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ハルサスから目的地のオルトまでは二十日ほどの道のりだ。デュエールはちょうどその中間地点に辿り着こうとしていた。
ゆっくりと馬を走らせるデュエールの視界にエルンデンの城壁が見えてきたのは、そろそろ日も暮れようかという頃だった。西の空に朱が滲み始めているのを見て、デュエールはほっと息を吐く。何とか日没前に街に入れそうだ。
わずかに馬の足を急がせ城門へ向かう。
街道の伸びる先に門の姿をとらえたとき、デュエールは妙な光景に気がついた。
門の直前にやけに人だかりができている。デュエールと同じようにエルンデンへ向かっている人々は結構な数いるというのになかなか街へ入れないらしく、人の山は膨らむ一方のようだ。
様子を見るため馬を下りたデュエールの横で、仕事帰りなのか籠を担いだ中年の女性がうんざりと呟いた。
「まったく、これじゃあ家に帰るのが夜になっちまうよ」
「ここはいつもこうなんですか?」
デュエールが声をかけてみると女性は驚いたように目を見張った後、笑って教えてくれた。
「普段はそんなことはないよ。ここ数日だけ。偉い人がいるからだとか、悪いことやった奴が隠れてるんだとか、よくわからないけど兵士が門のところで一人一人確認してるのさ」
ごくろうなこったね、と女性はふんと鼻を鳴らす。デュエールは苦笑したあとお礼を言って女性の側を離れた。この街の住民ですら検問にひっかかるのなら、旅人であるデュエールは言うまでもないだろう。仕方ない、諦めてこの人波に並ぶ他ないようだ。
目の前の人だかりを眺めて、デュエールは思わずため息をつく。
辛抱強く待ち続け、デュエールは空の茜色が消え去る頃ようやくエルンデンに入ることができた。
デュエールの後ろにも相当長い列ができていたから、あの人たちが街に入るにはさらに時間がかかることだろう。まったくもって先ほど女性が言っていた通り、ごくろうなことだ。
待っている間、それでもデュエールはあることに気がついた。一見一人一人を検分しているように見えて、実際のところ特定の条件の人を確認しているのだ。男性はほとんど一瞥しただけで通り抜けられる。デュエールもそうだった。
兵士たちが特に時間をかけて確認しているのは、女性、しかもある一定の年齢の女性なのだ。中年や老人、幼い子供であれば、女であってもすぐに通される。
デュエールが人だかりを見つけたときにやけに進みが遅かったのも道理で、そのとき門を通過していたのは興行を終えて出て行く一座の女性たちだったのだ。派手な色に髪を染めた妙齢の―――。
一体、捜しているのは『誰』なのだろう。
なんとなく引っ掛かりを覚えたが、まさか兵士たちに聞いてみるわけにもいくまい。
馬の手綱を引いて、デュエールは急ぐ。まずは泊まるところを見つけなければその辺に寝る羽目になりかねない。既に日も沈んでいる。
「空いてるところがあればいいけど……」
デュエールはあたりの看板を見ながら呟いた。もっとも、この時点でどこも一杯なら、あの外にいる人々も路頭に休むことになるのわけだけれども。
しかし、心配は要らなかったらしい。ほどなく手ごろな宿が見つかり、デュエールは馬も預けて休ませることができた。
少し遅めの夕食をと、デュエールが食堂に下りてみると、小さな酒場は既に人で一杯だった。ついでに話題はあの検問のことで持ちきりだった。
混んでいるのでと相席を求められ、テーブルに案内されるとそこに既にいた中年の男性が早速とばかりに話しかけてくる。
「兄ちゃんも、今日来たくちかい。大変だったろ」
「ええ。何かあったんですか?」
デュエールが尋ねてみると、彼は首を捻った。
「それがよくわからんのさ。別に人殺しだの騒ぎがあったわけじゃねぇし。今何だか偉い貴族だかが滞在してるからそれのせいじゃないかって言ってる奴もいるけどな」
なんにせよ仕事に障らないようにして欲しいもんだ。酒が回っているのだろう赤ら顔で彼は悪態をついた。
届けられた食事に夢中になりこちらから注意の逸れた男を余所に、デュエールは考え込む。
少なくとも、貴族が滞在しているから治安のためということはないはずだ。何か事件があったからというわけでもない。それならばもっと一人一人荷物まで検分するべきだし、実際兵士たちはある条件の人を探しているだけだ。
兵士たちが検問を始めたのが数日前、デュエールが『誰か』に呼ばれるのを聞いたのはもう少し前。
彼らが捜しているのは、若い女性。
