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年が明けて、半月が過ぎようとしていた。
冬の間王都にわずかに積もった雪は既に溶け、空気にもかすかに春の兆しが混ざり始める。しかし、まだ日の昇りは遅いために空気は夜の名残を残し、吐き出す息は白い。
柔らかい陽射しの中、デュエールは厩で馬の背に荷をくくり付けていた。
「忘れ物はないかい?」
上手くまとめ終わったところで、背後から声をかけられデュエールは振り返る。恰幅のいい中年女性が立っていた。
この冬デュエールが世話になった下宿の女主人である。食事の時間も終わり、世話をやく相手もいないためか、出発の準備をしているデュエールを何やかんやと手伝ってくれていた。
ファレーナ王国の周辺部は穀倉地帯である。農閑期である冬の間は王都を始め大都市に出稼ぎに来る者が多い。そういった人々が寝泊りする宿が王都には多数点在しているのだった。デュエールが住んだのもそのひとつだ。
出稼ぎに来るのは男性がほとんどで、デュエールと同じ年頃の青年も多かった。彼らと一緒に力仕事ばかりしていたので、おかげで多少は筋肉がついた気がする。
下宿人はその大半が新年の祝いを故郷で迎えるために年の暮れで引き払っていた。少しでも多く稼ぎを持ち帰るために年明けまで働いていた者も農耕期を前に帰郷しており、デュエールがこの宿を出る最後の一人だった。
「はい、ありがとうございました」
デュエールは女主人にあらためて挨拶をした。その手には、昼に食べなさいと渡された包みがある。デュエールが恐縮すると、女主人はどうせ朝の残りだから、と笑って言った。
「もし何かあったら、うちに来なさいよ。夏の間はあんまり出稼ぎの人は来ないから、いつでも入れてあげられるから」
女主人には旅費の路銀稼ぎをしていることを話してある。洗いざらい吐かされたというのが正しいが、おかげでデュエールはこんな風に言ってもらえるのだった。
「そのときはお願いします」
「しかし、その頭で行くのかい」
彼女の視線は紐でまとめたデュエールの後ろ髪に注がれている。彼女が何を言わんとしているかわかって、デュエールは苦笑した。
「切った方が動きやすくて良いだろうに」
「いいんです、これで」
ここにいる間、女主人に散々言われていたことだ。目にかかってどうしても邪魔になる前髪だけは自分で切ったが、それ以外デュエールはまったくはさみを入れていなかった。切ろうとした女主人と大騒動になったこともあるし、その髪さえ整えてあったら引く手あまたの顔なのにと嘆かれさえした。
この旅の目的を知らないから仕方のない反応だとデュエールは思う。根掘り葉掘り聞かれたとき、それでも彼はそのことを話さなかった。
―――再びエルティスに巡り逢うまではこの髪は切らない。
エルティスとの約束を果たすまでと伸ばし続けた結果、髪の長さは解けばすっかり肩を覆うほどになっている。
デュエールのきっぱりとした返答に女主人はひどく残念そうな様子だった。むしろデュエールの断固とした態度に呆れているといった方が正しいかもしれない。
「気をつけて行くんだよ」
まるで母親のような口調で女主人は言った。幼い頃に母を亡くしたことも知っているから、本当に母親代わりのつもりなのかもしれない。もしこれが実の母であっても同じことを言うのだろうなと、デュエールはかすかに思う。
女主人にもう一度挨拶をすると、デュエールは馬を引いて朝の街中を歩き出した。
王都を囲む城壁には五ヶ所の出入り口がある。北、西、東、南東、南西にある門はそのまま五街道へと続いていく。北側の門から続くのがデュエールが初めて王都入りした北の街道である。
デュエールが今から向かうのは東の門で、そこから伸びるのは貿易街道と呼ばれる最も大きな街道だ。ここは途中いくつもの都市を通り最終的に南北に分かれふたつの港町へと至る道で、王都へ物資を運ぶための要所なのである。
冬の数ヶ月、デュエールは近辺の探索はもちろん情報収集は欠かさなかった。仕事をして顔なじみができたせいで以前より話を仕入れやすかったが、それでも何の手がかりも得られていないのだ。
結局また手当たり次第ということになる。ルシータを出てきたときより路銀に余裕はあるしこれから先は暖かくなるから野宿もしやすいだろう。しばらくの間はエルティス捜索に集中できるはずだった。
王国の北側と西側は一通り回っている。デュエールが東側を選んだのは情報を集めやすいということからだ。都市がいくつも連なる街道。港町であれば国の外、海の向こうの話も聞けるかもしれない。もちろん街道沿いの森林地帯も目的地ではある。
