時の円環-Reconstruction-


10



『させません。二人は私が守るもの、絶対に!』

 自分の声がまだ耳に焼きついたままだ。かれこれ数日は経っているというのに。
 鈴麗は目の前の書に目を落としたまま、思考を巡らせた。

 ――あの日、海苓から告げられた言葉。
 彼が抱える宿命。未来にいずれ起こる戦で、彼が鳳族の皇帝を打ち取るのだという。
 皇位は先日譲られた。今の『鳳族の皇帝』とは龍炎のことだ。次期継承者であったときから、彼は敵方に恐れられる将の一人でもあったのは確かだ。けれど皇帝となり陣の奥へ退くであろう龍炎をどうやって討ち取ろうというのか。確かに、芳姫は陣の奥にいながらにして海苓の術を受け眠りにつくことになったのだが――。
 理由も、方法も、思いつかない。しかし、もしその未来が現実になってしまうのなら、はっきりしていることはただひとつ。
 鈴麗が望み続けた、芳姫と龍炎が共に過ごすという幸せは断ち切られてしまう。
 二人は比翼の魂と呼ばれる絆を持つ人たちだった。幼い頃からともに過ごしてきた二人が引き裂かれることになった一か月の間、その哀しげな姿と周囲の絶望はとても痛ましかったことを、鈴麗は未だに覚えている。
 だからこそ、もう二人が離れ離れになることだけは許せなかったのだ。
 ただし、海苓に声高に宣言したのはいいものの、ひとつ問題がある。
 鈴麗はゆっくりと息を継ぐ。ふと手元の文章が目に入り、それを読もうと思ったが、鈴麗の思考はすぐに別の方向に沈んでいった。

 戦で龍炎が討ち取られるのだとすれば、それを防ぐためにはいったいどうすればいいのか。
 そもそも鈴麗は戦場に出られる立場ではない。鳳族のところにいたときは兵を鼓舞する芳姫の護衛の為だったのであって、兵士ですらない鈴麗がその場にいられるはずがない。
 たとえ医術の知識を生かして戦場に赴くとしても、後方支援がせいぜいだろう。
 しかも、皇帝を討つのを止めなくてはならないとするなら、前線も前線、敵陣の最奥だ。でなければ海苓の方を止めなければならないということだが、敵方の皇女に術をかける役目を与えられるほどの武官ならば、前線に出ないはずがない。――可能性とすれば、戦場に出られないほどの傷を負うくらいか。
 
『皇帝を討つのは……俺なんだそうだ。そういう運命なのだと』
 怒りを滲ませた海苓の声がふいに脳裏によみがえり、鈴麗は何故か身震いしそうになった。あの瞳は、どうしてか鈴麗を睨んでいたように思うのだ。
 最近見ていた姿とは、まるきり違っていた。


「……れい殿。鈴麗殿?」
「は、はいっ!」
 名を呼ぶ声が聞こえ、鈴麗は慌てて手元の医書ごと顔をあげる。持ち上げてしまった本の向こうで、凍冶がおかしそうに苦笑していた。
 そうだった。ここは研究棟。凍冶の研究室で、鈴麗は恒例となった医術の授業を行っている途中だった。確か、一度目を通してから質問を受ける時間にして、少し鈴麗の手が空いたのだ。その暇にちょっと考え込んでしまい、どうやらそのまま鈴麗は思考を飛ばしてしまったようだ。
 鈴麗と凍冶は向き合い、講義を行っていたのだ。凍冶が読んでいたはずの医書はすでに卓の上に置かれ、しかも先ほどまではなかった二人分の茶が用意されていた。
 あまりに自分の世界に入り込みすぎて、凍冶が席を立ったことも、茶を入れて戻ってきたことにすら気がつかなかったらしい。
「何度か呼んだのですが、まったく気づかれなかったようなので。そろそろ時間も迫りますし、質問はこの次にすることにします。せっかくですからお茶をどうぞ」
「は……、あの、すみません……」
 鈴麗は真っ赤になって恐縮した。講師を引き受けておきながら、貴重な時間を無駄にするとは何とも情けない。がっくり肩を落として、鈴麗は目の前に勧められた湯呑を手に取った。



