悠久の絆

第4章




 森の時間は人の感覚よりも遙かにゆっくりと巡っていく。ひとの目では気付かないわずかな変化を繰り返しゆるやかに変わっていく光景は、エルティスにとっては心地いいものだった。
 永遠を手に入れてしまったエルティスでは、ひとの時間にはついていけない。それを思えばここにいることが救いのような気がした。
 神々に近い存在であるエルティスの傍には様々な精霊や生き物たちがやってくる。森の中に住まうものだけでなく、時には遙か彼方から彼女の存在を訪ねてくるものもいるくらいだ。伝え聞く話はエルティスが日々を過ごすための慰めにもなった。
 あくまでもそれは巡り続ける想いから気をそらすためでしかないと、わかってはいたのだけれど。

 陽の差さない森の奥深く、樹々の太い枝に腰掛け、エルティスは足を揺らして精霊たちの話に耳を傾ける。
 エルティスはそこで初めて、神々が与えてくれた天と繋がる扉の消失が彼らの間で話題になっていることに気がついた。精霊たちにとって人々の営みは興味も知識もないことだけれど、それでも魔力の源の変化、世界の変化はわかるらしい。
 精霊とひとがやりとりをする方法は、既に大部分の人間からは失われた技術だ。彼らが恐れるのは自分たちが力を失っていくのではないかということ。そして宿命を捻じ曲げていた人間を裁き神々の意を受けて天と地の繋がりを断ったエルティスを畏れ敬っている。
 ルシータは今どうなっているだろう。
 目覚めてから思うことなど一度もなかった疑問を、エルティスは今更思い浮かべた。
 精霊に聞いてみたところでルシータの民の様子がわかるわけではない。傍目に変わったのは天を貫く巨大な柱が失われたこと、そして精霊に感じ取れるだろうことは濃密に満たされていた魔力の源が散らばってしまったこと。
 後悔はしない。それでも気になって仕方ないのは―――。

(デュエールは、あの街が好きだって言ってたよね)
 そこに住む人々は決して好きになれない人も多いけれど、生まれ育った街だから好きだ、と。
 ルシータは『滅んだ』。そこにいる人々の命は失われはしなかったものの、生きていくすべは失われた。彼らが生き方を変えられなければいずれあそこは廃墟と化すに違いない。
(……今頃どんな思いをしてルシータにいるんだろう)
 絶望の淵にいたミルフィネル姫の隣で、彼は何を思っているだろうか。もしかしたら、すべて終わらせたエルティスを疎ましく思い、厭っていたりするだろうか。
 最後に見たデュエールはどんな顔をしていただろう。
 何とか思い出そうと試みるが、エルティスは全く思い出すことが出来なかった。鮮やかな翡翠の光の前にすべては掻き消える。脳裏に浮かび上がるのは寄り添いあうデュエールとミルフィネル姫の姿だけだ。

 水がはじけるような音がして、エルティスははっと我に返る。
 目の前で水霊が訝しげな視線を彼女に向かって送っていた。エルティスが話半分に聞いていたせいか何だか不機嫌な様子だ。
 慌てて取り成すように相槌を打つと、エルティスはまたルシータに行くことがあったら人を探してと付け加える。
 不思議そうな水霊にエルティスは苦笑した。
 閉ざされたまま同じところへ向かう意識から逃げるためにこうしているのに、結局全部元へ―――デュエールのことへ戻っていくのだから呆れる。何度も何度も発作のような状態に陥り風霊に助けられているにもかかわらず、だ。

 話を聞いてくれた精霊たちに礼を言うと、エルティスは軽く腰を浮かした。そのまま舞い上がる風に乗り、葉が落ちるようにゆっくりと地面に降り立つ。
 胸に染み込むような痛みをこらえて、エルティスはぽつりと呟いた。
「だって、ずっと好きだったもの」
 小さい頃から、あの瞬間も、今も、そしてこれから先もきっと。
 この想いのためだけにこの世界に残った。だから、仕方ないのだ。
 そして、他に代わりを見つけ出すことも不可能。終わることのない時間の果てまで、忘れることなどできはしないだろう。
(もう、何も叶えられないけど)

