悠久の絆

第3章




 数日の雨の後、デュエールたちは無事にハルサスを出発することができた。物盗りの気配もなく、王都まであと五日というところまで何事もなく隊商を進めて、また街に逗留ということになった。

 辺りは賑やかな笑い声やグラスをぶつけ合う音、食欲を誘うおいしそうな匂いで満たされている。大部屋一杯に並べられたテーブルには人々が思い思いに座り、席を探すのも一苦労だ。
 夕食を乗せた盆を手にようやく空テーブルを見つけたデュエールはため息をつきながらその席に腰を下ろす。続いてそんな彼の様子を笑って眺めるルオンが向かいに座った。
「相変わらず慣れないんだな」
「……人ごみは苦手なんだよ」
 夕食を買い求める人々が集まるせいで店の入り口はひどく混雑していた。その密度にデュエールはすっかり疲れきってしまったのだ。もちろん空腹には勝てなかったわけで食欲だけはあったのだが。
 気を取り直してデュエールは目の前の食事に手をつける。
 ふと周囲に注意を向ければ、この道中で知り合った護衛の面々がテーブルの合間に見え隠れしていた。彼らもそれぞれ夕食を取っているのだろう。まったく夜盗物取りの類に会わないので身体が鈍るが楽でいいと昼間笑っていたのを思い出した。
『いやまったく。修行にはならないけど、これで金をいただけるならありがたいもんだよな』
 彼らの話を聞いていたルオンもそう同調して笑っていたのだった。

「うーん、あと五日かぁ。思ったより早いもんだな」
 口の中に夕食を詰めたままルオンが呟く。この状態で明瞭に喋れるのだから器用なものだ。デュエールがスプーンを動かす手を止めて彼を見直すと、ルオンは実においしそうに食事を飲み込んでからしみじみと言った。
「いやあ、王都についたら先生と呼ばれるのも終わりかと思ったらもったいなくて」
 王都に着いたら、またすぐ行くんだろう?
 ルオンはこの旅路がデュエールの予定外であることを知っている。見知らぬ場所を埋めていくように南へ向かうつもりだったことを知っているのだ。
「そうだな……。俺の出来はどうだった?」
「身を護るためだけならなんとか合格点ってところだな。まあ、そうそう使うつもりもないんだろ?」
 デュエールが尋ねると、ルオンは明るく答える。それならいいとデュエールは頷いて、食事に戻った。
 少しでも基本が身についていれば、いざ『力』を使う機会に巡りあったときに戸惑うこともないだろう。もっとも、この剣がエルティスを護るものである以上、彼女と再会しない限りはそんな機会もないはずだが。

 相変わらず店内は注文を叫ぶ声や酔っ払った笑い声でざわめいている。
 少しこの賑やかさに圧倒されているのかもしれない、思ったよりデュエールは食事が進んでいなかった。向かいのルオンは既に食べ終わり、食後のお茶をすすっている。
 苦笑してデュエールはスプーンを口元へ運ぼうとした。

「……銀髪の……」

 それは遠いところから聞こえた声だったか。近くでの囁きだったか。喧騒に紛れ込んだただひとつの単語に反応して、デュエールは動きを止めた。
 デュエールは思わず周囲に視線を巡らせたが、どこから発せられたのかなどわかるわけがない。人々はこちらなどかまわずにそれぞれの会話に夢中になっている。
 そもそも聞こえた言葉がデュエールの求めるものなのかどうかすら怪しい。続く話題は興行の踊り子の艶めかしさだとか娼婦のつれなさだとか、エルティスに縁のないものなのかもしれなかった。
 それでもデュエールは声の発生元を探すことを止められない。

