6
深呼吸、ひとつ。持っていた弓に矢を番えると、海苓は静かに弦を引き絞り遠くに立てられた的を見据えた。
狙いを定めて限界まで引かれた矢を放つと、ぴんと張っていた弦が空気を鳴らす。
弦がしなる音がして、遠くの的が澄んだ音を立てた。
矢が的の中央を射抜いているのを確かめて、海苓は息を吐く。
「いつものことだけれど、さすがね」
割り込んできた声と手を叩く音に海苓が振り返ると、そこには肩までの波打つ髪を揺らす女性が立っていた。拍手をしていた手を止めると、ゆっくりと海苓に歩み寄ってくる。
「清蘭、久しぶりだな」
「ええ、治療に時間がかかっていたから」
若干目元がきつい、というのが彼女に向けられる評判だが、笑顔でいることが多いから、その美しさに対する賞賛も少なくないらしい。今も海苓が声をかけるとふわりと髪を揺らして笑った。
清蘭は海苓の数少ない異性の知己である。『証明者』と呼ばれ祭り上げられた海苓に近づく女性は多く、辟易させられたことも度々あるが、彼女との付き合いは長く続いていた。
「さすがに三日も寝込むとは思わなかったけれどね」
法術士の仕事は、人々の病や怪我を癒すことだ。大抵はひどくならないうちに見つけ出され軽いうちに法術を施されるのだが、ごく稀に病気が重くなってから運び込まれることもある。そうなると強い力を持つ優秀な法術士の出番となるのだ。
治療の程度によっては倒れてそのまま神殿へと運び込まれこんこんと休息をとる羽目にもなるらしい。軍部棟と神殿を繋ぐ道が慌しいときは法術士が気絶したときと相場が決まっている。
なんでもないように言う清蘭に、海苓は眉をひそめた。
「大丈夫なのか?」
「もちろん。そんなにやわではないつもりなのよ、これでも」
そう答える清蘭はとても嬉しそうだ。にこにこと笑顔を向ける彼女にわずかに首を捻って、海苓は鍛錬に戻った。清蘭を置き去りにして弓に没頭しても、彼女はまったく文句を言うことがない。ひたすら楽しそうに海苓の動きを眺めているだけなのだ。
だが、今日の彼女は珍しく声をかけてきた。海苓が遙か先の的を見据え矢を番えたとき、清蘭は唐突に何かを思い出したかのように言葉を投げかけてくる。
「そういえば、例のあの子に会ったのよ」
狙ったところで矢を放つと、鋭い音と共に的に矢が命中した。先ほど打った矢に比べてさらに真ん中に近い。余韻が去るのを待って、海苓は構えを解いて弓を静かに下ろした。
集中していた意識に投げ込まれた言葉を思い出して、海苓は清蘭へと目を向ける。
「あの子?」
「ほら……華瑛殿のところの……鈴麗、でしょ? 母親と一緒に治療院の見学に来ていたのよ」
清蘭の話だと、彼女が寝込む原因となった病の治療をしていた日に、ちょうど華瑛親子が見学しに来ていたのだという。数多い目撃談から考えても、ずいぶんと行動的だとある意味感心する。特に、はっきり目立つ栗色の髪の光玉の方が娘よりも活動的らしい。同族の証たる黒髪の鈴麗より目立つのは仕方ないが、明らかに母親の目撃件数の方が多い。
にこやかに笑ったまま、清蘭はとてつもなく物騒なことを言い放った。
「あんまり無邪気そうだから、思わず睨み付けてしまったわ」
「……清蘭」
仮にも年下相手に大人気ない。自分のことは一瞬棚上げして海苓が諌めると、清蘭は心外とばかりに口を尖らせた。
「あら、だって、当然でしょう。誰のためにあなたが苦しんでいるというの」
そう語る清蘭の表情はひどく辛そうだった。まるで自分のことであるかのように、彼女は自分の悩みに共感してくれる。
確かに、原因と結果をごく簡単にまとめるとそういうことにならないわけでもない。
しかし。
思わず吐いた息は少しため息交じりだったかもしれない。傍にあった矢筒からもう一本矢を取り出すと、海苓は清蘭から視線を逸らしてもう一度的を見つめた。
