色褪せぬ記憶
それは、静かに雨の降り続く頃のこと。
もう十年ほど前になる。ややおぼろげになりつつあるその頃の記憶の中でも、その一連の出来事はいつ思い出しても鮮明に蘇るのだった。
空は一面の重い灰色に覆われ、街を覆う樹々は雨にくすぶり黒く沈み、音なく雨が降りしきる、そんな日。
街の中央にある神殿で、巫女姫カルファクスの名の下、流行り病により命を落とした人々の合同葬儀が行われていた。
この年、世界中で同じ病が流行り、多くの命が失われている。しかし、治癒魔法を心得る者の多くいるこのルシータでは、それでも致命的なほどには流行らなかった。犠牲者は両手をわずかに超えるほど。
ルシータでは、冠婚葬祭はすべて神殿により仕切られている。誕生や婚姻の寿ぎも亡くなった者の弔いも、神々の名のもと、巫女姫により行われるのだ。
葬儀に参列するのは、巫女姫を始めとする神官、そして亡くなった者の遺族や友人たち―――と言っても、このときの犠牲者はほとんどが老齢者や赤子であり、参列者の大部分は家族だったのだが。
妻を今回の流行り病で亡くしたジュノン・ザラートも、まだ幼い息子デュエールと共に儀式に参列していた。そしてそのすぐ横には、あろうことか両親を一度に亡くした少女たちが喪服を身につけ同じように佇んでいる。
息子と同い年の―――しかもまったく同時に生まれている―――少女、エルティス・ファンとその姉リベル。母譲りの亜麻色の髪に、よく似た綺麗な顔立ちの姉妹である。
エルティスはずっと泣きっぱなしだった。リベルは、しっかりと妹と手を繋ぎ、黙って両親の棺を見据えている。まだ十を越したばかりとはいえ、たいしたものだ。その目は間違いなく赤かったけれど。
ジュノンがデュエールの様子を伺ってみると、泣きじゃくるエルティスの隣にいながら、彼は一緒に泣き出すこともなく逆に彼女の頭を撫でていた。一生懸命、慰めようとしていたのだろうか。
やがて、儀式が始まり、巫女姫が一人一人に弔いの言葉をかけていく。
歌のような弔いの言葉に、ジュノンはあらためて自分の妻の眠る棺を見つめる。脳裏に、快活に笑う妻の姿が思い浮かんだ。
まだ、若かった。病弱だったわけではないし、決して無理をさせていたわけではない。それでも同じように病にかかりながら、助かった者もたくさんいる。
自分に、もう少し力があったなら、一人逝かせてしまうことも、息子に悲しい思いをさせることもなかったのかもしれないと、ジュノンは悔やまずにはいられなかった。
このとき初めて、ジュノンは自分が魔法を使えるすべを知らないことを憎んだのだった。
辺りに響く人々の悲しみの声。神殿の窓から垣間見える雨。
耳には決して響かないけれど、しとしとと神殿を包むように降る雨は、人々の悲しみの結晶だったのかもしれない。
故人は、それぞれの家に引き取られ、一晩を共に過ごした後、共同墓地のそれぞれの場所へ家族の手により埋葬される。
妻の棺と共に自宅へ帰ったジュノンは、家の入り口である光景を見た。十年以上経ってからも、色褪せることのない印象的な光景。
両親の亡骸と共に自宅へ帰ってきた姉妹のうち、姉のリベルが棺を運んできた神官に何か言い募っている。会話を聞く限りでは、幼い二人では埋葬するのは大変だろうから、代わりに引き受けよう、と神官が申し出たらしかった。
―――必要ありません。両親を見捨てたあなたたちに、父と母を埋葬してもらいたくなんかない。どんなに時間がかかっても、私とエルで弔います!
