7
次の朝も、鈴麗は張り切って出仕した。今夜には父か再び家を訪れる。それまでには確実な答をつかまなければ。
焦ってもおかしくないところだが、鈴麗は不思議なことに落ち着いた気持ちで城に上がり廟の前に立つことができた。
「おはようございます」
扉を開けて、挨拶をする。廟の中には横たわる芳姫以外には誰の姿もない。医師と術士の診察の時間は既に終わっているということだったから、別段おかしなことでもないだろう。
昨日の反省から、鈴麗は今の季節には少しそぐわない厚手の服を着込んでいた。もし廟に誰かが来てもここで調べたいことがあるせいだと言えば特に怪しまれることもないだろう。もっとも、内側から根こそぎ熱を持っていかれるのだからいくら厚着をしたところで凌げるはずはないとは思ったのだが。
「明日には、芳姫様にかけられた術を解いてみせます、絶対に」
芳姫の眠る寝台の前に立って、鈴麗は誓いのように呟いた。言葉にすることで現実になるように、願う。
術の確認をする前に、鈴麗は昨日までに得られた情報を整理しようとした。
解くべき術の構造は知っている。昨日おぼろげに見えたあの幻で間違いないはずだ。ただ、母の眠りを覚ましたのと同じ方法だけでは駄目だということはわかる。芳姫は二つ以上の術を重ねられて眠りに落とされているのだ。
そこまではわかった。
「だから、眠りの術を解くだけじゃなくて、もうひとつの術を確かめないと駄目なんだよね……」
今日確かめるのはそれだ。昨夜母に助言されたように、上手く入り込まないと一回ごとに痛い目を見る羽目になるだろう。
目を閉じてゆっくり深呼吸をしてから、鈴麗は芳姫の手に触れてみた。
経験を重ねる毎に魔術の残滓をつかむのが楽になってくるという自覚がある。昨日よりもずっと素早く、鈴麗は芳姫を絡めとっている魔術を手繰り寄せることができた。
知っている眠りの魔術とは違うものが絡んでいる。
廟内の冷気とは明らかに違う冷たさが身体に染み渡ってくる中、鈴麗は必死に探っていく。
(無理に引っ張り出そうとしない……)
入り込み方が上手くできたせいか抵抗する様子はあるものの、昨日のように勢いよく牙を剥かれるということはないようだ。確かめていくうちに、鈴麗は何かをつかんでいた。
「……わかった!」
いつの間にか閉じていた目をぱっと開くと、目の前に浮かんでいた魔術の構造の幻は霧散する。だがそれ自体は鈴麗の頭の中にしっかり残っていた。
思ったより声が大きかったらしく、かすかに廟内に反響するのを聞き取り、鈴麗は慌てて手で口をふさぐ。
(芳姫様にかけられてるのは、眠りの魔術と、……これはきっと身体の働きを押さえ込む魔術なんじゃないかな……)
昨日とは全く違う、それは確信したといっても良かった。鈴麗は芳姫にかけられた術を完全に読み取ったのだ。
嬉しい、と何より思った。さっきまでは身体にまとわりついていた冷気が全く気にならず、むしろ鈴麗は全身が高揚しているのを感じていた。
「これで、芳姫様を目覚めさせられる」
祈るように胸の前で手を組んで、呟く。また、あの笑顔が見られるのだ。
「よかった……」
もう一度だけ確かめて、大丈夫だと納得してから、鈴麗は勢いよく廟を出た。陽射しが目に眩しかった。
あとは夜を待つだけだと思うと落ち着かない。今日は早めに上がって家に帰ろうか、久しぶりに街を歩いてもいいかもしれないと珍しく思う。
そんな様子だったから、振り向いたとき誰かにぶつかりそうになった。
「あっ、申し訳ありませんっ」
さてこんな廟の前を通りかかるのは一体誰だ。とっさに臣下の礼をして顔を上げると、そこにあるのは堪えきれないとばかりに苦笑する龍炎の姿だった。私服姿で護衛は連れていないようだ。芳姫に会いに来たのだろう。
「ずいぶん忙しいことだ」
「龍炎様」
口うるさい医師や鈴麗がいることを快く思わない者でなくてよかったと鈴麗は安堵する。
「こんな朝早くからご苦労だった」