「聞こえたな」
 声にデュエールが正面を見ると、ルオンが湯飲みを口元に当てたままこちらを見ていた。辺りを探るような鋭い光が瞳に宿っている。
 どうやら彼も同じ単語を聞きつけていたらしい。
「ああ」
「たぶん、あっちじゃないか」
 デュエールが頷くと、ルオンは視線だけを店の奥に向けた。
「バラスさんたちがいるテーブルの隣。あの男三人が囲んでるところがあるだろ? やけに興奮気味に喋ってる奴と同じ声だった」
 ルオンの指摘にデュエールはそちらを見る。彼がバラスさんたち、と呼んだのは、デュエールたちと一緒に護衛として雇われた面々の中でも年かさの一行だ。その中で最も屈強で目つきも鋭い割に人懐こかったのがバラスである。
 バラスたちが酒を交わしている隣に、確かに三人組の旅装束の青年たちがテーブルを囲んでいた。三人のうち金色の短髪の男が目の前の酒もそこそこに手振り交じりで話しているのが見て取れる。それでもデュエールたちとそのテーブルの間は離れており、声は喧騒にまぎれてほとんど聞き取れない。
「よくわかったな。俺には全く聞こえない」
 感心のため息と共にデュエールが呟くと、ルオンは余所見をするなとばかりに親指で件のテーブルを指した。
「もう少し待ってみろって。あんだけ熱弁振るってれば、そのうち声も大きくなるさ」

 本当に言う通りだった。ルオンがあたりをつけた人物は他の二人に聞かせようと熱く語っており、徐々にその声も大きくなっているのがわかる。周囲の賑やかさも相当のものだから、必然だろう。
 そして、ようやくデュエールも聞き取ることができた。
「で、そりゃ大騒ぎ……、銀髪の……幽霊がいる……」
 店内の独特の賑わいの中、とらえられたのは言葉の断片だけ。
 けれどそれで充分だった。テーブルに叩きつけるようにスプーンを置くと、デュエールは無言で立ち上がり身を翻す。
「おい、デュエール?」
 背後にルオンの慌てた声を聞いた。しかし振り返りもせずにデュエールはテーブルの間を抜けて行く。
 目的のテーブルに近付いたとき、その隣の席のバラスと一瞬目があった気がしたが、それも構わなかった。
 確かに、あの金髪の青年が、デュエールが探した声の主だ。
 何かエルティスに繋がる情報が、たったひとつだけでもあればいい。デュエールが思っていたのはそれだけだった。
 聞き役になっていた二人の青年がデュエールの存在に気付く。もう一人、金髪の青年はこちらに背を向けていて、まだ自分の話に夢中だ。
 デュエールは軽く息を吸い込むと、そのテーブルの人々へ声をかけた。
「あの、すいません―――」


「俺は、南のコットから来たんだけどさ」
 金髪の青年が先ほど繰り返していた話を、デュエールは食べかけていた食事を手に聞いていた。
 その隣にはお茶のお代わりをもらったルオンが並び、さらにその隣には酒を追加したバラスが座っている。
 思いつめた顔で話しかけたデュエールを見て、当然ながら三人組は面食らった。訝しむ彼らを前になんと説明したものか迷っていると、背後から皿を手に現れたルオンが割り込んできて、ようやくデュエールは銀髪の人の情報を知りたいと告げたることができたのだ。
 ついでに酒の肴でも探していたのか横からさらにバラスが口を出してきて、テーブルふたつをくっ付けて大所帯で金髪の青年の話を聞く羽目になったのだった。青年の方も誰かに語りたくて仕方なかった様子だが、最終的に効果を発揮したのはバラスの酒を奢るという言葉だったのかもしれない。
「ファレーナに入ってすぐ街道からはずれると、オルトって村があるんだ。貴重な薬草が採れる森があって、わりと金稼ぎを生業としてる連中の間じゃ有名なんだけどさ……その森に幽霊が出るんだと」

 彼の話は、もう数ヶ月も前のこと。
 青年がオルトに向かったのは、その森で採れる薬草を王都の薬屋へ持ち込むことで稼ぐことができるからだった。ところが着いてみると村人たちは森に立ち入らなくなっていた。
 聞いてみれば森に奇妙な人が現れるようになったのだと言う。
 始めはふと現れる人影に過ぎなかった。姿を目撃し、あれと瞑目すると幻のように消えている。時間の経過と共に人々が目にする回数が増え、ついこの前は子供たちに接触したというのだった。
 その人は、波打つ銀の髪と不思議な銀の瞳をした女性の姿をしていたという。