デュエールの目前に東門が見えてきた。他の四ヶ所よりも大きな門だ。今はあまり人影がないが、陽が高くなるにつれ人や馬車の往来が増え賑やかになってくる。
警備の兵士を視界に入れながらデュエールは馬を引いて門の外に出た。見渡す限り平坦な大地に大きな荷馬車が楽にすれ違えるほど広い街道が真っ直ぐ続いている。風にかすかに土埃が舞っていた。
この道はときおり緩やかに蛇行しながら港町まで続いている。どこにも寄り道をしなくても海を見るためには二十日以上もかかる長い道。
デュエールは軽い動作で馬に乗る。荷物がきちんとくくりつけられていることを確認すると、静かに馬を促した。
そろそろ太陽が天頂に差し掛かろうとしている。
見渡す限りの空に雲はない。位置が高くなるごとに輝きを増した陽の光が地上を余すことなく照らしている。
空気はすっかり暖められ外套から滑り込む風が涼しくて気持ち良いほどだ。
デュエールは人が歩くより少し速い速度で馬を進めていた。手がかりとなるものを見落とさないようにゆっくり行くことにしているのだった。
五街道に点在する旅小屋や街や村の間は人の足で歩いても丸一日はかからない程度の距離に整備されている。街道を歩いている限り、よほど変な所に入り込まなければ屋根のあるところで寝ることができるのだ。
もちろん急ぐつもりなら馬を走らせれば二つ三つ先の旅小屋へも余裕で辿り着ける。
まばらに木が生える草原から、徐々に土を起こされた畑が増えてきた。街道を少し行った先には、幅広の道に二分される形で集まる建物の姿がある。
地図には王都から歩いて一日の距離にあるとされる一つ目の村だ。
街道を行く人は多くあり、通りには身体を休める場所や店も並んでいるだろう。今はちょうど昼時だから、店に出入りする人や休憩する馬車やらでごった返しているかもしれない。
デュエールは馬から下りると手綱を引いて少し道を逸れた。
街道沿いにある葉を大きく広げた樹に馬を繋ぐ。地面は緑に芽吹き始めた草で覆われているから、馬の食事もできるだろう。デュエールは木陰に腰を下ろすと 荷物の中から今朝渡された昼食の包みを取り出した。
握り飯と朝食にも食べたおかずがいくらか。すっかり冷えていたが、デュエールはそれを暖かな気分でいただいた。
水を飲んで人心地ついた後、馬の様子を見てみると適当にあちこちに移動して草を食べている。馬にも水を分けてやるとデュエールは少しここで休んでいくことにした。
交通の量は多い。目の前を通り過ぎる人や車は一時も絶えることがない。デュエールはその光景をぼんやりと眺めていた。
去年のうちは旅に出てからこんな風にのんびりしている時間はあまりなかった気がする。
どちらかというと心が急いていた。
ゆっくり息抜きをすることをデュエール自身が許せなかったのだ。
そうしている瞬間も、エルティスは独りでどこかにいて。そうさせたのは自分なのに、自分だけがのうのうとそんなことはできなかった。
けれど、今は少し違う。
動くことができずにいた冬の間にデュエールの考え方も少しだが変わっていた。
もちろんあの時と同じ焦りは今でもある。こうしてはいられないと急かす気持ちはある。エルティスを独りきりにしてしまう時間は少しでも短い方がいいに決まっている。
それでもふと立ち止まって見渡せば、いつもデュエールの周りには見たことのない景色が広がっていた。
それは例えば王都の密集した街並み。あるいは豊作を祝う収穫の祭りに興じる人々。目いっぱい見上げたシーメル遺跡群の岩壁。太陽の光を受けて純白に煌めく雪の平原。地平まで星に埋め尽くされた夜空―――。
今までデュエールが知らなかった世界。それは同時にエルティスが見ることのできなかった世界でもあるのだ。
離れ離れの時間が長くても、今まで見てきた自分が美しいと思ったものを話したら、その時間は埋めることができるような気がした。かつて、自分が見た海をエルティスに話そうとしたあの時のように、今は繋がりはないけれど、共有することで近くあれる気がした。
そう思えるようになったから、デュエールの心には余裕がある。
エルティスに教えたいと思うものが増えれば増えるほど、共有するものが増えていくから。
目の前の景色を、自分だったらなんと伝えるだろう。
地平に消えゆくまで伸びる広い街道と、行きかう人々と、街の喧騒と。どんなに言葉を尽くしても伝えきれなくて結局は一緒に見に来た方が早いかもしれないけれど、この光景にエルティスは間違いなく感動するとデュエールは確信していた。
すぐ傍に寄ってきた馬が軽くいななく。
そろそろ行くかとデュエールは腰を上げた。荷物を馬の背にくくりつけると今度は背に乗らずに馬の手綱を引く。賑やかな村の通りを抜けさらに先に進むためにデュエールは歩き出した。
初出 2005.12.1