この距離の名は
どれだけ祈っても、願っても。
どうしてもあの笑顔を思い出せない。心の中に何も残っていない。
手繰り寄せようとする度に脳裏に二組の翡翠色が煌めいて、エルティスの心をひどく打ちのめした。
寄り添い合う男女の幻が、本当に目の前に浮かんでくるような錯覚に陥る。きっと彼は、遠く遠く離れたところにいるこちらを見はしない。
体中を暴れまわる不快感を抑え込むように、エルティスは自分の体をきつく抱きしめる。見下ろす水面に映るのは、艶めく銀色の髪。
ひとではないものの証。どれほど時が流れようとも、その姿が変わっていくことはない。思い出の一欠片さえ失って、この世界に独り取り残される。
すでに夏も冬も関係のない体になっているはずなのに、辺りを過ぎていく風が冷たい。身を刺していくような冷たさ。
――さむい。
急激に辺りが明るくなったような気がして、エルティスははっと目を開けた。瞬間、肩のあたりに冷気を感じて身震いする。ぼやけた視界に遠く映っているのは、四角くまだらの濃茶色。
耳元で脈打つように心臓の音がうるさい。目尻を流れていった涙をぬぐって、浅く途切れがちな呼吸に必死で言い聞かせる。
――大丈夫。もう大丈夫なの。ここは森じゃない。もうあそこにはいない。
今は銀の髪じゃない、ほら、涙だって流せてる。今見えてるのは、屋根裏だもの。
大きく息をついて、エルティスはあらためて目を瞬かせる。薄暗闇の中、目に映っているのは、間違いなく旅人小屋の屋根裏だ。
両肩がすっかり冷たくなっていた。毛布にくるまっていたはずなのに、寝返りを打つうちにめくれてしまったものらしい。夏が目の前に迫りながらも、火も灯も消してしまえば、小屋の中とはいえ冷えてくる。ずり落ちていた毛布をかぶると、ぬくもりがじんわりと染み込んできた。
エルティスは隣を見た。
灯りはないが、満月直前の光が差し込み、ぼんやりと室内を照らしている。すぐ近くで寝ている幼馴染の顔もよく見えた。静かな吐息が途切れることなく聞こえてくる。
どうやら寝ているうちにいくらか動いていたようだった。横になった時より若干距離が開いていて、ひょっとすると妙な夢を見たのもそれでデュエールの存在感を感じられなくなったからかもしれない。
エルティスは敷き毛布の上をもぞもぞと動いて、幼馴染との距離を詰めた。最初と同じくらいの位置。月明かりに照らされたデュエールの顔をじっと見つめる。
こちらを向いて眠っているから、正面からその顔を見ることが出来た。この距離で見つめ合うとしたらとても気恥ずかしいけれど、今はその凛とした緑色の瞳は閉じられているから、遠慮なく観察することが出来る。
鼻が高いなあとか、優しそうな感じに見えるのは眉のせいかなあ、とか。前より少し痩せたかなあ、とか。
穏やかに眠っているその姿はあどけなくて、一緒に昼寝をしていたくらいに幼い頃の彼を思い出させる。
さっき、夢の中で必死に求めていたひと。否、あれは確かに過去あったことだ。それもそんな昔ではない、あの時を思えば、こんな未来など想像もしなかった。
今はこうして傍にいる。面影を思い出せないと苦しむ必要もないし、いつでも望めば触れられる。
――ねえ、デュー、知ってた? あたしがずっと欲しがってたもの。
触れたらどうなるだろう、起こしてしまうだろうか。
ふと肩の寒さを思い出し、エルティスは抑える間もなく小さくくしゃみをした。それに反応したのか、間近でデュエールが身じろぐ。
「……、エル……?」
少し寝ぼけたような緑色の瞳がエルティスをとらえた。ほんの少し、まだ焦点が合ってないような感じだ。
「ごめんね、起こしちゃった」
触れてみようかな、などと悪戯を思いついたものの、まさかこんな小さな声で起こしてしまうとは思わなかった。さっきから動いていたせいかもしれない。
すっとデュエールの目に力が宿る。どうやら覚醒したらしく、エルティスの方をまっすぐ向いている。しばらくこちらを見つめていたデュエールの、その眉がふとしかめられた。
「泣いた……?」
いつもより掠れた声で問われ、目尻に触れられて、エルティスははっとする。さっき拭ったはずの涙の痕に気付かれたのだ、この薄暗闇の中だというのに。
「ううん、大丈夫だよ。デューがいるから、もう平気」
滑り降りて頬に触れるデュエールの手は温かかった。泣いたのは、心があのどうしようもなく孤独だったときに沈んでいたからだ。このぬくもりがあれば、こうして触れられる距離に彼がいるなら、もう同じ涙は流さない。
「そうか……」
ふわりと微笑まれて、エルティスの心臓がひとつ跳ね上がる。このとても嬉しそうな笑顔を覚えている。あの湖のほとりで見いだされて、エルティスが姿を現したときに見せてくれた笑顔と同じだった。
「デュー?」
まだエルティスの体に触れていた腕で思い切り引き寄せられ、デュエールの顔が見えなくなる。隙間ないほどぴったり胸元に抱き寄せられて、デュエールと自分の心音が混ざって聞こえてきそうだ。とても温かい。
「冷たいな……」
語尾は吐息と交じり合い、そのまま静かな寝息に変わる。たぶん寝てしまったのだろうが、確かめようにも少し動いただけで抑え込むように腕の拘束が強くなるのだ。触れ合えるところはすべて重なるくらいにしっかり抱きしめられている。これでは毛布も引き寄せられないが、凍える心配はないくらいに熱い。
きっとあの夢はもう見ないだろう。この温かさがあれば。
エルティスはそのままデュエールの胸にすり寄った。
触れ合うよりも近く、熱が混ざり合うくらいのこの距離。
そっと目を閉じる。二人分の鼓動がゆっくり溶け合うのを聞きながら、エルティスも追いかけるように眠りに落ちた。
過去に望んでいたよりもずっと強い距離に、もし名をつけるとすれば。
それをきっと、――幸福、と呼ぶのだ。
初出 2013.11.4