 喉を潤すために酒を一口飲んで、青年は話を続ける。
「といっても、別に何の害もなかったらしい。子供たちにしたのも、傷を一瞬で治して道案内をしただけだって言ってたな。当の本人たちは怖がってなかったが、村の大人の方が気味悪がってたよ」
 まあ、傷を一瞬で治す、っていうのは不思議な話だけど。青年の感想に、デュエールはぴくりと肩を揺らした。そうなのだ、普通の人には見ることのできない奇跡なのだった。

 とりあえず何か得体の知れないものが住み着いているのなら何とかしないと森に入れず死活問題、ということで銀髪の女性らしき人を探す大捜索が行われ、青年も報酬をもらって参加した。しかし、結局銀髪の女性は影も形も見当たらす、村人たちは不安ながらも捜索を終了し、いつもの生活を再開したのだった。
 そして、多少噂の女性を見てみたいという気持ちもあったけれど、彼は無事目的の薬草を手に入れ、また別の目的のためにこの街に辿り着いた―――長い話だったが、デュエールがお礼を言うと青年は満足そうに笑ってみせた。真面目に話を聞いてくれた人がいたので嬉しかったのかもしれない。



 夜も更けて、酒を酌み交わす人々以外は客足も途絶えてきた。
 デュエールはふたつ付き合わせたテーブルにまだ腰掛けたままだ。冷たくなった茶を前に思案したままである。
 話を聞かせてくれた青年たちは別の宿を取っているとかで既に席を立っていたし、一緒に話を聞いていた他の面々もずいぶんと前に別の酒場へと繰り出していた。
 その場に残っているのはデュエールの他はルオンとバラスだけだ。
「……どうやら当たりらしいな」
 ルオンは聞かせるでもなく静かに呟く。青年たちが去って、彼が最初にデュエールに言ったのは「顔が蒼ざめてるぞ」という一言だった。バラスもその仲間たちもそれで何かを察知したのだろう。バラスを残して彼らは陽気に出かけていった。
「坊主が探してた人なんだな?」
 バラスの問いかけに、デュエールは頷くのがようやくだった。

 銀色の波打つ髪と、異様な光を宿す銀の瞳。傷を跡形もなく癒すという、普通では有り得ぬこと。
 考えれば考えるほど、それはエルティスと符合する。
 今まで何の手がかりもなかった経過を考えれば、喜んでもいいはずだ。けれど、デュエールは考え込まずにはいられなかった。
 森の中を彷徨っていた彼女が、『幽霊』と呼ばれた理由。
 それは、人々が彼女を目撃するときまるで幻のように消えたから、というだけではなかった。姿を現すとき、彼女はどこか遠くを見ていて、抜け殻のようだったからだ。村人がこちらに気付かれたと慌てても、どこか焦点が合わずに、決して視線が交わることはなかったのだという。
 強烈に心の中に焼きついた光景が、デュエールの脳裏に蘇る。
 触れることの叶わなかった手。離れてしまった互いの距離。拒絶の意思を含んだ瞳から零れていた涙。
 エルティスをそうさせたのは、何ひとつ頼るものを失くして彷徨わせているのは、一体誰なのか―――。

 長い時間考えて、デュエールはようやく深く息を吐いた。
 酒場の明かりはいくらか落とされて、少し薄暗くなっている。酒飲み客も片手で足りるほどしか残っていない。デュエールが指先すら動かさずに悩んでいる間、ルオンとバラスは時々飲み物を追加しながら待っていてくれたらしい。
「どうやらまとまったみたいだな、坊主」
 よほど晴れ晴れとした顔でもしているのだろうか、バラスは楽しそうに笑って言った。ルオンはむしろ呆れた様子だ。
「いつもあれだけ言っておいて、いざ行かないとか言い出したら張り飛ばそうかと思ったぞ」
 付き合ってくれた二人にデュエールはお礼を言った。バラスもルオンも手がかりが見つかってよかったなと一緒に笑ってくれる。
 そもそも迷うことはなかったのだ。エルティスを捜し始めたのも、単に逢いたかったからだ。彼女がどう受け止めるかは別として、あの時言い損ねた言葉を伝えなければいけなかったからだ。

