時の円環-Reconstruction-


38




『今の君は、その娘のことをどう思うんだい?』
 遠く昔に投げかけられたその問いに、どう答えたのだったか。
『それで、彼女に会ってみたいと?』

 そう、――確かに、待っていた。




 龍炎の目の前で、二人の少女の攻防が展開されている。栗色の髪の娘と、漆黒の髪の娘と。攻防というよりは栗色の髪の娘が一方的に押していると言った方がいい。自分の衣装を試しに着てみろと芳姫が迫って数分もしないうちに、鈴麗は壁際に追いつめられて降参した。同意を取り付けた芳姫は満面の笑みで、鈴麗を隣室に引きずっていく。
 一瞬鈴麗に助けを求める目を向けられた気がしないでもないが、こうなった芳姫は龍炎にも止められない。できることといったら、せいぜい怪我や周囲を巻き込む事態にならないように気を付ける程度だ。
 騒々しさはあっという間に消え去り、龍炎は一人取り残される。軽くため息をついて傍の壁に背中を預けた。
 事の起こりは、数日前に芳姫が侍女たちと衣装の整理をしたことに始まる。丁寧に保管されていた衣の数々を見て、鈴麗を着せ替え人形にすることを思いついたらしいのだ。別の用件で鈴麗が王宮に呼び出されたところを見事捕まえ、必死の形相で断る鈴麗にどうせ室内だけだ、見るのは二人だけだと説き伏せ逃げ場を塞いで――現在に至る。
 しばらくして、鈴麗を追いたてるように芳姫が隣室から戻ってきた。
(へぇ……)
 龍炎は思わず眉をあげる。数ある衣装の中で芳姫が選んだのは、成人の儀に着た白絹の衣装だったのだが、まるで鈴麗に合わせてあつらえたかのようにぴったりだ。本来の主がこれをまとった年齢より今の鈴麗は幾分若いはずだが、よく似合っていた。
 芳姫は満面の笑みで鈴麗を鏡の前に立たせる。
 いつも動きやすい服で髪もひとつにまとめている鈴麗だが、こうしてみるとずいぶんと印象が変わるものだと感心した。まだ幼いが母譲りの整った顔立ちは、成長すれば確実に美しくなるだろう。解かれて背中に落ちた髪は色こそ異質だが艶やかに流れる。まっすぐ澄んだ瞳は、残念ながら今はおそらく衣装の贅沢さに委縮して震えているが。
 してやったりと満足げな笑顔で芳姫がこちらを振り返った。
「ねえ龍炎。私の思ったとおりでしょう?」
 龍炎は思わずうなずいていた。



「海苓!」



 それは、よく知っている名前。
 突然入り込んできた声に、視界が崩れる。霧が晴れるように景色が変わる。
 体を温める陽射し。風は穏やかに葉を鳴らしている。足元には石畳の固い感触。右手にはずっしりと重い書類束。石畳はしばしまっすぐ続いていて、呼び声はその先の建物から現れた女性が発したものだった。
 ――海苓は軍部棟内をつなぐ渡り廊を歩いていたのだ。
 一瞬戸惑い、立ち止まる。そう、窓を開け放して陽射しを目いっぱい入れた屋内では、なかった。
 二日前、<道>守護の任務から一旦戻り、昨日は療養し、今日になって報告書をまとめて持っていく途中だったのだ。目的地へ向かう最中に、我を忘れていたらしい。
(どこから……?)
「海苓? 何度呼びかけても返事をしないんだもの、どうしたの?」
 笑顔で向こうから近づいてくるのは清蘭だ。肩で切りそろえられた波打つ黒髪が揺れている――ごく当たり前に見てきたもの、珍しくもなんともない黒。
 海苓が返事をできずにいると、不思議そうな顔でこちらを見上げてくる。その目が合った瞬間。
『それは、本当は誰の気持ちなの?』
 どこか遠くから声が響いてくる。それは過去に言われた言葉だ。今言われているわけではない、それなのに。
「海苓……?」
 呼びかける声に被さるようにして、その糾弾の声が海苓の心に響き渡った。世界が揺らぐこの感覚は、眩暈だろうか。
「あ、ああ……」
 かろうじて言葉を絞り出し、海苓は曖昧に笑った。きちんと笑顔になっているだろうか、口元が引きつっているような気もしながら、目の前の女性に笑って見せる。
「どうか、したのか?」
「どう、というか姿が見えたから声をかけたのだけど……何かまずかった?」
「……いや」
 また、だった。
 もともと過去世の記憶は、海苓自身の思い通りになるようなものではないのだ。何かを呼び水に引き出されて、ふと目の前に立ち現れるものでしかない。それは常に遠く薄幕の向こうにあり、感覚的にも遠く朧げなものでしかなかった。今海苓が見る現実を凌駕するものではなかったのだ、ただひとつ『あの瞬間』以外は。
 けれど、最近になってそれは変貌した。状況も、頻度も。
 まるで堰を切ったかのように現状お構いなしに流れ込んでくる様は、まさしく奔流だった。



