二人の物語

第5章 喪失




 彼女は一人、やっとの思いでそこに立っていた。
 身体に力が入らない。足元もおぼつかなかった。
 本来なら、日も当たらないために薄暗くひんやりとしているはずの洞穴は、蒸し風呂よりも暑く、埋められた石壁と掘られたでこぼこの土壁が赤く照らし出されていた。
 土を掘って作られた、人一人がやっと通る細い一本道。石でところどころ補強されたその道は、奥へと進むとやがて小さな祠に突き当たって終わる。

 ―――熱い。

 外からの光は、彼女が入ってきたときよりも小さくなっている。
 外界との唯一の繋がりである祠の入り口は、崩れでもしたのか彼女が覚えている大きさの半分になっていた。
 そして、かろうじて残っている残り半分の入り口は、炎によって塞がれているのだった。
 穴を埋めるように何か草のようなものが積み上げられ、大きく炎が燃え上がっている。その炎は祠の中へと崩れた草を伝わり、内側へ熱と火を吐き出していた。煙と熱が通路に充満する。

 ―――苦しい。

 煙に燻され止らない涙と咳。
 無理にでも突っ切れば、外へ出ることはできるのかもしれない。だが、それを阻むように風が外から中へと送り込まれ、彼女を牽制するように炎を煽る。

 ……どうして、自分がこんな目に。
(巫女姫の誘いに乗った私が馬鹿だった……)
 悔やんでも悔やみきれない思いが心の中を埋め尽くす。
 この洞窟のことを、この一番奥にある祠の意味を、知っていたら絶対に誘いに乗ったりはしなかったのに。

 ここが魔力封じの祠でさえなかったなら、たとえ入り口を炎で塞がれようと簡単に外に出ることができる。
 彼女はルシータの民の誰よりも強く精霊たちと心を交わすことができるのだ。風霊に願って空間を飛び越えることもできるし、火霊に祈って炎をかき消すことも、水霊に頼むことさえできるのだ。彼女の願いに、精霊が応えぬはずはない。
 だが、それもこの場所では無意味。ここは魔力を封じる祠。山肌にある入り口に一歩入ってしまえば、たとえどれほどの魔力を放出しようとそれは全て一番奥にある祭壇に奪われてしまう。
 魔力が使えなければ、精霊にどれだけ好かれていようとこちらから働きかけることはできないのだ。
 だから、閉じ込められてしまえば、年若い娘一人、出るすべはない。

 彼女は、何故自分がここに追いやられたか知っている。どうして閉じ込められ炎でいぶされているのか知っている。
 自分が、彼らの罪を知り、糾弾する存在だからだ。だからこそ、この場に今追い詰められている。よりにもよって、彼らが犯している罪の片棒を担がされようとしている。
 その証拠がこの洞窟の奥にある祠。
 見た瞬間に、彼女は祠の意味を理解した。それは、神に祈りを捧げるものではない。何かを祀るものではない。それは―――。
 全てを知っている彼女にとって、それは屈辱以外の何物でもなかった。

 息が苦しい。身体が焼かれるように熱い。
 立っていることさえできず、彼女はその場に座り込む。もう一度立ち上がることはできなかった。足に力を入れることさえできない。
 もう自分に残された時間がわずかであることが、彼女にはわかっていた。
(―――絶対に、許さない)
 真っ直ぐに前を見据える。炎が遮る視界の向こう、外に立っている人々を彼女は睨み付けた。こちらが見えるはずはないのだけれど、そうせずにはいられなかった。

 彼女は神々に愛された存在。他の誰よりも精霊と近く生まれ、巨大な魔力を操ることができる愛ぐし子。天より使わされた使者を宿す者。
 だが、彼女は命の限りある人間なのだ。人が命を失うような危険にさらされれば、普通の人間と同じように彼女も命を落とす。
 それでも。

(私がいなくなっても、……まだ終わらないわ)
 同時に彼女は確信していたのだ。自分の命が尽きても、それで全てが終わるわけではないことを。それは、彼女にとっては望むべきことだった。
 ここにルシータがある限り。ルシータが繁栄する限りは。
 罪ある彼らにわずかたりとも安息を与えたくない。
 ―――どうか力を。

 涙で潤み揺れる視界でもう一度彼女が外を睨み付けると、炎の向こうにある光景がはっきりと彼女の脳裏に浮かび上がった。
 彼女がいる祠を囲んで見守る白装束の人々―――このルシータの神殿で働く神官たち。そしてその中央で真っ直ぐこちらを見る、地面へつくほどに長い黒髪を煌めかせる女性―――神の声を聞く唯一の存在である巫女姫―――と傍らで同じように見守る彼女と同年代の娘と。
 不思議なことに、もう熱さは感じなかった。いつの間にか涙を流している感触もなくなっていた。
 もうどこにも力は入らなかったのに、彼女は身軽に立つことができたのだ。身体すら重力から解き放たれ、わずかに地面を蹴っただけで彼女は炎をすり抜け外へと降り立った。
 祠を見守るように取り囲む巫女姫たちの顔に衝撃が走る。よっぽど自分が炎の中から飛び出てきたことが驚きだったのだろう。
 太陽の光が大地を優しく照らしており、祠の外はまばゆいばかりに明るい。

 しかし、彼女は外の涼しげな空気を吸い込むことも肌に感じることもできずにいた。
 苦しさを感じなくなった代わりに、あらゆる感覚を失くしてしまったのかもしれない。
 熱さや苦しさ、身体の重みからの解放感とは裏腹に、彼女の意識は朦朧としていた。今にも気を失いそうだ。そして、意識がなくなったときが終わりだということが彼女にはわかっていた。
 結局は、巫女姫や神官たちの望むとおりになってしまうのだ。
 今、このときだけは。
 たとえ自分が消えても、それでも自分に宿った宿命は消えることはない。使者は新たな血へと受け継がれるのだ。自分が生まれてきた、この血が続く限り。
「―――あなた達は罪人よ、いつか世界に裁かれるでしょう」
 彼女は、高らかな声で巫女姫に言い放つ。咳き込むほどに煙を吸い、熱で焼かれて声はしわがれているかと思ったが、その言葉はいつもの彼女の声よりも美しい音色で紡がれていた。不思議な響きを伴った声が、巫女姫たちへ叩きつけられる。
「私を滅ぼしても、この地が続く限り、あなた達が栄える限り、決して終わらないわ!」
 ―――いつか、私と同じ血に連なる者に滅ぼされてしまいなさい。罪を犯すあなたたちに、存続の価値はない。

 もっと言いたいことはたくさんある。だが、口はそれ以上動かせなかった。そこが彼女の限界だったのだ。
 最後の糸が切れるように、彼女の意識は這い上がれないほどの深い底に沈んでいった。

(初出 2004.1.4)


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