「これは俺自身の問題だろう。彼女にぶつけるものじゃない」
海苓の中に長年悩み――苦悩として積み重なってきたもの。
そのすべての始まりは、ひどく乱暴な表現をすれば清蘭の言葉通り鈴麗に繋がっていると言っても過言ではない。しかし、実際のところ彼女はきっかけにしかすぎず、すべては海苓側に原因があるだけだ。彼女に責を負わせたところで何か解決するわけでもないのだ。
返ってくるのは沈黙。反応がないことを妙に思い海苓が弓を構える手を止めて清蘭を見ると、彼女はひどく驚愕した様子で固まっていた。目を見開いたままこちらを凝視している。
「どうしたんだ?」
海苓が呼びかけると、呪縛から解かれたように彼女は目を瞬かせた。
「え……いいえ、なんでもないわ。少し驚いただけ。――そうね、私も大人気なかったわ」
後で謝っておかなくちゃ、と清蘭はばつが悪そうに呟く。妙な雰囲気になった場の空気を払うように、清蘭は笑った。
「練習の邪魔をしてしまったみたいね。ここで私が倒れて海苓に怒られるのは癪だから、帰ることにするわ」
返事を待たずに背を向けて出口へ向かう清蘭を、海苓は呆気にとられて見送る。いつもと違い海苓が鍛錬を終えるのを待つ様子がないのも珍しいことだ。
はっと我に返り、海苓は乱れた集中を戻して弓の稽古へ戻ろうとした。
「ねえ、海苓」
ふと割り込んだ声に、再度海苓は清蘭を見る。彼女は修練場の扉のところに立ったままだ。こちらに背を向けたまま振り返る様子はない。
「あのとき、言ったわよね。何があっても、運命を変えるって」
――その言葉、間違いはないわよね。
確かめるような、縋るような彼女の言葉が何を指しているか海苓には分かった。
彼女と自分が共有している誓い。この呪縛から逃れるために何が何でもやり遂げると、決めた。それを彼女は全力で支援すると言ったのだ。
「――ああ」
自分の中で再確認するように海苓が頷くと、安堵したような様子で清蘭は修練場を出て行った。
「海苓、済まないけれど明後日の休日に身体を貸してもらえないか?」
珍しく軍部棟の庭園で凍冶とすれ違ったと思ったら、最初にかけられた言葉はそれ。顔を合わせた途端にそれはどうかと海苓は思わず眉をしかめた。もっとも、それを指摘したところで直されるわけでもないだろうが。
「一体なんだ、唐突に」
「いや、ちょっと少人数で遠出をするのだけれどね、できれば護衛が欲しいんだよ」
二人が立っているのは中庭の石畳。手入れされた木々の合間に潜む鳥の鳴き声を聞きながら、海苓は首を捻った。
「護衛が要るようなところまで行くのか?」
神族の領地――神殿を中心とする人々が住まう街、畑や森など生活を営むために必要な土地、そして他部族からの侵攻を防ぐための周縁の土地……それらを神族は自分の領土であると宣言している。
それでも、鳳族や煉(れん)族といった他種族の領土とは広大な草原や森、山岳を挟んで隔てられているのだ。神族の領地と接する国はない。必然として戦の舞台はそのどの部族のものでもない土地、ということになる。
つまり神族領と呼ばれるところであれば、加護が行き届き治安におおむね問題はない。外れあたりになれば確かに加護が弱まり心配はあるかもしれないが、実際の危険はせいぜい獣程度で、それもこちらから害を与えない限りはどうということはない。
「生薬の採取なのだけれど、どうやら領地から外に出た方が良いものが取れそうなのでね」
「ああ、なるほど……」
凍冶の説明に海苓は一瞬遠い目になった。全力で否定する気もないのだが、どうやら術改革派側に引き込まれかけているのではないだろうか。
「もちろん、きちんと相応の謝礼は出るよ」
「いや、別にそういう心配をしているわけじゃないが」
