悠久の絆

章間




 ノーベラが灯りを掲げた先に浮かび上がったのは、格子の向こうにいるひとりの青年の姿だった。片膝をついたまま、驚いたようにこちらを見上げている。
 無造作にまとめられた髪は茶色のように見えたが、その髪もまとっている服も薄汚れていた。数日前から牢に入れられていたはずだから、確かにこんな状態にもなるかもしれない。
「あなたが、兄上が捕らえてきた重罪人、ですか?」
 そう質問を投げかけて、ノーベラは自分がおかしなことを言ったと眉をしかめた。青年から返答は返ってこない。戸惑いの表情を浮かべたまま固まっている。全く妙な聞き方をしたものだ。

 ノーベラたちを導いてくれた精霊たちがふいと青年の傍へ集まっていく。だが、彼の方は必死に様子を確認したり周囲を飛び回る精霊たちには全く気付いていないようだった。
 ―――不思議な人だわ。
 どうやら自分たちと違い、彼は普通の人であるようだ。精霊の存在には気付けないのだろう。それなのに精霊たちには重要視されていることがノーベラには信じられなかった。

 青年の視線が動き、一点でとまる。ノーベラの隣に立つミファエルの手元の剣に気付いたようだ。
「精霊たちがあなたを助けたがっていました。これは、あなたのものなのですね?」 
 ミファエルが微笑んで言うと、青年はわずかな逡巡の後静かに頷いた。
「……はい、そうです」



 その剣が転がっていたのは、兵士たちの控え室。
 二人を導いてくれた精霊の進むまま勢いよく飛び込んだときには、中にいた兵士たちに慌てられ平伏された。
 使い込まれて古びた大きな鞄とともにそれは置かれていたのだ。兵士たちに支給されているものとは明らかに違うその剣についてその場にいた者たちに聞いても、芳しい返事は返ってこなかった。
『いつの間にか置かれていたんです。処分しようかとも思ったのですが、誰かが置いたものかもしれないというのでそのままに』
 先導の精霊は剣の傍に舞い降りると、持って行け、と言った。ノーベラとミファエルは顔を見合わせる。
 何か大事なものなのかもしれない。
 精霊の執着ぶりからそう判断して、ノーベラたちは剣だけを持っていくことにした。荷物はこのまま保管してもらうようにお願いすると、兵士たちは安堵したようで快く引き受けてくれたのだ。
 軽そうに見えた剣だったが、予想よりも重く、二人で交代で運んでいかなくてはならなかった。

 ノーベラたちがあとからついてきていることを確認しながら、精霊はさらに二人を導いていく。
 すれ違う女官や兵士が不思議そうな顔をするのを無視しながら、ノーベラとミファエルは小走りに近い速度で城の廊下を抜けていった。
「……精霊が重罪で牢に入れられている人を助けたいというのは、どういうことなのだと思う?」
「その人が精霊たちを助ける代わりに罪になるようなことをした……とか?」
「でも、そもそも死罪に当たるような罪を犯した者だとしても、あの地下牢を使うことはないのよ」
 ノーベラは断片的な情報を頼りに思考をめぐらせる。
 今は使われるはずのない地下牢へ入れられているのは重罪を犯した者。第二王子グレイスによって連行されてきた人。精霊が助けようとしている人。
 兄の命令というのがどうも引っかかる、とノーベラは思った。脳裏にふと兄の言葉が思い浮かぶ。
「<アレクルーサ>……」
 ノーベラの呟きに、ミファエルが振り返った。
「そういえば、兄上が言っていた言葉だったかしら?」
「そうよ、強い魔力を持つ者だって」
 ノーベラは答に近付いたような気がした。
 魔力とはすなわち精霊と通じその加護を行使する力と言ってもいい。ほとんどの人間からは失われ、ルシータやファレーナ王族にのみ残る類稀な力だ。ファレーナの王位継承権はその力が優遇される。
「もしかしたら、その人なの?」
 ミファエルの問いに、ノーベラは頷いた。
「そうかもしれない。だったら精霊たちが助けようとするのも不思議じゃないわ」

