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今更ながらどうして、と思う。
(なんで……そんなこと平気で思えていたんだろう)
――戦なら、死者が出るのが当たり前。
整然と寝かされる人々。頭の天辺から足の先まで綺麗に白い布に覆われた彼らが、何かを語ることは二度とない。
その光景を鈴麗は一度ならず見たことがある。けれど、もうかつてと同じ気持ちを抱くことはないだろう。
その黙したまま横たわる人々の中に、よく知っている人を見つけてしまった今は。
あの鮮やかな緑色を、二度と忘れない。
海苓の言葉に背中を押されたような気分で一歩を踏み出し、その勢いのまま治療所へ向かって走ることしばし。
息が続かなくなってきたところで、ようやく鈴麗は足を止めた。その場で大きく息を整える。
心臓の鼓動がうるさいが、先ほどのわずかな時間に起こったことのせいなのか、今全力で走ったせいなのか、もう判別がつかなかった。
(びっくりした)
水を汲みに行っただけのはずなのに、目まぐるしく変わる状況に混乱しかけ、自分の目的を忘れるほどだ。
一応は神族陣内のはずの場所で鳳族の兵士に切られかけ、さらに何故かそこにいた海苓に助けられたのだ。
自分が襲撃されたのだとわかったとき、何より先に脳裏をよぎったのは、地面に数多に寝かされる人々にかけられた布の白と、その中でみつけてしまった緑色。
あの兵士が何かを持ち帰れば、今度はさらにあの色彩が増える――。瞬間的に頭に血が上り、逃げた兵士の行方を問うていた。
本当に嫌だったのだ。これ以上神族に犠牲者が増えることが。
我に返り、息も心臓も落ち着いたのを確かめて、鈴麗は再度走り出す。もたもたしていては、せっかく海苓が時間を与えてくれたのに無駄にしてしまう。
と言っても、着替えられるわけではない。幸いにも汚れは血避け用につけていた前掛けに集中していたから、それを取り換えて腕や手についた泥を落とすだけだ。あるいは顔にもついているかもしれないが。
鈴麗が水を運んでくるのを待っていた治療所の人々は、何も持たずさらに土まみれになって戻ってきた彼女を見て怪訝そうな顔をした。
「今、天馬が水を運んできます!」
正確には天馬兵とも呼ぶらしいのだが、鈴麗の言葉足らずな叫びでも人々は理解してくれたようだ。安堵し治療を再開しようとしている人々を横目に鈴麗は荷の積まれた場所へ走り、替えの前掛けに交換して手を清める。
今鈴麗のいる場所のその向こうは安置所だった。否が応にも白く包まれた人々が並ぶ様子が目に入る。
顔そのものを見ることはできないから見ただけはそれが誰なのかはわからない。けれど、その隅にはそれぞれの私物であろう品が結び付けてある場合もあって、鈴麗が判別できたのもそのせいだった。
風に揺れる緑色の布。知る限りそれを身に着けていたのは珱李という青年ただ一人。違うと否定するにはあまりに目に馴染んだその色に、あのとき運ばれてきた兵士が彼だったのだと思い知る。
爆発があってから相当遅れて運ばれてきた珱李は、そのまますぐに法術士に託されたというのに、助からなかったのだ。
法術士が全力を尽くしてもなお救えなかった人たち。医師も法術士も手を伸ばせぬうちに命を落とした人たち。治療の順番を待つうちに逝ってしまった人たち。
見る度に、自分たちの無力さを痛感する。戦で同朋を失ったことのなかった神族たちにとってはどれほどの衝撃だろう。少しでも助けたくて護りたくて、鈴麗は必死に治療所内を駆け回ったのだ。それでも――。
天馬だとわかる羽音と、人々の歓声。
海苓が水を持って辿り着いたのだとわかり、鈴麗は慌ててその場を離れる。
法術士たちが力を使い切り休養に入ってしまったため、あとは鈴麗を始めとした助手が怪我人を手当てするしかなかった。薬も底をついて簡単な処置しかできない上に、状態のよくない人も多く、目が離せないのだ。
海苓が運んできた水はすぐに人々の手に渡り怪我人へと届けられる。飲むのにも冷やすのにもまだまだ足りなかったが、鈴麗が運ぶよりはよかっただろう。
そのまま立ち去るのかと思ったが、海苓は他に空の器がないか尋ねてきた。
「人手が取られるよりいいだろう」