大の大人ですら怯むようなはっきりとした言葉と、少女の両眼に宿る光。
姉の横で、妹のエルティスは同じような光を瞳に宿し、黙って神官を見据えている。
時間が経って落ち着いた頃、様子見に訪ねたジュノンがさりげなく手伝いを申し出てみると、応対は違ったけれど、姉妹は穏やかに手伝いを拒んだのだった。
翌朝。
別れを名残惜しみ、やや日が昇った頃、ジュノンとデュエールは棺と共に共同墓地へと向かった。
雨は上がり、周囲の灌木の葉は静かに露を零している。空は雲に覆われ、青空が見える気配は欠片もないが、昨日より幾分か明るく感じられた。
共同墓地には誰もいなかった。もう既に埋葬し別れを済ませたか、彼ら以上に別れを惜しみ、まだ自宅にいるか、どちらかだろう。
墓はだいたいが指定された場所になる。昨日のうちに知らされていた区画は軽くではあるが土が掘り起こされていて、ジュノンとデュエールは早速穴を深く掘るべく道具を持って作業に取り掛かった。
デュエールも幼いながら懸命に土を掘り起こしている―――頑なに手伝うと言いジュノンが何度言っても聞きはしなかった―――。もちろん父親の速度と能力に適いはしなかったのだが。
あの幼い姉妹も、こんな風にして土を掘り起こしたのだろうか。
ジュノンはふと思い立ち、隣の指定されている区画を見る。そこがファン夫妻にあてがわれた場所だったが、手がつけられた気配はない。ただ、名前を刻むべき石がなくなっていた。
辺りを見回すと、共同墓地の外れ、墓が集まっているところからはやや離れた森の近くに、不自然ではないが土が盛られたとわかるものが二つほどあった。それぞれに花が供えられていて、そこに石板が立てられていたのだ。
明らかにファン夫妻の墓である。
どんな意図を以て、姉妹がそこに墓を置いたのかはわからない。ただひとつだけわかるのは、そこは神官たちの手により土を柔らかくされた場所ではない、ということだ。
いくらリベルが将来神官となることを期待されるほどの魔力の持ち主だとしても、魔法で出来ることも限界があるだろう、何よりまだ幼い子供である。
姉妹が必死に二人分の土を掘り起こす様子をそこに想像し、ジュノンは何故だか物悲しくなった。
「―――お父さん」
息子の声が耳を打つ。見れば、手を止めて遠くを眺めるジュノンを不思議そうに見上げていた。
「なんだい?」
「このくらいで、いいの?」
掘った穴を指し示している。穴はいつのまにか大きく深くなっていた。彼自身はこうして誰かを埋葬するのは初めてではなかったから、嫌な経験ではあるけれども経験上必要な大きさはだいたいわかる。
「そうだね、母さんを眠らせるにはこのくらいでいいだろう」
「うん、……わかった」
デュエールは手を止めて横に道具を置いた。
棺をそこに納めると、ジュノンはもう一度妻の顔を見るために棺の蓋を開ける。胸の前で手を組み、穏やかに瞳を閉じている女性の顔を、二度と忘れないために脳裏に焼き付けた。
「お母さん……」
デュエールの小さな呟きが聴こえる。そこで、ふとジュノンは気付いた。
まだ幼いこの息子が、葬儀を行っていた昨日から今まで、一度として泣いていないことに。
母親が最後の言葉を遺し深い眠りについたとき、あれだけ叫んでいた彼なのに。
「デュエールは、強いな。昨日から全然泣いてない」
こんなに別れを惜しんでいる父親に比べたら、ずっと強い。
だが、デュエールは先ほどまでジュノンが見ていた方向を見ながら、意外なことを言ったのだった。
「……泣けるわけないよ。エルはお父さんもお母さんも亡くしたのに。僕はまだお父さんがいる。……だから泣かない」
瞳は潤んでいるのに。唇はぐっとかみ締められているのに。今にも泣き出しそうな様子なのに、それでも小さな息子は自分は泣かないのだと言い切った。