「はい。芳姫様のためですから」
鈴麗の即答に龍炎は笑い、軽く鈴麗の頭に手を置いて、そして入れ替わるように廟へと入っていった。その姿を扉が閉まるまで見送って、それから鈴麗は回廊を歩き出す。
思わず龍炎に触れられたところに手を置く。あんな振る舞いは幼かった頃以来だ。先ほどの様子があまりに子供みたいだったのだろうか。思い返すとなんだか気恥ずかしくなってくる。
「明日……龍炎様に見ていてもらった方がいいかな」
鈴麗は呟いた。芳姫が目覚めたとき、一番最初に目に映すのは龍炎であって欲しいと思うのだ。ちらりと廟に目を向けるが、再び中に入ってそれを報告するのは躊躇われた。
「明日でも、いいよね……たぶん」
約束通り、その日の夜、再び華瑛は姿を現した。今までと違うのは、掌に収まるほどの水晶球を持っていること。
光玉の出迎えと共に現れた華瑛は、鈴麗を見て笑いを滲ませる。
「どうだった……というのは、聞くまでもなさそうだね」
その顔を見ればわかる、と言われ鈴麗は思わず顔を触ってみた。母は呆れ顔で父に説明している。
「帰ってきたと思ったら、ずっとにこにこし通しなのよ。よほど嬉しいのね」
「だ、だってこれで芳姫様の笑顔がまた見れるんだし……」
すっかり夕食の用意がされた食卓を見て、また父は苦笑した。
「魔術の確認の前に話があるのだけれど、そうだね、食事をしながらにしようか」
食事をしながら父が二人に話したことは、この二日間のうちに父が神族の下でしていたことだった。
まず何よりも、娘が魔術を使えたことを報告していたらしい。ただ使えただけではなく、神族が今まで考えたこともできない使い方をしてみせたことを、だ。
「さすがに驚いていた……というよりは半信半疑だったね、まだ」
そう言って父は笑った。
最近の神族の動向として、医学の発展を望んでいる者たちが少なからずいるのだという。そのために鳳族の医学知識を修める光玉と鈴麗を神族の地に受け入れる話が少しずつではあるが進んでいたらしい。
そんなところに今回の鈴麗の魔術の件だ。
「彼らはね、少し期待している。医学知識を以って法術を使える鈴麗がいれば、医学だけではなく法術も発展させることができるのじゃないか、ってね」
結局のところ、今までとは格段に違う速度で二人を受け入れる願いは許可されたのだった。
「待って、でも……」
父の説明に口を挟んだのは、母だ。とても心配そうな顔で鈴麗の様子を伺う。そんな母に、鈴麗は首を振って応じてみせる。
「あのね、父さん。私が頑張って医学と法術の勉強をしたら、神族の人たちの役に立てる? 喜ばれる? ……受け入れてくれるかな?」
鈴麗が箸を置き、少しだけ姿勢を正して父に尋ねると、わずかに目を瞠った後、父も食事の手を止めて、ゆっくりと頷いてくれた。
「そうだな。お互いに慣れないうちは齟齬もあるだろう、鈴麗も神族のことはまだ知らないだろうからね。それに、神族はまだ医学に対する評価が低い。それによって余計なことを言われることもあると思う」
あまりいいことばかりでもなさそうだ。鈴麗が父の言葉を反芻しながらそう思うと、父は静かに目を閉じて続ける。
「けれど、鈴麗の持つ力はとても稀有で貴重なもの……これから必ず必要とされるものだ。その魔術の使い方は神族に決して劣るものではないし、医学知識も大事なものだから、胸を張っていていいんだよ。お前を評価してくれる者は多くいるだろう」
最後の言葉。それは同朋たる神族だからだろう。けれど、それはとても魅力的な言葉だった。
誰よりも信じられる、憧憬すら抱くたった二人の主に仕えられるなら、それでもいいと思っていた。でも、もしもっと大きな世界が広がっているのなら。
「……うん。わかった。じゃあ、頑張ってふたつとも勉強するよ」
「そうか」
鈴麗の言葉に、父も納得したように頷く。むしろ納得できていないのは母の方だった。
「いいの? 鈴麗、皇女様たちの傍にはいられなくなるのよ。それどころか……」
