時の円環-Reconstruction-


13



 長衣をまとった神官がそこにいる。法術士や医師――鈴麗のように診断と処置を担う者――を統括する、この治療所における長だ。
 あっ、と鈴麗の背後で声が上がる。何事かと振り返ると、声の主は最初に鈴麗のもとへ兵士を連れてきた男だった。
「怪我人が多くいる中、一か所に二人もいるのは褒められた状況ではありませんね」
 鈴麗が口を開く前に助手の青年が頭を下げる。
「すみません。ですが、重症者がいるようなので、運ぶべきかどうか話していましたので」
「重症者?」
 神官は不思議そうに眉を上げた。兵士が運び込まれなくなっていくらか時間が経っている。そうなってから重症者が現れたことが解せないようだった。
 鈴麗は兵士の足を示して報告した。
「足がひどく腫れて熱を持っています。足先は黒くなっていますし、傷口から毒が入っていると思われます」

「……それは矢傷による腫れでしょう。足の太さが左右違うことを見れば一目瞭然ではありませんか?」
 鈴麗の言葉に返ってきたのは、不自然なほどに冷たく冴え渡った声。そこに滲むものとその言葉とで、鈴麗はこの兵士を診たのがこの人なのだと気づいた。彼は声を引き攣らせたまま、まくしたてるように言う。
「矢は取り除きました、毒が塗られていた様子もない、浅い傷です。重傷者があれだけいる中、彼のような軽傷者には辛いことでしょうが我慢していただくほかありません。彼のような兵ならばたくさんいるはずですが」
「時間が経つ間に傷口から毒が入ることがあるんです。ひどいときには、あっという間に全身に腫れが回っていくんです」
 鈴麗はちらりと横たわる青年を見る。痛みに顔をしかめているのが分かる。我慢しろ、だけで済む問題ではもうなくなっているのだ。
「そのような病態は見たことがありませんね」
「戦場ならばたくさんいます。腫れが傷口から全身に広がっていくんです、進行したら皮膚の色がどす黒く変わっていって、そうなったら元には戻りません。命にもかかわります、ひどくなったら傷口の在る手足を切り落とさなくちゃいけなくなるんです!」

 鈴麗の脳裏によぎるのは、かつての同胞、鳳族たちの姿。
 傷が深かろうが浅かろうが、いったん傷が毒に侵されてしまえば、見る見るうちに全身を腫れと痛みが覆い尽くし苦しみにのたうつことになる。毒をすくいだすのも間に合わず、泣く泣く四肢を切り落とすしかなかった兵もいる。わずかな法術士ですらも手が出せず、送り出すしかなかった魂も数えきれない。
 それでも。あれだけの法術の使い手がいる神族の中でならば、助けられるのではないかと思うのだ。

 鈴麗の大きな声に、あたりがざわめき出す。考えて見れば物騒な話ではある。今まで大規模な治療所が必要なかったというくらいなのだから、戦場で命の危機に直面したことなど、彼らにはないのではないか。
 彼女の説明を後押しするのに、その目の前で苦しみに呻く青年の姿は説得力があった。確かに傷は足の些細な矢傷だけだ。それでも彼の表情は尋常ではなく、只事ではないということがよくわかる。
 しかし、神官は口を引き攣らせて肩を怒らせただけだ。
「ほう、まるで見てきたような言いようですな。お嬢さんが一体どこでそんな話を聞いてくるのやら」
「鳳族の陣でずっと兵士の手当てをしてきたからわかります。怪我がひどくて命を落とす人と、傷に毒が入って悪化して手足を切断したり亡くなったりする人は同じくらいいるんです」
「そうか、華瑛の――」
 本当はそんな無駄話をしている暇などないのだが、鈴麗は仕方なく答えた。その言葉で、神官は思い当たったらしい。その名前を聞けば誰でも事情は察するものらしかった。周囲からも、「あの娘、華瑛殿の……」というささやき声が聞こえてくる。
 鈴麗は横たわる兵士の様子を見る。心なしか、傷周りの赤みが広がった気がするし、腫れも広がっているような気がしてくる。
「この状態は時間との戦いなんです。一度毒が広がりだしたら、あっという間に悪化する。その前にしかるべき治療をしなくちゃいけないんです。神族がどれだけ法術に優れていても、毒にやられた臓腑や切断した四肢を治すのは困難なのではないのですか」
「私の診断と手当てが適切でなかったというのでしょうかね?」
「そういうことを問題にしているんじゃないんです。現にこの方は傷から毒が入ってひどい状況で、早急な治療が必要だということなんです」
「しかし、法術士の方は手一杯です。この兵士に治療が必要な状況であるとは思いませんが、どのみち受け入れられる状況ではありません」
「では、この方が悪化してもいいということなんですか!?」

