海苓』がそこにいる。
 眩しそうに、心配そうな視線を空へ向ける、その横顔。龍炎へ向けられた、覚悟の滲む声。
 そこに色濃く映る想いは――。
『鈴麗を助けたいか?』
 この記憶を消すことができると言われたとしても、自分はそれを喜べない、そんな気がした。




 時の巡り合わせと、未来に待つものと、運命とも呼べるほどの必然と。そのすべてを、未だ知らぬ。


2014.4.5


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