 ノーベラの中で仮説が出来上がった時、二人は地下牢への入り口に辿り着いた。一人立っていた兵士は突然現れた二人の王女に驚きを隠せないようだ。慌てた様子で敬礼する。
 牢に入れられたのが何者なのか、何の罪を犯した者なのか、何故使っていない牢へ入れられたのか。
 この兵士は何も知らなかった。王子の命令に従いここで一日張り番をし、決められた時間に食事を運んでいくだけ。
 二人がかりで詰問しているとしどろもどろになってきて、今にも平伏しそうな様子がむしろ気の毒になってくる。
 ノーベラが命令を以って牢の鍵を渡すように言うと、彼は素直に鍵をふたつ渡してくれた。
「ふたつ?」
「ひとつは牢のもので、もうひとつは鎖を巻いた方の鍵です」
「そんなに厳重なの」
 ノーベラが驚いて尋ねると、兵士は困惑した表情で答える。
「はあ、王子のご命令だったものですから……」
 兵士にさらに灯りの用意もしてもらうと、ノーベラはミファエルとともに地下への階段へ踏み込んだのだった。



 確か兄が話していた<アレクルーサ>というのは娘だったはずだから、ノーベラの予想は違ったわけだ。それでも何か関係はあるのだろう、それは青年に訊いてみればいい。
 ノーベラは牢番の兵から受け取った鍵を取り出した。
「今、ここを開けます」
 声に応じてミファエルは足元に剣を置き、ノーベラの代わりに灯りを掲げてくれる。ノーベラは片膝をついて開錠にかかった。
 牢の鍵は容易に開いたが、鎖の方は古びているせいもあるのかやけに手間取ってしまう。鍵をはずしたのはいいものの、今度は重い鎖を格子から解くのに苦労した。
 悪戦苦闘していると格子の向こうから青年が手伝ってくれ、何とか扉を開けることができた。

「どうぞ、出てきて」
 ノーベラが声をかけると、青年は焦る様子はあるものの、やや躊躇いがちに通路へ出てくる。その手へミファエルが剣を渡した。
「あの、俺は……」
 犯罪者になっているのではなかったのですか。少し迷った後、青年はそう尋ねてきた。
 それに応じたのはミファエルだ。
「あなたが、何の罪を犯したのか、私たちは知りません。ただ重罪を犯した者だとだけ。でも精霊たちはあなたを助けようとしていたから、だから手伝ったのです」

 一呼吸の間考え込むと、青年は渡された剣を腰に装備し直した。青年は兵士のように鍛えた様子もあまりないのに、不思議なことにその剣は違和感なく彼の腰におさまっている。この青年が持つことが当たり前のような気がした。
 さらに不思議なのは、食事も一日一回だったはずなのに、青年に弱った様子がないことだ。
 今にも走り出しそうなほどに焦りを感じるのに、彼は当惑した様子でノーベラたちを見つめている。

「あなたは、<アレクルーサ>にかかわりがあるのでしょう?」
 ノーベラは答を掴んだと思った。瞬間、青年の表情が変わる。まとう気配が変わり、こちらを警戒するような姿勢になった。それでもその剣を抜かなかったのは、相手が自分を牢から出してくれた人だからだろう。
「何故、その名前を」
 その声が剣呑な響きを帯びる。青年の変化にびくりと反応したミファエルを後ろに庇いながら、ノーベラは青年を見つめた。
「私はファレーナ王国の第一王女、ノーベラです。あなたを捕らえたのは私の兄」
「王女……!?」
「<アレクルーサ>のことも詳細はわかりません。けれど、ルシータのことは知っています」
 ノーベラの名乗りに青年の表情が驚きに変わる。慌てて姿勢を変えようとする彼を制して、ノーベラは言った。
「兄は<アレクルーサ>はとても強い魔力を持つ娘だと言っていました。彼女を手に入れれば王位継承権をひっくり返せる、というようなことも」
 ノーベラの言葉に、青年は不可解なことを聞いたような表情になる。説明が足りなかったのだと気付き、ノーベラはファレーナ王族の王位継承について軽く補足した。

 最も魔法の素質が強い者が王位を継承すること。自らの血族の魔法の力を高めるために、ルシータの巫女姫の家系の者を娶ってきたこと。世界で唯一魔法を使うことのできるルシータの民を擁するために世界の中でも特別な位置を保ってきたこと。
「ルシータはエル……<アレクルーサ>によってその力を失いました。これから先、強い魔法の素質を持つ者は、たとえルシータにあっても生まれません」
 ノーベラの説明に、青年はきっぱりと言い放った。
「それは、ルシータの民でもそのうち魔法を使えなくなるということかしら」
「はい。ルシータの民が素質を持って生まれるための仕掛けは壊されたのです。あとは魔法の力は失われていくだけだと聞いています」
 魔法を使う唯一の存在だったルシータの民からも魔法が失われる―――。
 それはノーベラにとって初めて聞く話だった。ファレーナ王国のあり方そのものが根底から覆る。そんな重要なことならば、すでに耳に入っていてもおかしくないというのに。