 吐息のようなため息をついて、エルティスは再び風に乗る。今度は遠くへ行くためにだ。毎日何度も繰り返す彷徨。
 当てもなく森の中を行き来する。出入りする人々の目を恐れ奥へと入り込んだエルティスではあったが、結局は日に一回はかつていたところへ戻っていた。
 失くした思い出を手探るには、やはり酷似したあの場所でなくてはできなかったから。
 風が去った後、エルティスは陽光の煌めく湖のほとりにたたずんでいた。

 痛みと安堵が胸の奥を通り過ぎる。思い出を手繰り寄せようとして、エルティスはまだ一度も成功したことがなかったからだ。幼い頃確かに遊んだことは覚えているけれど、それは遠く霞がかった向こうにあり、どんなことをして過ごしたのかは曖昧になっている。
 取り戻せたら、最初願ったように想いを抱いて二人を祝福して生きていけるような気がするから。

 欲しいのは、居場所だった。
 姉夫婦も犬神も好きでもちろん傍にはいたかったけれど、もっと大好きなのは幼馴染みだった。誰よりも一緒にいたいと思った。
 欲しかったのは、幼馴染みの、その隣。寄り添って一緒に過ごしていられたら幸せだった。
 けれど、望んだその場所には今ミルフィネル姫がおり、エルティスの手には入らない。
 湖面を照らす陽射しはどこまでも暖かくエルティスを包み込む。

「会いたいよ……」
 ほとりに佇んだままエルティスは眉を寄せた。思わず零れた本音は洩らすつもりのないものだった。しかし一度溢れたものはもう止まらなかった。
 たまらなくなってエルティスはきつく目を瞑る。ざわつく心はこの強い想いに委ねてしまえば楽になる。その代わり決して逃れられない。
 ―――会いたい。向き合えなくたっていい。その姿を一目だけでもいいから見られたらそれでいい。
 誰を想っていたっていい、誰と笑い合っていてもかまわないから。
 もう一度だけでよかった。
 どんな優しい瞳だったか、どんなに素敵な笑顔だったか、瞳に焼き付けてそして二度と忘れないから。
 すがりつくようにエルティスは祈った。
 だから、もう一度だけ。
  




<アレクルーサ>と<器>の繋がりとは、その想い。
 互いを想い合う心が絆となり、約束された力を呼び覚ます。





 デュエールが変調を感じ取ったのはひたすらオルトへと向かう馬上だった。

 相も変わらず視線を感じ、いらつきながらの道中。
 振り切ることを既に諦めて、デュエールはゆっくりと馬を繰っていた。何故自分がこうして見張られているのか、それが一体誰なのか、見当もつけられなかったが放っておくことにしたのだ。
 夏を前に陽はどこまでも穏やかで、空気も暖かく気持ちいい。この不快な気分さえなければいい日和だ。
 馬車や人々が行きかう中馬を進ませる。これだけゆっくり行ったとしても、夕暮れには宿場に辿り着けるのだから街道はありがたいものだ。オルトまで後数日の距離。

(あと少し―――)
 エルティスの手がかりもないままに旅立って、ずいぶんと経った。それでもまだ一年にもならず、最初覚悟したよりもずっと短い。
 ここまで長く二人離れ離れだったことはなかった。こんなことになるとは想像もせず、傍にいることが当たり前だと思っていたのだ。
 崩れ去ってみて初めて、人を繋ぐ絆がこんなに脆いことを知った。大事な言葉を後回しにしてはいけないとデュエールは痛感する。


 その瞬間訪れた変化は突然で急激だった。
 デュエールの内で失われ空っぽだった場所に何かが灯る。デュエール自身がその異変に気がついた時にはもうそれは大きく膨れ上がり鮮やかに輝き始めていた。
 その光は、デュエールが忘れ去っていた、けれど身体の奥底に深く刻み付けられた懐かしい感覚を呼び起こす。
 幼い頃と同じように蘇ったその存在感にデュエールは身を震わせた。
 それはただ一人の存在と居場所を教えるもの。二人の間にある絆から生まれる特別な力。一度手放されたものが今一度取り戻されようとしている。

