後の世に、吟遊詩人はこう歌う。
繁栄をもたらす神の子はともにこの地を去り、ゆえにルシータは滅びたのだと。
朝もやの中、デュエールは森の入り口の墓の前に片膝をついていた。
エルティスを捜しに行くと決意して、三日目の朝。
さすがに身体も疲れきっていたらしい。あの日眠りについたのは月が空高く輝く頃で、目が覚めたらすっかり陽は中天を過ぎていた。
ルシータを出て麓へ降りるには一日かかる。出発するなら朝早くでなければならない。
身体を休めて準備をして、結局今日になってしまったのだ。
二つの墓にそれぞれ水色の花を供える。春の青空のような色の花弁が風に揺れるのを見て、デュエールは満足そうに立ち上がった。こうして花をここに供えにくるのは何年ぶりだろう。
「またここに戻ってきます。そのときは、エルと一緒に」
墓碑に向かって高らかに誓う。きっとこの二人が健在なら、たぶん父と同じように見守って、元気に送り出してくれただろう。
満足げにひとつ息を吐き出すと、デュエールは背を向けて歩き出した。
朝早いせいもあるが、厩に行くまでの間デュエールは誰とも出会わなかった。
空は白み少しずつルシータの街が照らされていく。数日前まで確かにあった、常に存在感を誇示していた柱がすべてなくなっていることを除いては、デュエールのよく知っているルシータだった。
何が変わったようにも思えない。けれど静まり返った街がどこか覇気を失くしているように感じられるのは、デュエールの気のせいではないだろう。
厩に入り込むと、馬の視線がいっせいにデュエールに集まった。
デュエールが置きっ放しだった荷物を取りに来たときと、中の様子はまったく変わりない。一昨日あたりから世話もされていないのだろう。残念だがデュエールには代わりに世話をする暇などなかった。
真っ直ぐに一番付き合いの長い一頭の馬のところへ向かう。外へ行く仕事を任せられたときに彼に与えられ、それからずっと一緒に旅してきた愛馬だった。
仕事に出向くわけではないが、デュエールは勝手に拝借することにしたのだ。この様子からすると一頭いなくなったところですぐ気付くとも考えられないし、このくらいはいただいていっても許されるだろう。
結び付けられた紐を解きながら、デュエールは馬に話しかけた。
「エルを捜しに行くんだ。お前もついてきてくれるだろう?」
この馬はエルティスのお気に入り。ルシータの入り口の門で幼馴染みの帰りを待つ彼女は、デュエールに出迎えの言葉をかけた次に必ず彼にも声をかけていた。馬の方もエルティスに好意を持っていたらしく、懐いていた気がする。
馬の背に荷を括りつけると、デュエールは手綱を引いて厩を出る。外はさらに明るくなり、そろそろ出発しなければならない時間になっていた。
馬の軽快な足音を聞きながらルシータの出入り口となる門へ向かって歩いていると、デュエールは門の前に人影があることに気がついた。
徐々に近付いていくうちに、そこに立つのが腰より伸びた白髪をひとつに纏める神官姿の女性であることが分かる。
巫女姫が神託を人々に告げるときに常に傍につき従うのが確かこの老神官だった気がする。今の巫女姫が首長となる前から助言を与え支えてきたのが彼女であると、デュエールはおぼろげな記憶の中からミルフィネル姫の話を思い出していた。
老神官は身動きひとつせず、真っ直ぐこちらを見つめている。その視線はデュエールに向いていて、彼を待っていることは明らかだった。
彼女は門の真正面に立っているために、彼女がどかなければ外へは出られない。一体何故老神官がここで待っているのだろうとデュエールは周囲を窺った。気配を感じ取るというのはあまり得意ではないが、おそらく他には誰もいない。
相手の表情がはっきり見えるまで近付くと、デュエールは手綱を繰って馬を止めた。石畳に響く足音が消えると、他に音を立てるものは何ひとつないことに気づく。
老神官は穏やかな笑顔でデュエールに話しかけてきた。
「間に合ったようですね。気紛れにも精霊たちがあなたが旅立つことを教えてくれたので、急いで来てみたのです。どうしてもあなたに謝っておきたかった」
「……?」
彼女の言葉にデュエールは首を捻る。
「先の首長のときから、こうしてルシータが滅びるということは分かっていたのです。知りながら、先延ばしにすることしかできなかった。私たちはもっと早くに真実を受けれいれなければならなかったのです……」
あなたはあの子を探しに行くのでしょう、と老神官は言った。
「あなた方を厳しい宿命に巻き込んでしまったこと、どうぞお許しください。先代のときも、今も、私は見ているだけだったのです」