一瞬父の方へ目を向け、言葉を濁す。言いたいことは鈴麗にも分かっていた。
神族に行くということは、何より助けたいと願っていた芳姫と龍炎と敵対するということなのだ。一月前芳姫が眠らされたように、鈴麗自身が二人を危機に曝すことになるかもしれない。
鈴麗は母の問いに首の動きだけで答えた。それで察知したのだろう、それ以上母は何も言わずに食事に戻ったけれど、落ち着かない様子なのは確かだった。
沈黙に落ちかけた食卓を、父が破って話を続ける。その言葉を聞きながら、鈴麗は再び箸を取った。
「鈴麗が魔術を使って皇女様を救ったら、きっと鳳族も鈴麗が神族としての真価を発揮したことに気付くだろうと思う」
「それは私も思ったの。父さんのことは気づかれてないと思うけど、たぶん私や母さんを囲いにかかるんじゃないかなって」
「同じことを神族方でも考えていたよ。だから、そのうち父さんが来ていることも気付かれるんじゃないかと心配していた」
鈴麗が気付いていたその事実を誰もが把握していたということだろう。鈴麗の背後に神族の存在を嗅ぎ付けられれば、鈴麗と光玉の今の立場は微妙に変化し、父と会うことも叶わなくなるに違いないと。
鈴麗が芳姫を助けるために魔術を望んだときから、すべては始まっていたのだし、鈴麗にも分かっていたことだった。
「皇女様が目覚めてから、七日だけ待つ、と命じられたよ」
「七日……」
そこを以って、父が鳳族の地へ訪れるために使っていた道を一度閉ざし、繋がりを断ち切るということだった。
「その間にすべての始末をつけてこい、とのことだそうだよ」
父は苦笑していた。あまりに急だと言外に言っている。
「そんなに急なの?」
話の早さにさすがの母も呆気に取られた様子だ。彼女の頭の中には色々やることが浮かんでいるのかもしれない。
「片付けにも準備にもあまりに短い時間だろうね。だが、彼らはこれでも譲歩したそうだ」
さて、まずは皇女様にかけられていた魔術の確認をしようか。
食事が終わり、食後の茶も飲んですっかり落ち着いた頃、ようやく父が切り出してきた。鈴麗は頷いて端に用意しておいた不要な紙を引っ張り出す。
「まずは鈴麗が感じ取れたものから確認してみよう」
父の言葉に促され、鈴麗は紙一式を父に渡し、昼間得たことを話し出した。
眠りの魔術と、おそらくは身体の働きを押さえ込むような力のある魔術がかけられていると思うこと。
探ろうとすると抵抗されること。
鈴麗が上手く表現できず迷いながら説明すると、父は時折頷きながら何かを書きとめていく。
「……なるほど、うまいことをするものだ」
鈴麗の話から何か読み取ったのだろう、父は一人納得した様子だった。
「海苓殿も、少し鈴麗に近い魔術の使い方をするね。道理で重宝されるわけだ」
「解くのは大変?」
鈴麗が首を傾けると、父は穏やかに頷く。
「誰かが意図を以ってかけた魔術に対抗するのは何であっても大変なものだ。術を解くというのはかけた相手の意思と向き合うということだよ。海苓殿は普通の神族と違って細かいところに工夫をして魔術をかけるようだから、解くのは確かに難儀だね」
でも、鈴麗の方法なら状況は同じだ。解くことはできるよ。
そう父は笑っていい、自分の書きとめたものを鈴麗に見せてきた。それを元に父は予想される魔術の構造を説明してくれる。基本的に鈴麗が見つけてきた構造で間違いはないようだ。逆にきちんと説明を受けることで朧な幻でしかなかったものがしっかり形となって見えてくる。
そして、一度魔術を解く術を覚えた鈴麗は、魔術の構造をどう解いていけばいいのか、すぐに理解することができるのだった。
優等生だと父は満足げにいい、それを聞いた鈴麗は嬉しくなる。こんな歳になっても、褒められるのは素直に嬉しい。
実際にどのように呪文を作っていけばいいのか、印を結べばいいのか、魔術の構造を組み立てていけばいいのか、父は講義しながら紙に記してくれる。