天馬兵が必要とされる場面は他にもあると思われたが、治療所の人々にとってはありがたい申し出だった。
海苓はいくつかの器を持って再び空へと舞い上がり、鈴麗はそれを完全に見送らないうちに怪我人の治療に戻る。水を求める人へ飲ませ、患部の布を取り換える。時々空から賑やかな翼の音が聞こえてきて、それだけが時間の経過を教えてくれていた。
一体それを何度繰り返しただろうか。
「――やっぱり、薬がほしいわね」
間近で母の声を聞き、鈴麗は顔を上げる。光玉が難しい顔で目の前の怪我人を見つめていた。
法術士は皆限界まで法術を施し疲労困憊で安静中。治療が再開できるのは相当後だ。この場に残る人々の中にも法術を心得る者はいたが、あまりに怪我人が多くて手に負えない。
鈴麗も万が一の時は法術を使おうかとも思っていたが、自分の力では精々一人を癒せればいいところ。前の経験を踏まえれば、そのまま自分も気を失い使い物にならなくなることは目に見えていた。
出陣の際に持ってきた薬は、本来別の目的に使うものまでも使い果たしてしまっている。
あと、方法は――。
「川向うに森があったから……探してみて、もしあれば」
先ほど水を汲みに行った時を思い出しながら、鈴麗は提案してみる。遠くから見ただけだから植生はわからない。ただ、火傷の治療に使う植物は決して希少なものではないから、比較的見つかりやすいことを考えれば、あるいは。
この状況で森へ行き必要なものを探せるのは、鈴麗と光玉しかいない。自ずと誰が行くべきなのかは決まってしまう。
鈴麗は腰の鞄に手を触れた。幸いにもここに薬草を取り扱うための道具はすべて入っている。その中に採取用の鋏もある。
(なんとか、なるかも。なんとかするしか……!)
「私、行ってくる」
鈴麗は母の顔を見た。自分がいなくなることも治療所としては痛手のはずだが、医師としての手腕は光玉の方が上だ。彼女がここに残り、自分が薬草を探してくる方が妥当だった。
少しだけ迷った後、母は静かに頷いた。
「わかったわ。こちらはできる限りのことをしておくから」
「――それなら、手伝わせてほしい」
背後から割り込んできた声。振り返ると、天馬を下りた海苓がこちらへ向かってきていた。
「森へ行くにも、薬草を運ぶにも、徒歩よりは天馬を使った方がずっと早い」
天馬は海苓と鈴麗の二人を乗せて、森へと向かっている。鈴麗は必死になって海苓の背中につかまっていた。
馬に乗ったことはあるが、当然空を飛んだことはない。天馬は見えない道を行くように軽やかに走っているけれど、鈴麗の両脇を激しく風が吹き抜けて行ってどうにも落ち着かない。
鈴麗が必死になって往復した川までの距離を飛び、あっという間に目の前に森が広がってくる。
たぶん、落ち着かないのはこの状況のせいもあるとは思うのだが。
先ほどのやり取りを思い返してみる。
――突然の提案に動揺する鈴麗を余所に、海苓は光玉に対し丁寧な口調で水は十分かどうか尋ねた。水の入る器という器のすべてに水が張られた状態で、光玉はにこやかに充分であることを告げ礼を述べた。
有難い申し出ではあった。天馬兵はそのほとんどが前線からの撤収に人手を割かれていて、治療所や安置所に人が運ばれてくることはあっても、治療所の方へは手が回っていなかったのだ。
鈴麗が動揺するのは、そう申し出るのが海苓だからだ。
「……すみません。ありがとうございます」
天馬が降下し、森が徐々に大きくなってくるのを見ながら、鈴麗は呟く。この風の中では聞こえないかもしれないと思ったのだけれど、きちんと返事は返ってきた。
「気にしなくていい。あそこにも人手は要るはずだし、まだ誰か潜んでいる可能性もあるからな」
天馬は手綱をつながれることなく放置されたが、海苓と鈴麗を見つめたままじっとそこに留まっていた。
不思議に思い鈴麗が尋ねてみると、逆に不思議そうな声が返ってくる。
「どうしてつなぐ必要があるんだ?」
天馬とその主というのは相性なども合わせて一対一で決まるものらしい。だからどれだけ乗馬や武術に優れても、ごく稀に天馬に気に入られない場合もあるのだそうだ。会話とまでは行かなくても、意思疎通ができるほど通じ合える天馬とめぐり合わない限りは、天馬兵になれない。