ただの偶然か。それとも何か関係があるのか。デュエールの脳裏に最後に見た鮮やかな銀色の髪がちらついた。
しばらくしてデュエールにも頼んだものが届けられる。入れ替わりに向かいの男性の食事が終わったようで、彼はまた酒の肴を求めてデュエールに話しかけてきた。
「兄ちゃんはどこから来たんだい?」
「ハルサスからです。用事があってオルトに行くところなんですけど」
「ああ、あの幽霊騒ぎがあったところだろ」
その単語に反応してデュエールは一瞬動きを止める。話した当人はデュエールの様子には気付かなかったようで、知らないかい?と尋ねてきた。
「噂だけは、少しだけなら聞きました」
「ここしばらく色々聞いたけど、最近の話じゃ誰かが幽霊退治に行ってなんだか退治されたらしいぞ」
「退治された!?」
思わず大きな声で反芻してしまい、デュエールは慌てて口を塞ぐ。周囲のテーブルからも何事かとこちらを見る視線を感じて、ばつが悪い。辺りの注意が逸れた頃を見計らって、デュエールは男性に尋ね直した。彼の方は特にデュエールの挙動を気にした様子はないようだ。
「それ、本当なんですか?」
「村の連中にそんなことを言ってったらしいよ、その男たちが。見かけたって噂もあんまり聞いてなかったんだけどな」
酒をあおり、幸せそうに息をついて男性は答えた。しばらく前は美人の幽霊だってんで、捜しに行く奴が結構いたんだけど、最近は見なくなったな。
デュエールは沈黙した。時々男性に話しかけられて答える他は黙々と食事を終える。
その後、酒場にいた常連のような人々に声をかけて聞いてみても、やはり返ってくる言葉は同じだった。
オルトに現れた銀髪の幽霊は、少し前集落に突然現れた男たちによって退治されたらしい、と。
それ以上何か違うものを示す情報は得られなかった。
二、三日のうちにエルンデンの厳戒令は解除されたらしい。街道へ続く門の入り口から兵士の姿は消え、自由に人々が行き来できるようになった。
「捜す必要がなくなった……のか」
宿の借りている部屋の窓から往来を眺めると、間断なく人や馬車が通っていくのが見える。デュエールがエルンデンに入った翌日にはなかった賑やかさだ。あの厳戒令がいくらか影響していたということだろう。
窓辺から離れ、デュエールは勢いよく寝台に寝転がる。身体を受け止められて、デュエールは全身の力を抜いて天井を見上げた。
この数日間だけで何だかやけに疲れを感じる。
やったことといえば、荷物の整理と買出しとオルトや幽霊の情報探しくらいだけだが、常になんとなく誰かに見られているような気がして落ち着かなかった。実際に誰かがデュエールを見ているのに気付いたわけではないのだが、視線を感じるのだ。
あまり気配を読むというのが得意ではないデュエールですらなんとなく感じるのだからよほど見られているに違いない。けれどその正体がわからない。宿にいるときはあまりその嫌な感覚には陥らないので、用がなければこうして部屋で休んでいることが多かった。
デュエールは木目の浮いた天井にファレーナ王国の簡単な地図を思い描いてみた。
エルンデンから国境へと続く南の街道は、国をまたいで広がる大森林を大きく迂回している。その街道を西に逸れていくらか行ったところにあるのが森の傍の集落であるオルトだった。
銀髪の幽霊と言われたひとがいたであろう場所は森のほんの入り口だ。ハルサスの大森林とは比べ物にならない面積の森がファレーナ王国の南部には広がっているのである。捜すとなれば今までの苦労の比ではないだろう―――彼女が本当にそこにいるのであれば。
「まさか、本当に退治されたわけじゃないだろう?」
デュエールの小さな呟きは、ほぼ祈りに近い。幽霊が退治されたという結びがついたことで、その後の行方は完全に途切れた。
このあまりに広い森のどこかにいるのか、別の場所へ逃れたのか、……それとも失われてしまったのか。
最後の考えに、さすがに寒気がする。
ルシータの誰も手を出せなかった彼女に、たかだか人間如きで何ができるとも思えない。デュエールは心の中で言い聞かせる。神々に連なる<アレクルーサ>に太刀打ちできる者などいないのだ。
結局、目的地は変わらない。明日の朝出発してオルトに向かうつもりだった。銀髪の幽霊の話を実際に聞けば、何か違うこともわかるかもしれない。遭遇している人ばかりならば、それが彼女かどうかもはっきりするだろう。
ずっと横になっていると、やがて眠気が襲ってきた。それに逆らわずデュエールは目を閉じる。
「エル……」
どこにいるんだ、という囁きが音にならないまま、デュエールは眠りに落ちていった。
初出 2006.9.3