時の円環-Reconstruction-


21



 最近の凍冶には、日々の楽しみがいくつか増えた。厳しい戦況になりそうな戦を目の前にして不謹慎とも言えそうだが、どうにも機嫌のよさだけは隠せない。海苓にすら訝しげな眼を向けられることが多くなっている。

 前回の戦の傷も癒えぬままの再戦。ただの一兵にさえ、次に鳳族がどんな手を出してくるかと恐れを抱かせるほどの状況だ。
 だが神族にとって幸いするのは、少なくとも前回のような形での死者は出さずに済みそうな点だった。興味を持った法術士たちが鳳族の医学を学び、法術を施す前でも傷などの管理が重要であることを知り、その方法を会得している。
 そして万が一傷口から毒が入ったとしても進行する前であれば法術で治療できることだ。現在はまだできるようになりそう、という段階ではあるものの、その法術の構成の中心人物である鈴麗から、喜ばしい報告がなされていた。
 華瑛からの連絡で、凍冶は江普と共に彼の自宅を訪問することになっている。鈴麗が試作した法術の構成を確認してほしいという内容だった。

 朝一番、といってもいい時間帯に凍冶と江普は訪問したのだが、出迎える華瑛も全く気にした様子のない笑顔である。ただし、その後ろで挨拶をした鈴麗の顔は緊張し引きつっていたのだが。
 早速客間に案内される。室内には資料が用意され、どれだけ時間がかかってもいいように傍らにはお茶一式と点心まで準備されていた。卓には既に一人、栗色の髪の女性――光玉が着いている。
 凍冶たちは簡単な挨拶を済ませてそれぞれ席に着く。細かく記入された資料は数枚に渡っていて、ざっと目を走らせただけでも随分と難しそうに見えた。
「さて、早速始めようかな。一応鈴麗がまとめてみたそうだからその説明を聞いてほしい」
 華瑛の言葉に凍冶と江普は頷く。それを見た鈴麗が緊張した様子のまま、書面を手に取った。
「まずは最初の部分なのですが――」


 復習するように、傷口から毒を取り除く法術の最初の部分から説明が為される。
 そこは問題ない。滞りのない説明で凍冶も江普も理解できる。資料もかなり吟味したと見えて、わかりやすく作られており、法術士に指導するときもこれを活用できそうだった。
 そして、以前からひっかかっていた問題の部分に入る。
 ――唐突に浄化の魔術のことに話が飛んで、凍冶は思わず面食らった。そこから何か話が展開していくのであろうことは見当がついたものの、毒を取り除くこととどう話がつながるのか戸惑う。
 しかし、そのまま続けられていく説明に、凍冶だけでなく隣に座る江普の表情も目に見えて明るくなっていった。
 つまりはそういうことなのかと、初めて話が符合する。
「なるほど……これは面白いですね」
 隣から感嘆の呟きが聞こえ、凍冶も心の中で同意した。鈴麗の術の理解の仕方を面白いとは思っていたけれど、ここまで法術と魔術の枠を超えて術を作り上げているとは思いもしなかったのだ。
 彼女の説明でどうしても理解できていなかった部分は、風や水を浄化するための魔術の構造を使うことでいとも容易く説明される。こうなれば凍冶も江普も簡単に理解でき、誰かに講義することもできそうだった。
 医学で言う傷口から入った毒は汚れた水を綺麗にする魔術と同じ考え方で取り除くことができる。魔術を取り入れることで新たな法術が生まれることになる。