だから海苓の天馬も、彼の意図を察してそこで待っているということなのらしい。
やっぱり鳳族とは違うのだと思いつつ、今はそれどころではないと鈴麗は我に返った。
目の前に広がる木々を見る。少なくとも、鳳族の領地にある森と若干植生は似ているように思われた。それならば、割とすぐ見つかるかもしれない。
問題は人が入らないのでどこから分けいるべきか迷うほど草木が茂っていることだが、海苓の方が先に気付いたらしく先頭に立って道を作ってくれる。
渡されていた革袋を手に、鈴麗は海苓の後ろに続いた。進みは遅く、足元はでこぼことして最悪の状態ではあるが、顔や胸の高さの枝や蔓を海苓が綺麗に落としてくれるので、比較的歩きやすい。
あちらこちら、見覚えのあるものはないか注意深く見まわしながら歩く。途中、求めるものがあるような気がして立ち止ると、その気配を海苓も察するらしく、止まって待っていてくれる。
――不思議な感じがした。
あれだけ激しい怒りを鈴麗に向けてくるというのに、過去世の記憶とそれに絡む鈴麗を厭っているようなのに、それでも手を差し伸べてくることがあるのが不思議だ。
確かに止むを得ないときはあった。それが誰であれとっさに助けてしまうような状況――たとえば今もそうだろう。けれど、そうではないこともあったのだ。
そしてそんなときは、優しく笑うことはなくても彼の表情に冷たく鋭いものはないから。
どれだけあるいたか、小一時間は経っていない。気持ちばかりが焦る中、鈴麗はようやく木々の向こうにそれを見つけた。
「あったか?」
海苓の問いに応じてそちらを示す。
「たぶん、あっちの細い木に蔓が巻き付いてるので――」
説明しても分からないかも、ということに鈴麗は気付いたが、海苓は示した方向にきちんと道を作ってくれた。
近くに行ってみると、群生と呼べるほど密集して蔦状の植物が茂っている。
良いものを見つけた。これなら、葉も蔦も、――確か根のあたりも火傷の治療に使えるはずだ。見回してみると、相当な量が繁茂していて、その上鈴麗より丈もある株が多い。
(全部……は駄目かな。でも、半分だけでも……)
正直なところ全部持って行ってしまいたいくらいではあるが、そうするとこの場所に二度と育たない可能性がある。必要量と全体量を見ながら、鈴麗は早速根を掘り起こし始めることにした。
あっという間に結構な量が取れたが、すでに長さからして革袋では意味がなくなっている。どうしたものかと考えると、背後で見守っていた海苓が縄があるから何とかなると言ってくれた。
「ところで……あの治療所に薬が足りないなら、他の二ヶ所もそうなのか」
海苓の指摘に鈴麗も思い当たる。
彼女がいた治療所が一番戦力を投入されているが、あれだけ陣全体に被害が出ているのだ、場所など関係なく運ばれているはずで、他の治療所でも法術士や薬不足の問題はあるはずだった。
しかも、光玉や鈴麗がいるから薬については応用が利くのであって、他の治療所ではそれも望みにくい。
「他の治療所の分も要るんですね……」
そうなると、やはり目の前の群生の半分以上は採取しなくてはならないだろうか。さらに問題はそれだけの量を積んで帰れるかだ。そして、それだけの量を薬にしなくてはならないのだ。
考え込んでいると、突然手の中の薬草束を海苓に奪われた。
「え?」
「もっと必要になるんだろう。一度戻って渡してくる。その方が薬が出来上がるのが早いはずだ」
「そう、ですけど……」
「俺が往復して運ぶ方が、量も運べるだろう。一人にはなるが、幸い、鳳族も潜んではいないようだし」
やはり戸惑う。彼が、積極的に手伝おうとしているせいだ。言っていることは至極当然。この状況なら、手伝ってくれることの方が神族の益になる。それでも、そう主張して行動するのが、――海苓だから。
鈴麗が答えないうちに、海苓は薬草束を抱えて、森の入口へ戻っていくところだった。ふと何か思い出したのか、立ち止り振り返る。
「母親に渡せば、何も言わなくてもわかるんだな?」
「……はい。見ればわかりますから」
鈴麗にこの植物のことを教えたのは光玉だ。この薬草を見せるだけで、鈴麗が何を意図したがわかるはずで、うまく薬を作ってくれるだろう。
「それと、戻ってきて見失うと困るから、――あまり動くな」
