18
幼い頃から心の奥に沈む、自分のものではないとわかる思い出の数々。
見慣れない石畳の上でやり取りされる他愛ない会話だったり、神族の街並みと良く似た景色だったり、明らかに神族の王宮ではないどこかの回廊での一場面だったりした。
時折引き出されるそれはどこかおぼろげで儚く、ときには夢かと思うほどに曖昧で断片的なこともある。
やり取りされる言葉、そしてそこに映る人々の容姿が、これが自分のものではないという意識を決定づけていた。
それでも、ひとつだけ確信できることがある。これらの積み重なる記憶は、かつてどこかで起こり、『自分』が体験したものなのだと。
若くして戦死した、鳳族の青年。それが海苓の魂の歩み――過去世の記憶だ。
断片的な手掛かりしかないはずなのに、その人生を歩んだ過去世の自分を海苓は語ることができる。その名、生い立ち、成長と、――最期。
歳を重ねるごとに、思い出される記憶の断片は増える。しかし、そのどれもが実際に海苓が経験し積み重ねてきた思い出以上に鮮やかになることはない。
ただ一場面の記憶を除いては。
それを『思い出した』のは何歳くらいのことだったか。その記憶だけは海苓の見てきたあらゆる景色や出来事の何よりも鮮烈に目の前に浮き上がるのだ。
……――辺りを包み込む空気は、戦場特有のものだ。しかし、周囲にわずかに血の臭いはあれど、金属の臭いも草が焼けるような臭気も感じられなかった。足元は平坦で丈の短い枯れ草が見える限りを埋め尽くす。
そこに、龍炎は片膝をついて居た。体のあちこちがひどくぶつけた後のような痛みを訴えている。
馬に乗り指揮することの多い龍炎は、しかし今地面の上にいた。周囲に馬の気配はなく、腰の鞘は空であることも龍炎自身分かっている。辺りを探ればどこかに剣は落ちているはずだが、しかし龍炎の視線は目の前に向けられたままだ。
目の前に立つ、色を除いては鏡かと思うほど自分に良く似た青年に。
周囲の音も気配もあまりになさ過ぎてここはどこかと錯覚してしまうが、神族の鎧姿をした青年を見てやはりここは戦場なのだと思う。
龍炎の視線の先にいる神族の青年は、こちらを見ておらず、龍炎から見て左手の遠くの方を見つめていた。何を追っているのか、見送っているのか、それを龍炎が確かめようとする前に、青年の緊張がふっと緩む。眩しいものを見るような、どこか心配するような、そして少し苦しげな、様々なものが入り混じった表情をした。
――何かが、心の奥底に落ちる。ああ、そうなのかと安堵した。
どれくらいの時間だったか、きっとさほどの時間ではない。龍炎になど欠片も注意を向けていなかった神族の青年は、頭を切り替えたかのように龍炎に向き直る。
正面で見れば見るほど、自分に良く似ている。髪と瞳の色さえ違えていなければ、生き別れの双子の兄弟とでも思ったほど歳恰好も近い。そして、青年はすべてを覚悟したかのような声音で言い放った。
「翔泉帝――黄龍炎だな?」
青年は翻した剣を真っ直ぐ龍炎へと突き付けてくる。受けるにも剣はなく、周囲に護衛となる者がいる様子はない。自分だけでここを乗り切らなければならないということだ。一体何があったのか、鳳族の皇帝であるはずの自分が、たかだか神族の一兵士に一対一で向き合っていることが異様だった。
「その首、頂戴する」
背を汗が伝う感触がする。自分の立場を考えれば、なんとかしてこの窮地を脱し体勢を立て直さなければならない。
がしかし、龍炎は片膝をついた姿勢のまま動くことができなくなった。
「……鈴麗を助けたいか?」
青年の口から飛び出してきた名前に、龍炎は思わず彼を見返す。その名は、龍炎が追い続けていた少女の名だった。いつの間にか龍炎たちの前どころか街からも行方をくらまし、間者がひそかに報告してきた内容によれば神族に混じり戦場に出ているらしい、『神族の娘』。
妻である芳姫と共に見守り続けていた少女の名が、何故ここで出てくる。
調べれば彼女が芳姫に仕えて城に出入りしていたことはわかるはずだ。それでも、彼が龍炎に今のような言葉をかけてくる理由にはならない。
青年は、どこか自嘲気味に笑い、言葉を続けた。
「何故俺がお前とよく似た姿をしていると思う。長い長い旅路の果てに、お前の魂はここへ辿り着く――神族としてだ」