 鈴麗は思わず立ち上がっていた。このままこの神官と話していても埒が明かない気がする――だが、彼はこの治療所の統括者であって、勝手に振る舞えないのも事実ではある。
「ええ、そのような病態は考えられませんからね。まずは重傷を負った者を治療し、その後法術士が回復してから順を追って治療する。最初の方針通りですよ」
「だから、あなた方が知らないだけです! 他の種族――鳳族だけじゃない、どこの部族だってそれで命を落とす人は普通にいるのに!」
 我慢ならなくなって、鈴麗はついに声を荒らげてしまった。すべて言ってしまってから、まずいと気づく。が、対する神官の返答はさらに感情的だった。
「統括である私の判断がおかしいと? まったく変なことを大声で騒いで、周囲の兵たちの余計な不安を煽らないでもらいたい。そんなに不満があるのなら、自分で――そう自分で治療してやったらどうですか」
 最後に神官は思い当たったのだろう、にやりと嫌な笑みを浮かべる。
「あなたも華瑛の娘、神族ならば法術など容易いでしょう。私たちの診断に納得いかないなら、自分で治療されればよい」
「……!」
 鈴麗は返答できず、言葉をのむ込むしかなかった。
「そもそも戦などなければ怪我人もいないでしょうに、他部族の者は不可解なことをするものですね」
 留飲が下がったらしい神官は満足したような表情で立ち去っていく。助手の青年も困った様子だが、怪我人の方も気になるのだろう、恐る恐るといった様子で離れていった。

(私が、治す……?)
 鈴麗は思わず苦しげな様子で横たわる兵士を見下ろした。視線をそこに向けたまま、ゆっくりと腰を下ろす。
 果たして、できるのだろうか。父や王に褒められた術の使い方。やっと習い始めたばかりで、まだ軽い傷を癒したことしかない。しかもその相手には「時間がかかる」と評されたくらいなのだ。
 しかし。鈴麗が手を施せなかったらこの人はどうなる?
「嬢ちゃん、さっきのことは本当なのか? 確かにこいつ、なんかさっきよりひどくなってる気はするんだが……」
「はい、間違いないです……」
 問われて、鈴麗は力なく答える。あたりの兵士は不安そうに鈴麗のことを見つめていた。確かに言った内容は不安を煽るといっても過言ではないことだっただろう。けれどそれが事実――鳳族にとっては当たり前のことなのだ。
(ああ、でも、救える力を持ってるなら、やっぱり死なせたくない――)
 かつて鳳族の陣にいて兵士の治療をしていた法術士は何と嘆いていただろうか。どうできれば助かると言っていただろう。
 傷から入った毒は血とともに体を流れ、全身に回っていく。それはやがて内臓へと入り込み、体を腫れあがらせ、内臓を侵すのだ。その前に毒を取り除いて――