薬草採取で集団から外れそうになったあのときと、同じだ。真剣な光の宿る瞳が、鈴麗を見つめていた。鈴麗は静かに頷く。
「はい」
再度歩き出した海苓が、向こうを向く一瞬、かすかに笑みを浮かべていた気がした。
あれからひたすら鈴麗は薬草採取を繰り返し、山のようになった薬草束を持ってもう一度海苓は治療所に戻った。海苓が他の治療所のことを言及したことで皆も気づき、光玉を筆頭に薬作りに取り掛かっているらしい。
「これだけあれば、大丈夫だと思います」
三度目の山になった薬草束を前に鈴麗はそう言った。周囲は荒らされた後の畑のような状態になっている。薬効のためにまさしく根こそぎとったからで、これ以上は群生を絶やしてしまう。
海苓の話だと、これから治療所に戻ると出発してから一刻過ぎた計算になるらしい。
その前に最初の薬は出来上がっているはずだから、あとは治療も進むだろう。その間に治療所すべてでどれだけ命が失われたか考えるのも恐ろしいが――。
「なら、戻るか」
海苓は当然のように薬草束を担ぎ、先を行く。手袋をはずしながら、鈴麗は慌ててその後を追った。正直なところ、ずっと掘り続けたせいでへとへとで腕に力が入らない。
この状態でまた天馬に乗って帰らなければならないのだ。
それでもなんとか海苓にしがみついて、大量の薬草とともに鈴麗は治療所へ戻った。
「お疲れ様、これで何とかなりそうよ」
鈴麗が戻ると、光玉が笑顔で出迎えてくれる。最初に運んだ分はすべて薬になっているということで、今数名がかりで練っているのは二度目に運ばれた薬草らしい。
さすがの鈴麗もそれを手伝う力はなかった。手当てをする方に回ろうと決める。
「鈴麗、これを海苓様に持って行ってもらって。他の治療所でも必要としていると思うから」
問い返す暇もなく手早く光玉に渡され、ずっしり重い皮袋二つを慌てて抱える羽目になる。あまりの重みに疲れ切った腕が耐えきれず落としそうになった。
「?」
「引き受けてくれたのよ、自分が持っていくからって」
本当はつぼとかの方がいいんだけれど、もうこれしか入れ物がないから、と光玉は苦笑している。どちらかというと鈴麗が疑問を感じたのはそこではないのだが、事情を知らない光玉が察するはずもない。
疑問はともかく、海苓のところまで今の自分が運べるかあやしかったが、力尽きる前に海苓の方が気付いて駆け寄ってきた。
「確かに、預かった」
軽々と皮袋を持つとごく当然のように言い、天馬の方へ向かう。その行動の迷いのなさに鈴麗の方が焦ってしまう。
「あの――」
「心配しなくていい、説明は聞いたから、きちんと渡してくる」
「そうじゃなくて……!」
どうしてだろう。当たり前のことなのか。それでも、鈴麗と関わることを、龍炎の記憶と関わることを、激しく厭っているように見えたのに。
慌てて追いかけていくと、海苓が立ち止る。何気ない様子で、鈴麗に手を伸ばしてきた。
「気にしなくていいと、言っただろう」
そのまま、頭を撫でられた。結いあげた髪が乱れるかと思うほど。
(……!)
触れた手から伝わってくる熱。自分の手よりずっと大きく、骨ばっている、男の人の手。
一瞬にして心が震える。思考も、息さえ止まったかと、思う。
そうして鈴麗の頭から手を離し、天馬の方へ歩き出した海苓は、こちらを見て穏やかに笑っていた。そんな笑顔を久しぶりに見た。
どうして。どうしてそんな顔を見せるの。
「あんなに働いたんだ。少し休んだ方がいい」
労わりの言葉を残して、海苓が天馬とともに空へ舞い上がった後も、鈴麗はその場を動けなかった。
もう彼は触れてはいないのに、まだそこに感触も熱も残っている気がする。
(ああ……早く戻らなきゃ、怪我人の手当てもしなくちゃいけないのに)
そんな状況ではない。そんなことをしている場合ではない。
思考の片隅で冷静にささやく声がするけれど、足が張りついたように身動きできない。早鐘を打ち始めた心臓が痛いほどだ。顔が――特に頬のあたりが明らかに熱い。
どうしようもなくて、鈴麗は先ほど海苓に触れられた部分に自分の手を重ねてみた。
その瞬間、触れられた箇所の熱さがさらに増した気がした。
見上げた空に、すでに天馬の姿は見えない。
2010.11.28