魂はこの地上を巡る。幼い頃から語られる伝承、お伽噺にすら織り込まれる転生というこの世界の理を、この地上に生を受けた者ならば誰でも知っているだろう。あるいは魂そのものが知っているか。
龍炎の持つ魂の宿命は比翼、であるはずだった。幼い頃から見いだされていた芳姫の魂と対になり、転生を繰り返すのだという。しかし――。
青年の告げたその言葉の意味を、龍炎は既に知っていることのように理解した。
その道は、神々の御許へ続く道。
自分がこの生を全うした後も魂の修行は続く。世界を巡り続ける魂は鍛錬を繰り返し、神族へと生まれ変わるという。それでもなお、神々の居ます場所は見えず、さらに転生を繰り返すのみ――。
鳳族の中で語られる転生についての伝承と異なるその理を、龍炎は全く違和感を感じることなく受け入れた。どちらが正しいか、など欠片も疑問には思わなかった。
自分の中にある感覚と、目の前に立つ青年から感じ取れるすべてが、何よりも雄弁に龍炎に対して語りかけてくる。
自分からこの青年へ、魂の道は確かに受け継がれ続いているのだと。数百年ではまだ足りず、数千年、あるいはもっと数えられないほどの時間を経て、龍炎の魂は確かにここに辿り着くのだ。
今龍炎を見下ろしている『彼』が、遙か未来の自分。その瞳には、覚悟の色が濃く見える。
「お前がそれを望み、俺がここに生まれることで、これから先鈴麗は罪悪感で苦しむことになる。それでも傍で護ることを選ぶなら……」
戦場のおそらくは最前線で、剣を手元から失い丸腰の状態のまま、敵の兵士に剣を向けられている状況だというのに、龍炎は思わず口元に笑みを浮かべていた。
鈴麗と同じ神族であれば、彼女を傍で護ることができるのだ。彼女を一人にせずに済む。龍炎では許されなかったことが許される。この想いが、叶う方法がある。
(鈴麗――)
彼女を護れること。それは喜びであり、何よりの幸いだ。
「幾度生まれ変わっても常に己を高めることを止めないことだ。魂がそれに見合えば、いずれここに辿り着ける」
その言葉は、龍炎の心に強く響いた。覚えていよう、この言葉を、この記憶を。たとえどれだけの転生を重ねても、この瞬間だけは忘れない。
鍛錬を続けて、いつの日か魂はここへ戻ってくるのだ。――鈴麗のために。
龍炎は青年を真っ直ぐ見返した。自分の選択は、彼に伝わるだろうか。
「そうか……ならば、ここでの死と引き換えだ」
青年は剣の刃先をわずかに動かした。その表情には複雑な色が宿っている。苦悩であったり覚悟であったり。その中で何よりも強く垣間見える感情をとらえて、龍炎は嬉しくなった。
同じだ。自分と彼は同じ気持ちを持っていて、そのためにこの運命を選ぶ。
「お前の名は?」
龍炎は思いついたように青年に尋ねる。一騎打ちならば名乗り合うこともあるが、そんな状況ではなかったのだから。意味はないかもしれないけれど、未来の自分の名を知っていてもよいと思ったのだ。
そして龍炎は確かに聞く。自分に良く似たその青年は、静かな声で「海苓」と名乗った――。
辺りはあたたかいというのに、海苓の目の前に座る鈴麗の顔色は蒼白だった。
それも止むを得なかろうと海苓は思う。主と慕ってきた夫婦の片割れが、その最期に伴侶ではなく彼女を選んだという事実だけでも衝撃だろう。
海苓――つまり自分だが――が名乗った後、どうなったのかの記憶はないがおそらくは討ち捕られたのだろうと判断した。海苓がそう言ったこともそうだし、馬もなく武器もないあの状況では助太刀でも入らない限り逃れる術はないだろう。しかも龍炎の記憶の断片は、その出来事以降のものは何も表れてこないのだ。
海苓が存在する限りは、遠くない未来必ず訪れるはずの出来事。
東屋を吹き抜けていく風は、海苓が語る間も不安定に強弱を繰り返していた。見える空を行く雲は早く、まだ空気は乾いているけれど雨になるのかもしれない。
話を聞いている間、鈴麗は表情こそ変えてもずっと海苓を見つめていた。だからこそ徐々に彼女の顔色が悪くなっていくことがわかったのだ。
視線を外すように鈴麗は俯き、ゆっくりと立ち上がる。そのまま静かに一礼した。
「……聞かせてくれて、ありがとうございます」
礼を言う声にも覇気がない。いっそ気の毒なほどだった。
(『龍炎』……これでも、俺に生まれ変わってくることを望むのか?)