こちらの思考を見透かしたような友人の笑顔に、思わず海苓は即答していた。休日を潰すのだからありがたい話ではあるが。特に重要な用事もないことだし、まあいいだろうと海苓は引き受けることにする。
出発日時など必要な用件を聞いて、海苓は凍冶と別れた。
「……」
当日に見た光景に、海苓はひっそりとため息をつく。
予想していなかったわけではない。生薬の採取、という話を聞いて八割がた確信していた。しかし、こうまであからさまだと呆れてしまう。
遠出の人数は護衛を除いて十名。その大部分は今では医学推進派と呼ばれる人々だ。そしてうち三名はかの有名な華瑛一家である。生薬というのは医術に使うものであるわけで、その知識を有する者が同行するのは当然なのだ。
海苓を護衛だと紹介した凍冶の笑顔がとにかく憎たらしい。その狙いが手に取るように分かるだけに、怒りというよりは脱力してしまう。
――お前らのほうがよっぽど意識しすぎだ。
そんな雑言は心の中にしまったままで、海苓は目の前の人々に挨拶をする。よろしくと笑顔で応じる人々に混じって、鈴麗も丁寧に頭を下げてきた。
自分より明らかに年上であろう人々の中で振舞う彼女の様子が微笑ましく、海苓は思わず口元に笑みを浮かべる。こうしてみれば彼女が十代だということがはっきりと分かるのだ。
結局のところ、凍冶も清蘭も海苓以上に鈴麗を意識している。好意に向いているか敵意に向いているかの違いであって、むしろ二人の行動を見て当の本人が現在置かれている状況を再確認する羽目になっている。
普通に接するには別段何の問題もない。むしろそうやって気を遣われる方がわずらわしい。
準備が整ったのを確認して、総勢十数名となった一団は、目的の丘陵地へと向かう。
実際、海苓の仕事はたいしたことではなかった。命の危険があるわけでもないし、獣が襲ってくるという心配もない。
周囲を見張りながら、誰もはぐれることのないようにするのが用件である。
手分けをして鉱石や植物を採取するなら広範囲に渡るが、今回は光玉と鈴麗を講師として教えを受けながらのために行動はほとんどひとかたまりだ。海苓も他の雇われ護衛と談笑するくらいの余裕があった。
採取の様子を見ているのもけっこう面白い。今の時期だと樹皮や枝を採取するのにいいだとか、二、三日干さなければならないとか、二人の女性が説明するのをさらに年齢が上の人々が神妙に聞き入り、たまに書き留めているのもどこか可笑しい。
何より、あれこれと出てくるたくさんの植物がすべて人の身体に何らかの影響を及ぼせるのだと初めて知った。場合によっては毒にもなるのだという。術を使えない人々が傷や病を癒す実際を目の当たりにして、海苓は素直に驚嘆した。
海苓が今まで効果を知っていた植物や鉱物というのはせいぜい十種類程度で、しかもそれは精神を高め術を強くするためのものでしかない。他種族は術を使えない代わりにこうして大地の力を利用するのだ。もしこの中に術と同程度の効果をもたらすものがあるとすれば――利用すべきだと思うのは当然かもしれない。
一通りの講義が終わったらしく、昼食を挟んで今度は先ほどよりいくらか分散し実際に採取を行ってみることになったようだ。それぞれが危うい手つきで地面や木々から生薬の材料をとり始める。
今度はさすがに目を配らなければならないだろう。海苓は少し気を入れ直し、若干小高いところへ移動することにした。こうすれば見落としもないはずだ。
「――?」
しばらくして、海苓は妙なことに気付く。誰か、足りない気がするのだ。
動き回る、あるいはその場で作業に熱中する人々を数えていく。……七、八、九。
何度数えても一人足りない。そして、目立って若かった一人が居ないのだ。
「あら、……鈴麗はどうしたのかしら?」
ふと顔を上げた光玉が心配そうに辺りを見回すのが見えた。
2008.6.7