 治療院に向かう途中だったという清蘭と二言三言交わし、海苓は仕切り直しの気分で本来向かうべき目的地へと向かう。
 ふと息を吐くと、見慣れた軍部棟の景色に知っているだけの景色が重なってくる。かつてその時間空間の中で見えていたもの、聞こえていた音、肌に触れていた空気、取り巻いていた雰囲気――『龍炎の記憶』が現実に溶け出してくる。海苓は慌てて頭を振った。
 今までこんなことはなかったのに。気を抜くと、過去世の記憶は恐ろしいほどの勢いで海苓の意識を飲み込もうとしてくるのだ。まるで白昼夢のごとく。先ほども、海苓は心を記憶の中に飛ばしたまま歩いていたということで、よく人にぶつからずに済んだものだ。
 海苓がしっかりと目の前の光景に意識を向け、自分の果たすべき用事に思いを向けることで、ようやく過去世は以前のように遠くへと引き下がる。
 記憶は、時系列に沿って流れているのではなかった。何をきっかけに湧き上がるのか、糸口さえつかめないほど時期はばらばら。そこに共通するものはひとつだけ。



 ――扉のきしむ音がし、龍炎は素早く芳姫共々頭を引っ込める。二人が廊下から見えぬよう隠れたところでけたたましく扉が開け放たれる音が響いた。部屋から出てきた者がこちら側に来たらどうするか肝を冷やしたが、二人分の運の方が勝ったらしい。吐き捨てるような声が反対側に遠ざかっていく。
『神族の血を引くという割にずいぶんと使えぬものだ』
『まったくですな。譲り受けたのはあの色だけとは』
『ふん、だからこそ神族から放逐されたのかもしれんな、親子ともども』
 二人分の足音が消え去らないうちに芳姫が廊下に飛び出したので、龍炎は慌ててそれを追う。法術士を示す長衣をまとう二人の姿は、龍炎と入れ違いに通廊の向こうに消えていった。廊下の真ん中に立ち、芳姫はその先を睨みつけている。
『……あの二人、父上の直属の術士よ』
『道理で……』
 ならばこの目の前の部屋に龍炎たちが探していた少女はいるだろう。
 二人が少し目を離している間にどこからか呼び出されたらしく、いつの間にかいなくなったのだ。芳姫と龍炎の庇護は彼女が王宮内で身を守るのに絶大な効果を発揮するが、それよりさらに強い権力を持つ皇帝の命には逆らえない。
 皇帝の命令。法術士。呼び出された鈴麗。これでおおむね何があったか見当は付く。そしてあの術士二人の悪態から結果も見当は付いた。要はうまくいかなかったということだ。
 これが初めてのことではない。術に長け、他部族を圧倒して強いとされる神族。その一族の血と特徴を受け継ぐ鈴麗を、人々は『神族の娘』と呼ぶ。どの部族も神族の力と秘密を欲していて、だからこそ王宮の者は彼女の能力を何度も調べようとしていた。
 しかし、それが幸か不幸か、鈴麗は神族の力を発揮するどころか、鳳族の術士ならば当たり前にできる基本的な術すら使うことが出来ない。
『鈴麗!』
 裾が床を擦るかという長衣をまとっているにもかかわらず衣擦れの音ひとつさせずに芳姫は開け放たれた室内へと走りこんでいく。
 そこは術士たちが訓練場としている場所で、術のための装飾以外は何の調度品もない部屋。力を強化するための方陣の描かれた中央に黒髪の少女が一人立っている以外は他に誰もいない。
 鈴麗は教本を胸に抱きしめたまま、わずかに俯いて視線を落とし、床の模様を睨み付けていた。瞬きもせず、微動だにしない。ただ、本を抱える手だけが何かを抑え込むように震えている。
『鈴麗』
 芳姫の呼び声に、彼女は緊張を解いた。こちらへ顔を向けて力なく笑う。
『すみません。何の言付けもなく離れてしまって……』
『いいわ、そんなこと気にしなくて。何もされていない?』
『大丈夫です。基本の術を使ってみろと言われただけです』
 そして予想通り使えなかったのだろう。何もされてはいないだろうが、あの有様だ、ひどい言葉は投げつけられたに違いない。それでも鈴麗がその内容を二人に告げてくることはないのだが。
『――何度やっても、使えるとは思えないんですけど、ね』
 ぽつりとこぼすように、鈴麗はそれだけを呟いた。