「――以上です」
 すべての説明を終えた鈴麗は凍冶たちを見回しあからさまに安堵した様子だった。そこにある表情が一様に明るかったからだろう。
「……予想以上ですね。けれど良く理解できました。これで他の法術士たちに講義することもできるでしょう」
 江普が笑顔で告げ、向かい側で華瑛も頷く。再戦を目前に控え、これは大きな進歩と言っていい。
 あとは法術士たちがどれだけ習得できるかだが、実際のところ法術士である江普は再現できると断言し、法術の素養の低い凍冶であっても人が理解できるよう説明できる自信はあったから、おそらく習得にさほどの時間はかかるまい。
 一度休憩し、今度は江普がこの魔術を行使できるか試験しようということになった。
 光玉が席を立ち、しばらく経ってから侍女を伴い戻ってくる。家主の妻という立場で手ずからお茶の用意をするのは本来ならば異様な光景ではあるが、もうすっかり見慣れたものだった。彼女が入れるのは薬草茶であるから、侍女に任せるわけにはいかないのだ。
「少し心を落ち着けるような処方にしてみました」
 そう言って凍冶たちの前に置かれた湯呑からは、とても良い香りがした。一口すすると、不思議と甘い味がする。以前鈴麗から教えてもらった薬草茶とも味が違うようだった。

 思い思いにお茶を飲みながら、ふと江普が思いついたように鈴麗に問いかける。
「そういえば、鈴麗殿は良く今回の説明に辿り着きましたね。言われるまで、浄化の魔術のことには思い至りませんでしたよ。聞いてみるとあれだけ似通っているというのに」
「――」
 言葉に詰まったらしい鈴麗は、凍冶の見る限りあからさまに動揺していた。お茶を口に含んでいなかったのが幸いといったところだろう。
 ひどく困ったような顔で首をかしげ、不自然なほどの時間逡巡した後、彼女はようやく口を開く。
「たまたま、海苓様に助言いただいたんです」
「おや、そうだったのか。人から示唆されたというのは聞いていたけど、海苓殿からだったのか」
 なるほどなあ、と華瑛も隣で驚き、そして納得したようだった。凍冶は海苓と鈴麗のそれぞれの魔術の理解の仕方を比較できる立場にあるが、それでも思った以上に二人の思考は似ているのかもしれない。
 そして凍冶は書類を持って行って依頼して以降、海苓が一切報告書についての意見をしてこない理由を理解した。
「道理で術の分析を依頼したのに海苓が言ってこないわけです。まさかあなたに直接助言していたとは思いませんでした」
 彼女はたまたまと説明したが、実際のところそうではないだろう。海苓がどんな意図を持っていたかは知らないが、少なくとも自分から声をかけているに違いない。もし彼女から助言を依頼したとしたなら、鈴麗は今のような表現をしないはずだ。
 この場にいる面々の中で鈴麗と凍冶だけがわかる。海苓と彼女の関係性から考えればそれは『おかしい』。しかし、それは現実にあったこと。
 凍冶の指摘に鈴麗はますます困った顔をした。何かを思い出したかのようにひどく動揺している。困惑と、羞恥と、――後は何であろう、様々な感情の入り混じった表情。
 その様子に引き出されるように、数日前の出来事を凍冶は思い出していた。



 それは医学の講義の一環で領地外に薬草採取に行ったときのこと。
「……悪趣味だな」
 まず華瑛と鈴麗に挨拶をし、ついでに若干鈴麗をからかった後のことだ。海苓ははっきりと非難のこもった視線を向けてきた。何についての非難かは明らかだ。鈴麗が凍冶の言葉に顔を青くしている間に、海苓は完全に同情の視線を向けていた。
「ああいう素直なお嬢さんはどうにもからかいたくなるものだね」
 わざとにこやかな笑顔で答えてやると、海苓はますます渋面でこちらを睨んでくる。彼自身も凍冶にからかわれることが数あるから、ひどく同情しているのだろう。
 ひとつ面白いことを思いついて、凍冶は先にある情報を教えておくことにした。
「ああそうだ。そんな彼女なんだけれどね、今回は途中で別行動をとることになっているんだ」
 だからもし彼女が突然集団から離れてもそっとしておいてほしい、と。
 今回の薬草の講義とは別に、鈴麗には特別な薬草採取の使命が与えられていた。前回のようにはぐれそうだと勘違いされても困るのだ。
「武官が集まったときにあらためて説明すると思うけれど、一応心に留めておいてほしいんだ。――ああ、さすがに本当にはぐれそうなときは止めてほしいけれどね」
「……わかった」
 凍冶に非難がましい視線を向けたまま、海苓は承諾した。