 医術の勉強会を終えた鈴麗と凍冶は、届け物の書物と書類を抱えて軍部棟へと向かうところだった。大部分の書物は凍冶が運び、風で飛ぶといけないというので鈴麗が書類を抱えている。さほどの量ではないが確かに風が強いので、両手に抱きかかえるようにして鈴麗は歩いていた。「さて、いったい何を悩んでいたのですか?」
 研究棟を出て通路を歩きながら凍冶に問われ、鈴麗は思わず言葉を飲み込む。不思議なことに、凍冶は何か面白そうなものを見るような目つきで鈴麗を見下ろしていた。
 しばらく時間をかけて、鈴麗の口から出てきたのはあまりに言い訳臭い言葉。
「いえ、たいしたことでは……」
「おや、ずいぶんと考え込んでいたようですが、人に話すことで整理できることもありますよ。もっとも、色恋沙汰ではお役に立ちませんが」
 飄々と言ってのけた凍冶に慌てて色恋沙汰を否定して、鈴麗はさらに考え込む。まさか敵方の皇帝を助けたいなどと馬鹿正直に言えるわけがない。さんざん考えて、鈴麗はようやく言葉をひねり出した。
「ええと……、神族の人たちは、鳳族の皇帝が討たれれば戦が終わると思っていますか?」
 それを聞いた凍冶が目を見張る。やはり不自然な質問かと鈴麗は額に冷や汗が浮かぶのを感じた。数拍おいて、凍冶はわずかに視線をずらし、考え込むそぶりを見せる。
「そうですね……鳳族との戦は、すでに因縁とも呼べるものです。彼らは決して諦めず、退くことがない。多大な被害を出しながらも、戦を繰り返す――」
 軍部棟への道案内となる石畳を進みながら、凍冶は言った。

 因縁――鈴麗が生まれる前から、すでにあったという神族との戦い。鈴麗が物心ついてからも、両手の指を簡単に超える回数の戦があったはずだ。
「その導きは、鳳族の頂点――皇族でしょう。そこに何かあれば、崩れるのは容易い。前回の皇女が倒れた時がよい例です。――しかし、私たちに部族の長の血脈を断つことは許されていない」
 神族の力は、魂をより神々の元へ近づけるためにある。神族が戦うのは海苓が言った通り自分たちの尊厳を護るためであって、他部族を滅ぼすことはできないのだ。
 だからこそ、芳姫は眠りに落とされたのであって、そうでなければ既に命がなかっただろう。
 凍冶の話をまとめれば、つまりはそういうことになる。
 で、あれば。海苓が言ういずれ来る未来――彼が龍炎を討ち取るというのは、一体どういうことなのだろう。

「誰かに何か言われましたか?」
 面白そうな声音の凍冶に問われ、鈴麗は思わず首を振った。まさか、痛みを覚えるほどに冷たい瞳の海苓に言われたのだとは、話すことはできなかった。


 風が強い。鈴麗の腕の中の書類が、ばさばさと音をたててめくれる。慌てて書類を抱え直した鈴麗の耳に、何かを面白がっているような声が聞こえた。
「これは独り言なのですが――海苓が人々に崇められるのが何故だかわかりますか」
 隣、半歩前を歩く凍冶が、楽しそうな目で鈴麗を振り返っている。彼がどんな意図で突然そんなことを言い出したのかわからなかったが、そこに出てきた名前に思わず反応した。
「ただ過去世の記憶を持っているだけでも初めてのことですが……彼が特別視されるのは、その記憶が別の部族の人間だったときのもので、魂を鍛えた上でここにたどり着いたことを証明するからなのですよ」
 独り言、と言った通り、彼は鈴麗の返答を待たなかった。
 海苓は『証明者』。神族が人間たちから少し神々へ近づいた存在であると証明する者なのだと。
「彼は、過去世では鳳族の青年だったそうです。とても高貴な立場の人間だったのだと」
 凍冶は鈴麗の反応を全く無視して話を続けていく。
 ――高貴な立場の鳳族、となればおそらくは皇族かそれに近い人だ。もしかしたら、歴史書などに名さえ残っている人かもしれない。
 どうしてこの人が知っているのだろうと鈴麗はぼんやりと思った。鈴麗の侍女である愛林に何度か聞いたが、過去の記憶を持つことは知っていても、その詳細までは知らなかったからだ。
 そこまで考えて、鈴麗はこの青年と海苓が友人同士なのだということに思い当たった。生薬を取りに領地外に行った時も、海苓を護衛として紹介したのは凍冶だったし、あの時いた人々の中で一番海苓が打ち解けていたのも凍冶だったはずだ。