(エル……!)
 心の中で喝采した瞬間足場が揺らぎ、デュエールは慌てて馬を制御する。乗り手の動揺が伝わったせいだろう。危なげなく馬を抑え、ついでに対面からの早馬を避けて、デュエールはある方向を見た。
 デュエールの中に灯った光は、見えないけれど確かな軌跡を描いてどこかにいるであろうエルティスの居場所を教えてくれる。決して遠くはないそれはデュエールが今目指している辺りを指しているように思われた。
 エルンデンで話を聞かされて振り払うことの出来なかった不安が打ち消され、代わりに湧き上がったのは歓びだった。デュエールの心は変わっていない。それで絆が復活したのなら、それはエルティスがデュエールを呼んでいることにほかならなかった。
 一刻も、早く。
 思うのと手綱を繰るのは同時だった。今から急いでも街を通り過ぎて次の宿場までは行けるはずだ。瞬間的に判断するとデュエールは馬を急がせる。一瞬視線が薄れた気がしたが、デュエールはもう気にしなかった。


「この位置だと、ずいぶん森の奥だな……」
 灯りを地図の上にかざしてデュエールは呟いた。空を見上げ北の星を確認する。
 何年も前からなくなっていた感覚にもすっかり馴染み、デュエールは上手く制御できるようになっていた。今もエルティスのだいたいの居場所がわかる。
 おぼろげに覚えている昼間の記憶と比較してデュエールは首を捻った。昼間街道を南下していたときはずいぶんとオルトに近いところにいたような気がしていたが、今は離れたところにいるようだ。あるいは森の中を彷徨っているのかもしれないし、街道が東に湾曲しているせいで方向感覚が狂ったのかもしれない。
 しかし、このまま外で考え込んでいても埒が明かない。ひとつ息を吐くとデュエールは小屋の中に戻った。

 夜が更ける頃ようやく辿り着いた旅小屋は、珍しく誰もおらず宿泊客はデュエール一人だった。気兼ねなくできるからたまには良いものだ。
 デュエールは毛布を羽織り、暖と灯りを兼ねて燃やされる炎の前に座り込む。揺らめく紅い光を受けながら、デュエールは自分の中に座し続ける感覚に身を委ねた。

 久しぶりに感じる安堵感。昔はこうしてエルティスの存在を抱き込んでいることが当然だった。
 こうして取り戻してみると、この感覚を失ったまま過ごしていた頃が信じられなくなってくる。
 きっとこれがあったからエルティスと一緒にいることを当然と思ったのだろう。この光が失われることなど疑うこともなかったのにいつしかそのものを忘れ去っていた。
 今は心の距離も実際の距離もそれほど遠くない。
「今度は間違えない」
 決意を込めてデュエールは呟いた。
 伝えるべきことを告げずに、絆に頼って後回しにしたりはしない。エルティスに与えた傷を二度と作らない。必ずこの想いを伝える。そしてもう二度と傍を離れたりはしないのだ。

(そういえば、渡さなくちゃいけないものもあった)
 荷物の底にしまいこまれたままの手紙のことをデュエールは思い出した。旅立ちの最初、エルティスの姉リベルから再度預かったものだ。書かれてからあまりにも時間が経ちすぎているから、読むべき相手の手に届く頃にはすっかり昔の話になっているに違いない。
 時期外れになった手紙を読んだエルティスはどんな反応をするだろうか想像をめぐらして、デュエールは口元を緩める。
 静かな室内に炎が弾ける音がひどく心地よかった。


 数日後、デュエールはようやくオルトに辿り着き、森の入り口に立つことになった。馬と大きな荷物は既に預けてある。薬草を捜しに来た旅人だと認識されたが、デュエールはあえて訂正しなかった。銀髪の幽霊の話は一言も出なかったし、退治されたという話も聞いていたから蒸し返すこともないと思ったのだ。

 もう既に情報収集の必要はない。
 デュエールに与えられた<器>の力がエルティスの居場所を教えてくれる。
 森の入り口の近く。地図から推測される森の大きさを考えれば目と鼻の先だ。この力はあくまでデュエール側にあるもので、デュエール自身の存在を伝えることは出来ないから、彼女はデュエールがこんなに傍に来ていることを知らないはずだ。
 最後の別れは泣き顔だった。傷ついたまま彼女は消えた。再会したとき、エルティスはどんな顔をするだろうか。
 願わくは手ひどく拒否だけはされないように。復活した力を、その源である絆を、信じたいとデュエールは思った。何より今会いに行くのは、自分がエルティスに会いたいからだ。他にどんな理由もない。
 ―――逢いに行こう。
 はやる気持ちを抑えて呼吸を整えると、デュエールは森の中へ一歩踏み出した。


初出 2006.11.6


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