 その後、海苓も含めた護衛役の武官たちが集まったときにも同じように説明された。だから、必ずしも海苓だけに任された仕事ではない。そのとき立ち会った誰かが目を配ればよかったのだ。
 しかし、実際に薬草採取の講義が始まったとき、海苓は――鈴麗が動き回っている側に居た。それは同様に清蘭の居た場所にも近かったのだけれど、彼は一番全体の動きが見渡せる場所を担当していたのだ。
 薬草採取は、特に問題もなく順調に進んでいた。光玉、鈴麗を中心にして薬草の説明や採取の仕方を教え、みな真剣に取り組んでいただろうと思う。途中鈴麗と清蘭が休憩中なのか立って話しているのが視界の端に見えたが、講義が滞るような問題は何も起こらなかった。
 予定された時間が過ぎた頃になって、凍冶は鈴麗が腰に下げた鞄から道具を取り出し、集団から少し外れて地面にしゃがみ込むのを見た。
 そろそろ別行動をする時間だと確認し、集団を目配りするための位置を変える。鈴麗が教えていた部分の人々を今度は残りの人々で教えなければならない。
 教えるべき人が途切れ、一息ついて凍冶が周囲を見たとき、何故か鈴麗は遙かに離れた場所にいた。こちらに背中を向けていて、自分が離れたことに気付いた様子もない。放置しておくとさらに遠ざかっていきそうな様子だった。
 けれど凍冶が動かなかったのは、その後ろ姿に向かって歩いていく人影を認めたから。
 その人物は迷いなく鈴麗のところへ行ってその肩をたたく。驚いた様子の鈴麗と何事かやり取りをして、呆れたように若干肩を落としたその青年は、そのまま彼女をその場に置いてこちら側へ戻ってきた。
 ――しかし、それで終わりではなかったのだ。結局彼女が採取を終えて戻ってくるまで、海苓は彼女とその周辺から注意を外すことはなかった。ある程度の距離を保ったままで。
 次に凍冶が二人を見たときは既に人々の居る場所へ戻ってくるところだったので、採取を終えた鈴麗とそれを見守っていた海苓がどんなやり取りをしたのかは分からない。それでも、決別するようなやり取りがあった割には接点が多すぎる。
 他の護衛連中にそっと確認してみたところ、鈴麗が別行動を取り始めたことを誰もが気付いていたが、海苓がそれを追いかけて動いたので大丈夫だろうとそのまま護衛を継続した、ということだった。
 ――誰が行っても良かったのだけれどね。
 彼に尋ねれば否定するか、あるいは無意識すぎて気付きもしないか。とにかく、面白いことになっているのは確かだった。



 凍冶が数日前のことを回想している間、卓を囲む人々の話題は海苓のことに移っている。
「やはり彼は素晴らしいですね。我々が理解できずにいた部分を明確に指摘してみせるとは」
「ああ、魔術の才も相変わらず卓越しているね」
 実際のところ、鈴麗と海苓の二人が揃っていれば、新たな魔術なり法術を作り、それを神族が使える形に翻訳することができるということになる。凍冶たちにとってみれば、この二人は重要な存在ということだ。
「そんなにすごい方なの?」
 光玉は彼らや鈴麗と比べると数えるほどしか海苓の面識がない。不思議に思って尋ねるのも当然で、華瑛と江普の説明にひとつひとつ納得するように頷いている。二人とも海苓に対して相当の評価をつけたようで、凍冶が聞いていても笑えて来るほどの賛辞ばかりだった。
 それを、鈴麗は先ほどの困惑とは全く違うにこやかな表情で聞いていた。面白がって、あるいは嬉しそう、とも言えるかもしれない表情で。


 ――『楽しみ』ばかり増えて、忙しいことだね。
 凍冶は満足げに笑って、一息に薬草茶を飲み干した。



2010.7.26


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