「……よし!」
 やるしかない。鈴麗は姿勢を正して坐り直す。頭に残る法術の教本と何度も何度も読み直した医書の記述を思い返す。体のつくりと血の流れを想像して、横たわる兵士を見下ろした。
 最初にすべきことは何か。毒が入るのは傷口から。一刻以上経っているなら、もうすでに身体の中に毒は廻ってしまっているだろう。
(確か、毒を取り除く術っていうのは――)
 取り除くべきものが何か分からなければ駄目。
 鈴麗は傷口を慎重に確認する。目に見えて色が悪い場所があった。これが膿みで、毒に侵された部分なのだ。あとは血の流れを追いかけて、流れていった毒を手繰り寄せればいいだろうか。
 教本に従いながら、鳳族の法術士がこぼしていた嘆きを思い出しながら、鈴麗はゆっくりと法術を進めていった。
 言葉と印を重ねて、魔力を集める。
 兵士の気脈を感じ取り、自分が願うところへ魔力を導く。
 何かざらつくものに触れたような嫌な感覚がして、鈴麗は眠りの術を解いたときのことを思い出した。ひとにかけられた術の形をあのとき見た。
 この感覚は、あるいは自分が取り除こうとする毒を感じ取っているのだろうか。はっきりとは分からないけれど、これが人の体にあって当然のものではないと感じる。
 これを取り除くことができればいいのだと、鈴麗は確信した。あとは教本のことを思い出して、ゆっくり術を進めていけばいい。
 目の前の兵士の足の腫れは、鈴麗から見れば不思議なほどの速さでひいていった。足先の黒さも抜けたような気がする。
 それでもまだ術は終わっていない。傷口の毒は残っているのだ。
 これは傷を癒す術でも大丈夫のような気がして、鈴麗はそこから新しく法術を構成し直す。これはそれほど難しくなさそうだ。海苓の傷を癒した時に一度やっている。あの時の感触を思い出しながら、毒を浄化する呪文を重ねれば大丈夫――鈴麗はそう判断した。
 鈴麗は自信を持って印を切る。光が収束して矢傷に集まると、拭い去ったかのようにきれいな肌が現れた。同時に周囲から感嘆の声が上がる。
「傷が治ったぞ!」
「見ろ、表情も穏やかだ……」
 先ほどまで痛みに呻きゆがんでいた表情はすでになく、穏やかな吐息すら聞こえてくるほどだ。滲んだ汗は残っているが、拭いてしまえば問題はないだろう。

 周囲は喜びにわき立っていたが、鈴麗は一緒になって喜ぶことができなかった。体の力が一気に抜けた。――というよりはものすごい重みが圧し掛かってきたような感覚がして姿勢を保てなくなったのだ。倒れそうになった鈴麗は思わず床に手をついて息を整える。
 力を必要とする法術による疲労。おそらく鈴麗の今の力ではこれが限度なのだろう。
 すぐ近くにいた青年が驚いたようで鈴麗に手を貸してくれた。
「おい、大丈夫か?」
「は……はい、ちょっと疲れたみたいです」
「そりゃそうだろうなあ。けど、あんたのおかげでこいつは助かったみたいだぞ」
「華瑛殿の娘もやるもんだ」
「おっ、目が覚めたみたいだな」
 嬉しそうな声に鈴麗がそちらを見ると、今まで苦しんでいた兵士が皆に囲まれる中ゆっくりと目を開けたところだった。何が起こったのか分からない、といった顔で目を瞬かせている。大勢の顔が彼を見下ろしているのだから、無理もない。
 本当はきちんと診察したいところなのだが、姿勢を保つのがやっとでは他の誰かに任せてしまったほうがいいだろう。目覚めたばかりの兵士に笑いかけるのが精一杯だった。
「もう、大丈夫そうですね……」
 まだまだ怪我人はいるはずだが、気を保っているのも怪しい。どこかで一休みしたい――鈴麗がそう思っていると、むしろ周囲の兵士の方が鈴麗の変化に気付いたようだ。
 これは大変だと抱えられて天幕の端、大荷物のあるところに運ばれ、何をいう間もなく包帯や薬の入った籠を持ち去られてしまった。
「あとは大した怪我人じゃないからな、俺らでやっておくよ」
 しっかりした支えに寄りかかってみると、一気に体の力が抜ける。任せておけ、とばかりの兵士たちの声を聞きながら、鈴麗はあっという間に眠りに落ちた。



2009.6.22


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