 南に向かうと決めたら、デュエールにはやらなければならないことがたくさんある。
 まずは雇い主と交渉して、護衛の契約を終わらせなければならない。このまま王都に向かってもいいが、確認してみるとむしろハルサスへ戻って南への道を抜けた方が早い。
 朝一番にデュエールは隊商のまとめ役の所へ赴いた。あと数日で終わる契約を反故にするのだ、何もないことくらいは覚悟していたが、バラスからでも何かあったのか、それとも物盗りに何ひとつ奪われることなくここまできたからか、契約額の半分ほどの金額が支払われる。その日一日は支度に追われ、次の日になってようやくデュエールは南へ向かう準備を整えることができた。


「お前がいなくなると、もしかすると物盗りに襲われるかもな」
「何もないように祈っておくよ」
 ルオンに茶化すように言われ、デュエールは馬上で苦笑した。ルオンの肩にはまとめられた荷物が乗っている。彼の向こう側では、隊商が慌しく出発の準備をしていた。街での逗留を終え、彼らも最終目的地である王都に向けて出発するのだ。デュエールはその反対の方向へ向かうことになる。
 既に挨拶を済ませているバラスたちも傍で荷造りを手伝っていた。事情を詳しく知っているのはバラスだけだというのに、他の面々にまで早く逢えるといいなと笑顔で言われてしまい、デュエールは複雑な表情をする羽目になったりしたのだが。
「ま、気をつけていけよ。俺はしばらく王都にいるつもりだから、無事再会できたら連絡でもくれ」
 ルオンの言葉に頷きかけて、デュエールは王都にいた女将のことを思い出す。何か逢ったらいつでもおいでと言ってくれた人。
「そうだ。もし王都に行って住む場所を探すつもりなら、城の東側に『風見鶏亭』ってところに行ってみるといい。俺の名前を出して紹介されたって言えば、少しくらい便宜を図ってもらえると思う。俺もずいぶんお世話になったから」
「『風見鶏亭』……ね。じゃあ、お前もそこに来てくれればまた会えるな。どうせなら、捜してる幼馴染みにも会わせてくれよ」
 逢うまで髪を切らないなんて願掛けするくらい入れ込んでるんだからな、見てみたくなるだろ。
 ルオンのからかいを含んだ視線をかわして、デュエールは応えた。考えてみれば、年が明けてから数ヶ月経って、デュエールの髪はひとまとめしやすいくらいに伸びている。
「ああ、わかった。エルティスと無事逢えたら、行くよ」
 隊商の出発を知らせる声が響く。ルオンは慌てて振り返った。バラスがこちらに向かって叫んでいる。
「っと、そろそろ行かないとまずいな。じゃあな、また会おうぜ」
 背を向け走り出すルオンを見送って、デュエールもようやく目的地に向けて馬の鼻先をかえした。

 ふと周囲を見て、デュエールは呟くように声をかける。辺りは朝の光が満ちているけれど、デュエールが捜しているものは見えない。
「……もし気が向いたらでいいけど、あの人たちも護ってもらえるかな。俺がお世話になった人たちなんだ」
 返事はない。届いたか、聞いてくれたかどうかもわからない。この場にもしエルティスがいれば、何かしら教えてくれたかもしれない。
 存在を知っていても見ることも感じることも出来ないデュエールにとって、精霊に向かって話しかけるというのは初めてのことだった。けれど、デュエールには精霊の加護があるのだという。その護りを、少しでも分けてくれればいい、とデュエールは思った。
 

初出 2006.6.18


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