記憶の中で、海苓も言っていた。鈴麗は罪悪感に苦しむことになると。それがもしこれのことであるなら、龍炎と鈴麗は完全にすれ違っていると言わざるを得ない。こんな顔をさせてまでも、龍炎は彼女の傍に在ることを望んだというのだろうか。
鳳族にとって、皇族と占で見出される対に象徴される比翼の魂は絶対のものだ。魂は宿命を持ち、それを終えるまでは神々の座へ至ることはない。そして比翼であるという絆は永遠に続くものだと言われていたのだ。海苓の中にある『龍炎の記憶』からも窺い知れることだ。
鈴麗にとっても同様だろう。彼女は神族であるかもしれないけれど、その精神を鳳族に置いているに違いない。神族とはすべてにおいて考え方が違う。
東屋を出て渡り廊へ戻っていこうとする鈴麗を見送りながら、海苓はふと自分の手元を見下ろした。横に置かれている書類は、凍冶から渡されたもの。次の戦に備えて新たに構築されている法術についての書類だ。
「鈴麗」
その書類を手に取り、海苓は彼女を呼び止めた。その背中が驚いたように飛び跳ねて、鈴麗は立ち止って振り返る。
「この法術なんだが――この毒を取り除くというのは、払い清めるということでいいのか?」
「え?」
いきなり振られた話題に鈴麗は面食らったらしい。瞠目して一瞬固まった。困惑しているのがありありとわかる代わりに、先ほどの蒼白さは消え去っている。
海苓が持つ書類の内容は、聞き書きだ。この法術を作り出したものがどのようにして術を作り行使するのかについて書かれている。凍冶からの頼まれごとというのは、これを読んで理解できるところがあったら補足してほしいというものだった。
本当は凍冶に会ったときに説明すれば良いと思っていたのだが、彼女とこうして予想外に会ったなら、彼女に伝えておくのもいいだろうと思いついたのだ。彼女が自身で神族へ説明できるようになれば、海苓が呼び出されることもないし神族にとっても時間の無駄がなく有益だ。
「毒と表現されているのは体にとっては有害なもので、消し去るべきものということでいいんだろう?」
海苓の指摘に鈴麗はしばし考え込み、思い当たるかのように頷いた。
「それなら、風や水を浄化する魔術があるから、その話をしてみるといい。その方がわかりやすいだろう」
本来は法術とは違う系統のものだ。けれど、そのもの、場所にある邪なものを避けるということだけ考えるなら、おそらくは通じるものがあるだろう。相手が物なのか人の体なのかという違いだけだ。
魔術も法術もその対象と目的が異なるだけで根は同じものだと海苓は思っている。そう思ってはいても、海苓に法術と同じ効果を発揮する魔術は使えなかった。しかし、この書類の聞き書きに見えてくる鈴麗の考え方ならその垣根はなくなる。彼女ならば、おそらくはどちらの系譜にも属さない新しい形の術が使えるだろう。
問題は、それをいかに神族が行使できる術の形に直すかということだ。それができれば、彼女の才は神族にとって新たな力となる。神族が彼女を理解し同じように術を使うには、まだまだ長い時間がかかるはずだから。
鈴麗は完全にこちらへ向き直っている。先ほどまでの衝撃による動揺と、突然の話題を振られたことによる驚きと、何か解決したような喜びとが入り混じった奇妙な表情をしており、思わず海苓が苦笑するほどだ。
思いつきの結果は悪くなかったらしい。
「あ、ありがとうございます。そうしてみます」
二度目の礼は少し元気になった声で。深々と頭を下げると、鈴麗は足早に戻って行った。
まだその表情の方がいい、と海苓は棟へと消えていく後ろ姿を見送る。
自分は龍炎ではないけれど――、できれば辛そうな顔はしてほしくない、と思った。
2010.3.7