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昨夜の出来事が尾を引いていたのだろうか、エルティスはいつもよりも早く目が覚めた。
鳥のさえずりが響き、昇ったばかりの穏やかな太陽の光が照らす、森に包まれたルシータの朝は、空気も爽やかで心地いい。
勢いよく飛び起きたエルティスは、そのまま家の中で一番陽の当たる場所で大きく伸びをした。
太陽の輝きに浄化されて、体に残る疲れやだるさが一気に吹き飛んでいく気がする。
「―――よし! 今日も頑張ろう」
今日は神殿に仕事に行く日。デュエールを待ちながら、今日も一日頑張れるような気がした。
神殿の小間使いは、朝から晩まで忙しい。帳簿整理から掃除から、いわゆる雑用を一手にまかなう。
この日も、エルティスは女官たちに言われるままに、書類運びだの古くなった帳簿の整理だのを行っていた。ひとつの仕事が終われば次の仕事を言いつけられるということの繰り返しで、落ち着いて一息入れる間もない。
慌ただしく過ぎていく時間の中で、巫女姫カルファクスの一人娘、ミルフィネル姫がエルティスに声をかけたのは、彼女が神殿内の中庭の通路の掃除をしていたときのことだった。
昼食を摂った後すぐに命じられ、エルティスはこの際だから徹底的に綺麗にしてやろうと気合を入れており、このときも細かく彫られた文様に積もった土埃を落とそうと柱を磨きこんでいたのである。
始め声をかけられたときには、まったく気付かなかった。
「あの」という声を聞いたときも、声色でミルフィネル姫だということはわかったが、エルティスはまさか自分が話しかけられたのだと思いもしなかったのだ。
何しろ、ミルフィネル姫はデュエールに話かけることはあってもエルティスに話かけることは一度もなかった―――用もないのに話しかけるわけがないのならそれも当然であるが―――。
「あの、少しお話があるのですが」
しばらくしてややいらついたような声が響いて、エルティスは初めて彼女が自分に声をかけたことに気付いたのだった。
エルティスは慌てて立ち上がり、声の主に向き直る。
「はい、何でしょうか?」
「あなたは、デュエールがどこにいるのか、見ることができるのでしょう?」
エルティスよりひとつ年下の彼女は、腰よりも長い黒髪を揺らめかせながら尋ねる。
突然の質問に戸惑いつつエルティスが頷いて答えると、ミルフィネルは大きな黒目がちの瞳を輝かせた。
「もう二ヶ月も経つのだから、そろそろデュエールも帰ってくる頃だと思うの。どの辺りまで来ているか、わかりませんか?」
「ええと……」
確かめるような、考え込むようなそぶりをして、エルティスは目を閉じた。エルティスがデュエールの視界を見るという事実の詳細を知らないミルフィネルには、彼女がデュエールの様子を伺っているとでも見えるだろう。
さっき昼食のときに、すでに一度確かめていた。デュエールは今日のうちにレンソルにたどり着く。村で休み、明日の朝一番に出発すれば、明日の夕方にはルシータに帰ってくることができるはずだ。
しかし。そのことを、ミルフィネル姫に知らせたくない。
明日帰ってくることを知れば、たぶん彼女は門の前でデュエールの帰りを一途に待っているに違いない。
彼女を喜ばせた上に、一番最初にデュエールと彼女を会わせたくはなかった。
エルティスはぱっと顔を上げると、きっぱりとミルフィネルに言い切った。
「まだ、レンソル近くにも来ていないようです。仕事がずいぶんと長引いているみたいですね」
「本当に? まだ帰ってくる様子はないの?」
「ええ、見える木々や花の様子がこの辺りとはずいぶん違いますから、たぶん」
「そう……」
見る見るうちにミルフィネルの表情は曇っていく。純粋に落ち込んでいるらしい。彼に会えなくて寂しい気持ちはエルティスにもわかるつもりだったけれど、だからといって本当のことを教える気はなかった。
ありがとうと一言お礼を言い残すと、ミルフィネルは建物の中へ消えていく。
黙って、エルティスはその後姿を見送った。
「……悪いことは、してないよね。たぶん……」
ミルフィネルは建物に入ると、そのまま自分たちの居住空間へと向かっていた。一歩踏み出すたびにふわふわとドレスの裾を揺らしながら、歩く。
廊下を歩き続け、突き当たりの大きな扉の前に立つと、呼び鈴を二回ほど鳴らした。
「お母様、ミルフィネルです」
「どうぞ、お入りなさい」
中から聞こえた声に、ミルフィネルはそっと両開きの扉を押し開けた。途端に、ほのかな紅茶の香りが彼女の鼻腔をくすぐる。
室内では彼女の母親でありこの街の首長でもあるカルファクスが、娘のために紅茶とお茶請けを用意して―――もちろん自身で用意するわけではないが―――待っていた。
「お帰りなさい。お勤めご苦労様。お茶の用意ができていますよ」
優しげな笑みと声で、カルファクスは娘を呼ぶ。
ミルフィネルは、母の勧めるままに彼女の向かい、ティーセットの用意された場所へと腰掛けた。
カルファクスの手で注がれた紅茶のカップを上品なしぐさで持ち上げ、一口いただく。美味しさに満足した後、ミルフィネルは思い出したようにカップから顔を上げた。
「お母様。デュエールはまだ帰らないそうです」
「本当ですか?」
娘の言葉に、カルファクスはカップを持ち上げる手を止める。確かめるように尋ね返した。
「はい。つい今しがた、エルティスから聞いてきました。まだ、レンソルにも近付いていないそうです」
「では、今日明日に帰ってくることはないのですね」
そう呟いたカルファクスは、先ほど娘に向けたような穏やかな顔をしていなかった。すでに巫女姫の顔へと変わっている。
今日のうちにレンソルにたどり着かなければ、明日中にルシータへ帰ってくることは無理だ。夜の山道ほど危険なものはない。例えどれほど早く帰って来たい理由がデュエールにあったとしても、夜にオルカリア山登山を強行するほど無謀ではなかった。
「実行するなら……今こそ、というわけですか……」
小さく呟きながら、カルファクスは考え込む。
この選択に、今後のルシータの未来全てがかかっていた。選択を誤れば、待つのは一直線の滅び。そして、この選択は先送りすればするほど、民に恐怖を及ぼすものでもある。
かつて、過去に一度同じような選択をし成功したという事実が、カルファクスの背中を後押しした。
カルファクスは宣告するように娘に告げる。ミルフィネルはその言葉を聞いて表情を引き締めた。
「ミルフィネル、お茶の最中にごめんなさい。神官たちに連絡を。―――明日、計画を実行します」
(初出 2003.8.21)