 話を続けながらも鈴麗たちは軍部棟の目的地へと向かっていた。目の前にある通路は見覚えがある。海苓が賭け試合をしていたところだ。
 そこへ一歩踏み込むと、勢いよく風が吹き抜け書類が数枚浮き上がりそうになる。鈴麗は焦って思い切り胸に抱え込んで、書類が風に舞うのを防いだ。そして顔をあげて、半歩先を行っていたはずの凍冶がいないことに気づく。

「鳳族の青年には数人の護衛がいて、その中に一人の娘がいたそうです」
 声は後ろから聞こえてきた。話はまだ続いているらしい。鈴麗は風にあおられ乱れた書類をまとめているのだが、意に介した様子はなく、凍冶の声の調子が乱れることもなかった。
「正確には青年の護衛ではなく、その伴侶となる人の護衛だったそうですが、その娘が他の者と違い特別だったのは、彼女が神族の血を受ける娘だったからだ、と」
 鈴麗はその瞬間動きを止める。

 神族の娘。それは、鳳族の中でたった一人、神族の血を継ぎ異質な黒髪を持っていた鈴麗に与えられた名前。鳳族の上層部は、初めて神族の情報を得られるかもしれないと歓喜した。
 しかし、それはおかしくないか? それが過去の話なら、そんな事実はないはずだ。それまで、異なる部族同士が出会うことなど無きに等しかったのだから。それはまるで――。

 鈴麗が振り返ると、凍冶は何か含みのある笑みを彼女に向けたまま、渡り廊に踏み込んできた。話はまだ続いている。
「あからさまに異質なその娘は、周囲からの誹謗中傷が絶えなかった。青年は伴侶とともに彼女を護ろうと心を砕いていたようです。けれど――その娘は、伴侶を深い眠りの呪いから救い上げ、二人に忠誠を誓いながらも姿を消した」

 鈴麗は凍冶を見つめたまま、書類を胸にきつく抱え込んだ。それは風に飛ばされそうだったからではない。
 心臓が、激しく鳴っているのがわかる。緊張のあまり、どうにかなってしまいそうだ。
 おかしい。おかしい。どう考えても、それは過去の話ではない。凍冶が語る神族の血を受ける娘とはどう考えても鈴麗のことでしかない。そして、彼女が為したこととは鈴麗が鳳族を去る前にやってきたことそのもの。
「青年は落胆したでしょうね。いったい母子ともどもどこに消えたのだろうかと……その娘が神族の下にいることがわかったとき、青年はとても衝撃を受けたようですよ。神族と鳳族。もともと相容れる立場ではなかった。しかも彼は伴侶を持つ高貴な立場」
 それは誰の人生を語ったものか。それは誰の持つ記憶か。過去世――昔のことを語るはずのその内容は、明らかに現在を指し示す。
 鈴麗は一切言葉を紡ぐことができなかった。
「けれど、青年はひとつだけ方法を知るのです。ただの人でしかない自分が、神族の娘である彼女へ追いつく方法を。魂を磨き続ければ、いつかここへ神族として戻って来ることができると――転生した自分自身に告げられるのです、その、最期の瞬間に」

 それまでずっと鈴麗の方を向いていた凍冶の視線が、ふいに逸れた。鈴麗の上を越え、彼女の遙か後ろへとても楽しそうな視線を投げかける。
「――凍冶、よけいなことを」
 冷たく響いた、よく知っている声に鈴麗は身をすくませた。
 今響き渡った射るような声音からすれば、相当恐ろしい顔をしているに違いないのに、凍冶は全く堪えた様子がない。そんな海苓を楽しんでいるようにすら見える。
「彼女も当事者の一人だろう。知っておくべきではないのかい?」
 恐る恐る鈴麗が振り返ると、彼女たちが今行こうとしていた通路の先に、海苓が清蘭を伴って立っていた。今なお瞳から優しい光は失われていて、その視線はきつく鈴麗を睨みつける。
 鈴麗はめまいを起こしそうになった。見慣れていた表情と違う。きっと差異はある。それでも確かにそこに立つ海苓の姿は、――龍炎そのもの、だったのだ。



2008.11.2


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