 いつも、その再生される記憶の中心にいるのは――鈴麗だった。湧き上がる記憶の断片は順番ではなく、そこに現れる彼女は今と同じくらいの姿であったり、ずっと幼い姿であったりした。それでも、ここ最近現れるものには、いつも彼女が存在している。
 海苓自身がいたこともない、神族の王宮とはまるで違う、どこか湿ったような重いような鳳族の王宮の空気が、すっと遠ざかっていく。何も明かさず一人言葉を飲み込んで立ち尽くす少女も、幻のように消えていった。
 明るく陽が差す通路の先に、棟の入り口がある。
 報告書を提出するべき棟にたどり着いた海苓は、そこで予想外の人の姿を見た。
「やあ、久しぶりだね」
 こちらに気付いたらしく、にこやかに手を上げる凍治もまた何か書類を持っている。特別感慨深いわけでもないが、しばらくぶりの再会ではあった。
「ああ、凍治も来ていたのか。久しぶりだな」
「兵士たちの治療報告にね。海苓の方はいつ外から戻ってきたんだい?」
「一昨日帰ってきて、昨日は丸一日寝てた。まあまたすぐに交代で出るけどな」
 外、というのはもちろん領地外のことで、<道>防護の任務のことを言っている。領地外での鳳族との小競り合いは数か所で起きていて、負傷し治療院に運ばれる者も数多い。必然的に海苓のように無事に帰ってきた者たちはすぐに外へ赴かざるを得ない。
 武官である凍治は本来は海苓と同様その任務に加わるはずなのだが、医学を修めた者として治療院での仕事に当たっているのだった。
「今日は治療院から退院したのが三名と自宅療養終了したのが十名ほどいるから、いくらか楽になると思うよ」
「それは助かる」
 凍治の報告が上層部に上がれば、海苓が今から持っていこうとする報告書も合わせて、再度兵士たちの編成がなされるだろう。動ける人数が増えれば、海苓たちの負担もだいぶ楽になる。
 その後交わされた会話は、世間話というよりはほぼ情報交換だった。
 数日間街を離れて外にいただけで、既に様々な事柄が変わっている。特に、自分が配置された場所以外のことは全く分からない。凍治は内部にいる分、あちこちに顔を出して情報を集めているらしく、今神族が置かれている状況を的確に把握しているようだった。
「それなら、やっぱり<扉>を移動する計画は本当だったんだな」
「今の場所が一番効率も良いし、魔力の相もいいようなんだけれど、さすがに鳳族の動きを見るとどうにも危険らしくてね」
 海苓が<扉>の守護で出向くのは概ね同じ区域であるが、各分担場所から届けられる報告書を見ると、鳳族のうごきとして、少し<扉>のある場所に近づくような振る舞いを見せるらしい。いく隠匿し偽装をこらしても、大がかりな術は周辺に影響を及ぼすものだ。何らかの残滓をとらえている可能性もある。
 次に外に赴くときには、部隊の作戦も変わっているかもしれないな、と海苓は思考を巡らせた。
「そうだ、ついでに訊いていいか」
「なんだい?」
「今日は鈴麗は治療院に行ってるか? 少し用事があったんだが」
 この報告書を提出したら、彼女を捜して頼みたいことがあったのだ。鈴麗に与えられた役割を考えれば居所は決まっているだろうし、他に急用などはなかったからゆっくり捜すつもりでいた。だが、凍冶なら彼女の仕事予定も把握しているだろうから、もしわかるなら手間も省ける。
「鈴麗嬢?」
 凍冶は一瞬目を瞠ったが、すぐに考え込むような様子を見せる。
「今日は治療院には来ていないけれど……ああ、たぶん施薬院の方ではないかな。光玉殿が確か医術講義が入っていたからね」
「そうか、そっちならちょうどいいな。頼みたいことがあったんだ」
 治療院で医師の役目を果たせる者は今は複数いるが、施薬院を切り盛りできるのは今のところ二人だけなのだという。光玉が違う仕事にあたっているのなら、つまり今日は鈴麗が施薬院に詰めているということになる。
 今回の任務では、彼女に用意してもらった薬にずいぶん助けられた。残りも心許なくなっているし、実際使ってて見たことでわかった問題もあったので、それを相談しようかと思ったのだ。
 不思議そうな顔をしている凍冶に事情を説明すると、納得したとばかりに頷いた。
「なるほど。それで海苓のいる班に軽傷者の報告が少ないわけだね」
 もちろん得体が知れないと拒否する者もいるから無理強いはしないが、法術の使い手がいない分、応急処置だけとしても回復の度合いが違う。海苓が見ている限りは概ね好評だった。
「ところでその薬、海苓が個人的に作ってもらってるわけかい? 誰かからの指示とかでなく」
「ああ……何かまずかったか?」
「いや、もし不都合がなければ、その件も報告しようかと思ってね。治療院や施薬院が評価されるのはありがたいことでもあるし」
 評価が重なれば、軍部からの正式な依頼につながることもあるだろう。それは治療院や施薬院の立場を確固たるものにするものでもある。
 構わない、と海苓は頷く。
「俺と所属する班の意見程度でどうにかなるとは思わないけどな」
「まあ、そう言わず。上が動かなくても、評価されるとなれば光玉殿や鈴麗は喜ぶと思うよ」
 凍冶の言葉に、海苓は薬の件を鈴麗に依頼したときの様子を思い出した。目に見えて張り切った様子で薬の話をしてくれたのだ。
「……そうだな」
 他の者も薬に助けられたと知ったら、彼女はどんな顔をするだろう。嬉しそうな顔をするのは明らかだったけれど、知っている限りの鈴麗の表情を思い出して想像を巡らせるのは少し楽しかった。




