忘れられない、風景がある。
すべてが、青かった。
雲のない空の淡い青と、その色を映して冴え渡る海の蒼とが、どこまでも広がり視界を埋め尽くしていた。空と海との境界線ではっきりと分けられた一面の青。
揺らめく海面が時折太陽の光を反射してまばゆく煌めいている。
海面を滑る風は独特のにおいを含み、ひんやりとした冷気を伴ってデュエールの髪を梳き上げた。
見下ろせば、はるか足元には眩しいほどに白い砂浜が広がっている。泡立つ波が寄せては返して白い砂を濃く染めていた。
その波に合わせて、規則的に耳を打つ不思議な旋律。穏やかな波の音は、初めて聞くはずなのに何故か懐かしい音色だった。
それは、彼が海沿いの街へ派遣されたときのこと。いつも通り無事に仕事を終えた帰りに立ち寄った海岸で見た景色。
大人たちから聞いたことはある。だから『海』のことも、『砂浜』や『波』のことも、言葉としては知っていたのだ。
今、話としてしか聞いたことのなかったそれが、圧倒的な存在感をもってデュエールの前にある。
それが、山に育ったデュエールが生まれて初めて見た海だった。
*
「デュエール、あれが海なの!?」
美しい風景を見た興奮も冷めぬまま、数週間の旅路を経てルシータに帰ったデュエールが最初に聞いた幼馴染みの言葉は、それだった。
彼女もあのとき一緒にあの景色を『見て』いたのだ。デュエールの目と耳を通して。
デュエールが帰ったらエルティスに最初に告げようと思っていたのは、まさしくその海の風景だったのだ。
どうしたら、あのときの興奮が伝わるだろう。なんと言葉を重ねたら、あの美しさが伝わるだろうと、ずっと考えながら馬を走らせていた。
けれど、あの瞬間の感動を彼女も共有していたのだ。ファレーナ王国内で最も海から遠い、このルシータで。
そうだと頷くと、エルティスはひどく嬉しそうな顔をしてはしゃぐ。ずっと見てみたかったの―――そう言った。
同じ風景を見ることができたことが嬉しくて、けれど同時にデュエールは思う。
彼女は本当の海を知らない。エルティスは一面に広がる青い空と海を見て、そして波の音を聞いただけなのだ。
鼻孔をくすぐった潮を含んだ風のにおいも、全身を包む風の冷たさも、知らない。
―――行きたい、と思った。一緒にあの場所へ行きたい。そして、エルティスに本当の海を見せたい。
容易に叶う願いではなかった。デュエールもエルティスもともに同じ"神の子"と呼ばれているにもかかわらず、彼女はルシータから一歩たりとも外に出ることが許されていなかったのだ。
だが、今は許されなくてもいつか必ず。彼女をここから連れ出そう。
どれくらい先になってもいい。あの日あの風景を見た場所へ、必ず彼女を連れて行くのだ。
それは、デュエールのささやかな決意だった。
*
あれから、一度としてデュエールは海を見に行ったことがなかった。
仕事の後は一刻も早くルシータへたどり着きたくて寄り道などしなかったせいでもあるし、あるいは次にあの光景を見るときは『エルティスと一緒に』という決意と意地のせいでもあったかもしれない。
そして、これから先も一人で海を見に行くことはないだろう。彼女と再び出逢わない限りは。
デュエールはそっと空を仰いだ。あの場所で見た空は、もっと澄んだ色だった気がする。
―――同じ空の下にいたい。
この空が見えるどこかに、エルティスがいる。
それがどこなのか、デュエールは知らなかった。すぐ近くなのか、ファレーナ王国の外にいるのか、あるいはこの大陸ではないどこかなのか、それさえも。
けれど、天に還った<アレクルーサ>は確かに言った。地上に生まれた神の子は、地上に残ることを選んだのだと。
逢いたいと望む限りは、諦めない限りは、もう一度逢える可能性は残されているのだ。
風が、デュエールの髪をさらう。肩につくほどの髪は、仕事に出た二ヶ月前から伸ばしっぱなしだった。そして結局床屋にも寄らず、再びデュエールは旅立ったのだ。
この髪は切れない。
それは、約束だったから。
また彼女に出逢えたら、もう二度と傍を離れないだろう。
すべてはあの日、たった一つの想いを告げられなかったことに始まったような気がする。あのとき躊躇わずに伝えられていたら、二人が紡いでいたのは今とは異なる未来だったはずで。
今度こそ、伝えなければならない。
これから先もずっと一緒にいるために、離れることのないように。
長い間抱いてきた想いを告げて最後の約束を果たしたら、その後二人が立っているのはきっと、一緒に『見た』あの海。
―――あの海を、今度は一緒に見に行こう。
初出 2004.12.29