彼女は、深々と頭を下げる。神官たちの中にそんなことを言う人がいることがデュエールには驚きだった。
父の世代に<アレクルーサ>が一人いたという。その人と父の間に犬神の挙げた条件が成立しなかったからこそ、ルシータを滅ぼす宿命はエルティスとデュエールに持ち越された。
老神官が言うように、もしそのときにルシータの滅び―――魔法が失われていたら、どうなっていただろう。
『<アレクルーサ>と<器>の絆とルシータを滅ぼす使命が約束されたものならば、そもそも強大な魔力を持つエルティスも魔法を使えないお前もここには生まれていなかった』
犬神の言葉をデュエールは思い出した。
もしそうなら、<アレクルーサ>の宿命を持たないエルティスは今のように強力な魔法を使えなかっただろう。<器>の宿命のないデュエールも同じようにまったく魔法が使えないことはなかったはずだ。
二人とも今までのように冷遇されることはなかっただろうし、デュエールがエルティスを感じ取ることもできなかった。そして、エルティスがデュエールの目と耳を共有することもなかったのだ。
たぶん、この十七年の思い出がまったく違う形になっていたことは間違いない。今のように仲良くなっていたかも分からないし、あるいは生まれてさえいなかったのかもしれない。
この身に負わされた宿命を根本から否定することは、デュエールにはできなかった。それはエルティスと過ごしてきた時間をなかったものにすることだから。
なんと伝えたらいいだろう。彼らの所業を肯定することはできない。それでも彼らの選択がデュエールとエルティスを生み出していることも事実。
時間もないというのに散々迷った挙句、デュエールはようやく老神官に声をかけた。
「許すか許さないか、俺にはわかりません。感謝……はできないけれど、たぶん否定もできません。もっと早くに魔法がなくなっていたら、俺もエルティスも今とは違うだろうし、今みたいに強い繋がりができたとも思えませんから」
我に返ったように老神官が顔を上げる。デュエールの顔を見てそこに激しい感情がないことが分かると、彼女はほっと安堵の息を吐いた。あるいは彼女もずっと罪の意識に苛まれていたのかもしれない。
「ありがとうございます。あなたが、ご自身の半身を見つけ出されることを、心からお祈りしております……」
老神官の言葉は、デュエールの心にすっと染み込んでいった。
今、彼女が言った一言。
半身。
エルティスへの気持ちにぴったり合う言葉を、見つけたような気がした。
好きだとか、大切だとか、そんな言葉ではたぶん足りない。十七年一緒に過ごして、まるでひとつ身を分け合った双子のように傍にいることが当たり前だった。彼女の行方を失ったことで、確かに身体のどこかを失くした気がする。
こうまで想う相手を、きっと半身と呼ぶのだろう。
老神官は長衣の裾を石畳に鳴らしながら横に移動し、デュエールが進む道を開けた。彼女の前でひとつ礼をすると、デュエールは馬の手綱を引き扉へと向かう。
仕事のために何度も何度もくぐった街と外との境界線。蝶番の音を鳴らして扉を押し開けると、まだもやの晴れない山道が目の前に広がっている。
馬を伴い門を抜けてデュエールが振り返ると、老神官が扉を閉めようとそこに立っていた。その顔には優しい微笑みが浮かんでいる。孫を見守る祖母のようにも見えた。
この人も、二人を見守っていた人なのかもしれなかった。
ならされた土の下り道を、デュエールはゆっくりと下っていく。麓のレンソルの村にたどり着くのは日が沈む頃になるだろう。
レンソルにはリベルがいる。エルティスのことを相談して、それから先どこへ行くのかはそこから決めればいい。
手紙を渡し損ねたことを、リベルはどう思うだろう。ルシータに帰ってからエルティスとまともに向き合う時間などなかったから、どうしようもないのだけれど。
あの日リベルに託された手紙は、荷物の中に入れられたままデュエールの手元にあった。
リベルは必ず渡してほしいと言ったのだ。エルティスを捜し出し、この手紙を届けなければならない。
それに。
まだ伝えていない大事な言葉がある。あの、出発の二日前、勇気が足りずに言い出せなかった言葉。
長い間抱えてきたこの想いを伝えるために、デュエールはエルティスを見つけ出さなければならないのだ。
どこにいるのかは分からない。けれど、きっと風が導く。外界に出ることを許されないエルティスが世界中を渡れると憧れた風が。
事の発端となったあの旅立ちと同じ出で立ちで、デュエールは麓へ向かって道を下っていく。
あのときとは目的を違えて。
デュエールの腰元で、あのときはなかった彼のための剣を飾る宝石が、陽光もないのに煌めいていた。
ーおわりー
(初出 2004.10.31)