 用事を済ませ、海苓は施薬院に向かう。
 そうして道を行く間にも、先ほどまでと同じように過去世の記憶が目前を流れていく。領地外から帰り、緊張が解けてでもいるのだろうか、少しでも気を緩めるとあっという間に飲み込まれてしまう。清蘭と凍治の前でやってしまったのだ、まさか鈴麗の前でまでやらかすわけにはいかなかった。
 ――本当は誰の気持ちなの?
 過去世の記憶、龍炎の記憶と向き合うとき、必ず脳裏に響く声がある。
 咎めるように、警鐘を鳴らすように、繰り返し繰り返し、海苓に問うてくる。まるで今その時間を過ごしているかのように龍炎の生を追体験するとき、そこで感じるものは海苓の心から生まれたものであるか。その着飾った姿を見て、確かに可愛らしいと頷いたのは、果たしてどちらだったか。
 真白の衣装に身を包み、金の簪で髪を美しく結い上げた黒髪の少女の幻が、目の前から消える。
 いつの間にか施薬院の前まで来ていたのだった。扉を静かに開けると、澄んだ鈴の音が鳴り、来訪者を中へ知らせる。
「あ……いらっしゃいませ」
 凍治の言った通りに、今日の店番はちょうどよく鈴麗だったようだ。入ってきたのが誰かわかると、笑顔でにこやかに出迎えてくれる。髪をひとつにまとめ上げ、前掛けをつけてきびきびと動く彼女は、先ほどの幻に見えた姿とはまた違っていた。



 こうして時間とともに龍炎の記憶が積み重なっていって、最後に残るのは――『誰』だろうか。

 

2020.4.12


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