 考え込んだノーベラの後ろからミファエルが身を乗り出し、二人の会話を遮断した。
「待って、精霊たちが呼んでいます。すぐにあの人が来てしまうと、焦っているの」
 思い当たることがあるのだろう、青年の表情が強張る。
 ―――高い、壁の外。
 ノーベラには精霊の声が聞こえる。とっさに思いついたのは、ライゼリアを囲む城壁の周囲にある森だった。王族が狩や乗馬を楽しむために滞在する館があるのだ。兄が自由に使える場所があるとするなら、そこしかなかった。
 青年が呻くように呟く。
「馬でもあれば……」
 ―――いるわ、すぐ傍にいる。
 彼の声に呼応して精霊が答えたが、青年は気付いた様子がない。やはり彼に精霊の声は聞こえないのだろう。ルシータの関係者であることは確かなようだが、精霊に対する親和性がない者もいるのだとノーベラは驚かずにいられなかった。
 青年に呼びかけた精霊と目が合う。その意図を察して、ノーベラは先導するように走り出した。
「ついてきてください! 厩まで案内します。そこにあなたの馬がいるはず」


 信用されなかったらどうしようかと思ったが、青年は迷うことなくノーベラの後についてきてくれている。なるべく人のいない通路を抜けて、ノーベラたちは厩へと走った。

 乗馬をたしなむノーベラにとっては親しんだ場所だが、見慣れない馬が繋がれていることに気付いた。青年も気付いたのだろう、名前を呼ぶとノーベラを追い越して馬のところへ駆けていく。
 ノーベラはミファエルを伴い、自分の馬へと跨った。館まで案内しなければと思ったからだが、青年の方が動きが速い。あっという間に馬の腹を蹴ると勢いよく飛び出していく。
「速い……!」
 ノーベラも慌てて馬を出し、彼の後を追う形になった。計三人を乗せた二頭の馬は真っ直ぐ街へ続く門へと向かう。
 一直線に向かってくる単騎の姿を見て、城門の兵士が警戒の姿勢をとろうとした。青年が門を抜けようとする直前に、ノーベラは後ろから叫んだ。
「命令です、そこを通しなさい!」
 一喝に兵士の動きが止まり、青年の馬は難なく門を通り抜け街へ出て行った。ノーベラたちもいくらか遅れて後に続く。門を抜け向かうべき方向へノーベラが首をめぐらせると、すでに青年の後姿は遠ざかりようやく捉えられるのみ。

 まだ何も言っていないのに、彼は行くべき場所がわかっているようだった。
「嘘……、どこにいるかも教えていないのに」
 それは勘なのか、何かがあるのか。
 ノーベラは手綱を繰るのも忘れて唖然とする。後ろに乗っているミファエルに肩を揺すられてようやく我に返った。
「ノーベラ、あの人に遅れてしまうわ」
「そ……そうね」
 ノーベラは気を取り直して馬を走らせる。隣を飛ぶ精霊たちの姿は少なくなっていた。先行する青年についていったのか、別の場所へと行ったのだろうか。前方に青年の姿はすでにない。

 ―――こっちだよ! こっちに行っちゃった!
 城壁の外、館へ最も早く出られるのは南の門からだが、その途中で精霊は別の道へ折れようとした。
「そちらからは出られないのよ?」
 ―――行っちゃったの。
 その道の先は、家々が連なる路地へ入り込んでしまうのだ。突き当たるのは壁で、当然城壁の外へは攀じ登りでもしない限り出られない。
 ただ、向かおうとしている館がある方向ではあったのだけれど。
 首を捻ると同時にノーベラは閃き、馬をその道へ向かわせた。―――案の定、青年がいる。
 そうなのだ、彼はきっと<アレクルーサ>のいるところがわかるのだ。ただ、それがどこなのかわからないだけで。

 馬で進むには狭い道が続いている。青年はどうしたものかと迷っているようだった。
 ノーベラは大きく息を吸い込むと、その背中に呼びかけた。
「そちらからでは行けません! こちらの門からでなければ出られないの!」
 

初出 2007.3.3


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