きちんと順序だててくれることで、鈴麗の頭の中は整理されていった。これなら、明日芳姫に向き合い魔術を解くことが出来る自信がある。
「……あとは、明日鈴麗がきちんとできるかどうかだね」
「うん、ちゃんと芳姫様を目覚めさせてくるよ」
そして、後戻りはできなくなるけれど。
今度は七日後に迎えに来ると父は言った。
次が最後で、そして両親は離れ離れにならずに済むだろうと思う。
「これが扉の鍵で、導きになる。大事に保管していてほしい」
父が母に渡したのは、来たときに持っていた水晶球。よく見ると、中に星が閉じ込められていて、灯りを受けてきらきらと反射する。
母はしっかりと受け取り、父の言葉に頷いた。
「わかったわ」
「最後になるだろうから、後悔のないように準備していて」
「……父さん、あのね」
割り込むのに少しだけ気が咎めたが、鈴麗は声をかけていた。
「なんだい」
「さっきも言っていたけど、荷物がかさばっても大丈夫なの?」
神族のところに行くときに、持っていくもの――これからのことを考えたら、どうしても手放せないものがたくさんあることに気がついた。
医者の勉強のために色々用意されたもの。誰にでも配布される基礎教本から、宮城の書庫で書き写したもの、芳姫や龍炎に手ずから頂いたもの。領内を探索して採取してきた薬草類もある。きっとこれから必要になると思う。
「そのためにこの水晶球を持ってきたんだ。光玉も、鈴麗も、必要なものはすべて持っていって構わない」
では、また七日後。そう言って、父は家を出て行く。次会うときは、きっとこの別れもなくなるはず。いつでも母は切なそうな顔をしている。娘には隠しているつもりなのだろうけれど、鈴麗は知っていた。
「鈴麗、神族のところに行くのね?」
少しだけ心配そうな様子の母に顔を覗きこまれる。まだ言っているのかと鈴麗は破顔した。
「いいんだよ」
「でもね、鈴麗、いつも芳姫様や龍炎様のことを話していたでしょう。とても信頼しているから、離れる気はないと思っていたわ」
「うん、二人に仕えられることはとても嬉しいことだし、役に立って喜んでもらえたら本当に嬉しいんだよ。魔術が使えるようになったら、私も母さんも今までみたいに言われることはないと思うし……でも」
神族のところに行ったら、また違う世界が見られるかもしれない。その誘いは甘美だ。
どれだけ認められて必要とされても、やっぱり鈴麗は鳳族の中では異種だから。神族としての価値があると見なされれば、きっとその『異種』しか必要とされなくなる。
「父さん、話が上手いよね。なんとなく神族のところに行ったら溶け込めるような気になったの。母さんは逆に異種になっちゃうけど……」
鈴麗の言葉に光玉は憤慨した様子だった。その姿に、逆に鈴麗は笑みを浮かべる。
「あのね、母さんのことはいいのよ。今までだって差別されてきたのだし、この医学の知識を必要とする人がいるなら、その人の役に立つだけだもの。私のために行くなんて言い出さないでね」
「母さんのこともあるけど、でも行ってみたいっていうのもあるの。たぶん、父さんに上手く乗せられてるんだと思うけどね」
ならいいわ、と母はようやく納得した様子だった。
「私、そんなに二人のこと言ってた?」
「いつもその話しかしないでしょう、鈴麗は。昔から、二人についていってたのよね」
「そうだね。……うん、そうかも」
たぶん、今までの世界は自分のほかには、両親とあの二人しかいなかったのだろう。でもきっとそれでは満足できなくなってきたのだ。芳姫と龍炎とが幸せそうに過ごしているのは、鈴麗も満たされた気分になってとても幸せなのだけれど。その傍にいられるなら満足だと、今までは思っていた。
それを覆すほどに、父の言葉は鈴麗を惹き付けたのだ。
「神族のところでも、楽しいことが見つかるといいわね」
母の言葉に、鈴麗は静かに頷いた。
すべては――明日だ。
2008.2.17