その視線の先には、姉妹が作り上げただろう、二人分の墓。
強がりだろう。それでも強くなりたいのに違いない。悲しみをこらえられるくらいに。
ジュノンは、口元に笑みを浮かべずにはいられなかった。
穏やかな気持ちを抱えたまま、ジュノンはデュエールと共に妻を弔った。
数日後。
隣人であるリベルに、もうすぐ昼食なのにエルティスが森に山菜を採りに行ったまま帰ってこないと相談を受けたジュノンは、エルティスだけでなく、同じく遊んで来ると出て行ったきり戻る気配のないデュエールも一緒に探すことにした。
森で迷うという心配はしていない。この森の統治者犬神に二人が好かれており、よく出入りしていることをジュノンは知っている。
同い年で幼馴染み、そして共に"神の子"の予言を受けたもの同士、二人がよく一緒に行動していることは、姉のリベル、父のジュノンだけでなく、ルシータの民のほとんどが把握していた。
森の入り口からそう遠くないところには、湖が広がっているのだが、そこがこの二人のお気に入りの場所だということは、家族以外はまず知らない。
迷うことなくジュノンは森に分け入り、頭上から下がる蔦や伸び放題の枝を何とか避けながら、湖を目指した。
そこは、ルシータの水源であり、かつては水を司る神の名を取って呼ばれた湖。今はその名を忘れられ、たまに水を管理する者が水路の様子を確認しに訪れる程度。
そのほとりで、デュエールとエルティスはよく遊んでいるのだった。
ジュノンがデュエールを先に探すことには意味がある。彼にはエルティスの行き先はわからないが、デュエールの遊ぶ場所の見当はつきやすいのだ。
そして、デュエールを見つけられれば、エルティスの場所は容易に知ることが出来る。
不思議なことなのだが、デュエールにはどれだけ離れていても瞬時にエルティスを見つけ出す力があるらしい。ジュノンはそのために二人が"神の子"と呼ばれることを納得していた。
まったく同時にこの世に生まれ来たというささやかな奇跡。それが何かしらの絆を、二人に与えたのだろう。
ゆっくりと辺りを確認しながらほとりを巡る。生い茂る樹々の隙間から見える水面は空の雲を映して白く、わずかな陽光によりかすかに煌めいている。
頭を下げたり手でかばったりしながら歩くジュノンの耳に、やがて小さな啜り泣きの声が聴こえてきた。
誰かが泣いている。
その声を聞くだけで、ジュノンはすぐそこに誰がいるのか見当がついた。泣かないと頑固に言い張っていても、やはりまだ幼子なのだなと思いながら、ほとりを覗き込む。
思ったとおり、そこには自分譲りの茶色の髪の少年が座り込んで顔を俯けていた。
ただ、予想外だったのは、そこにいたのがデュエールだけではなかったこと。
もう一人の目的であったエルティスがそこにいたのだ。亜麻色の髪の少女の存在に、ジュノンは思わず目を見開いていた。
俯いて泣くデュエールの傍に寄り添って、頭を抱え込むエルティスのその姿は、まるで周囲からデュエールの泣く姿を隠そうとしているかのようだった。
神々に持つことを許された特別な絆。
同じ瞬間にこの世界に生を受けたという小さな奇跡。
ジュノンは、二人の姿を見て、心の中に温かな光が灯る気がした。
声をかけずに顔を引っ込め、ゆっくりと森の入り口へと戻っていく。
家に着いたら、リベルにも伝えよう。二人は同じ場所にいて、いずれ一緒に帰ってくるだろうから、心配しないで待っていよう、と。
彼の足取りが来るときと違いやけに弾んでいることを知っているのは、森に住まう精霊たちだけだった。
そして、この頃から、ジュノンは息子だけでなく、隣家の姉妹の面倒も一手に引き受けることとなる。
―――誰も、この先にある未来を知らない。このときは、まだ。
(初出 2003.7.27)