竜の王国シリーズ

竜珠の在り処




 ――まるで湯に体を沈めているような、ゆらゆらとした感覚。
 とても心地よいそれに身を委ねて、里珠はまどろんでいた。今までずっと積み重なっていた疲れや不安といったものがすっかり洗い流されたかのように体が軽い。
 時々、髪や頬に何かが触れる感触がして、でもそれがひどく温かくて気持ちよかった。ぬくもりが離れていくのがなんとなく寂しくて、でもそれを訴えたりすることもなくまた眠りに沈んでいく。
 それを何度か繰り返して、ふっと身体が浮上するような気分がして。
 里珠はようやく目を開けた。

 はっきりしない視界の向こうに、誰かの顔がある。誰だろう、と里珠はぼんやりとした意識のまま目を凝らした。優しく笑っているのは、男の人。見れば見るほど里珠が会いたいと願った人に似ているのだが、でも、ここにいるはずがないのだ。
「あぁ、目が覚めたな」
 それなのに、ずっと聞きたいと思っていた低い声が響く。それが誰のものか分かって、里珠はその瞬間覚醒した。
 いるはずがない。だってここはどこ。
「……!?」
 被せられていたらしい毛布をとっさにひっつかんで、里珠は勢いよく跳ね起きた。
 目に飛び込んでくるのは、自分が寝ていたらしい寝台と、何の飾り気もないいたって簡素な作りの室内と、驚いて目を丸くしているラエルとミーナと、そして自分のすぐ隣に腰かけていた――獅苑。
 里珠が顔を向けると、獅苑は彼女の様子を見て苦笑した。こちらを見る瞳はとても柔らかい光を含んでいる。
「そんなに勢いよく起きると、貧血を起こすぞ」
 窘める言葉も、ひどく優しい。
 里珠は思わず毛布を握りしめた。ただ会いたい一心で頑張った――この声が聞きたくて、ただそれだけのために。
 じわりと瞼が熱くなる。手が徐々に震えだして落ち着かない。なんとか獅苑に笑いかけたいと思ったのに、目を見るのがやっとだ。口元がひきつって、声も出ない。
「し……しおん、さま……っ」
 唇が震えて、そう絞り出すのがやっとだった。これ以上何か言おうとしたら、そのまま涙が溢れそうだ。
 一瞬目を見張った獅苑は、里珠から視線を逸らしてラエルとミーナを振り向く。
「ラエル、ミーナ。悪いが少しだけ外に出ていてもらえないか」
 何故二人の名前を知っているのだろう。しかも、今の台詞は里珠と二人がやり取りをするために使っていた言葉で発されたのだ。ラエルとミーナはこっくり頷いてその向こうにあった扉へ向かっていった。何も言わずに扉の向こうへ消えていく二人を見送るうち、その輪郭がゆっくりとぼやけていく。

「俺のほかには誰もいない。安心して泣いていい、里珠」
「……っ」
 その獅苑の言葉に枷が外れた。あっという間に涙がこぼれ落ちていく。何か言おうにも、声は震えるだけで言葉にならない。
 本当は、たった一人放り出されて不安だったのだ。
 獅苑に出会う前は、一人で魔物と対峙することでさえ多少の不安はあっても何とかしてきた。助けなどないとわかっていたから一人で戦えたのだろう。誰かと一緒にいる安心感と幸せを知ってしまったから、もう手放せないのだと思う。
 どこかわからない場所に一人でいることがあんなに怖いとは、思わなかった。
 ラエルとミーナがいたからこそ里珠はあれだけ頑張れたのだ。二人がいなくて本当に独りだったら、どこかで精神の均衡が崩れてしまっていただろう。獅苑に会うために頑張るという決意さえ、不安と絶望に押しつぶされてしまったに違いない。
 軽く引き寄せられる感覚があって、里珠は獅苑に抱き寄せられていた。心地よいぬくもりに包まれても、すすり泣くのは止められない。
「よく無事で――傍に行けなくてすまなかった」
 響いてきた声に里珠はようやく首を振る。獅苑の立場を責める気は、ない。ミーナにあのとき言った言葉は嘘ではなかった。そう言いたかったのだけれど、やっぱり里珠の喉から漏れるのは嗚咽が精一杯で。
 里珠が落ち着くまで、獅苑はそれ以上何も言わずに彼女を抱きしめたままなだめ続けていてくれた。


「……どこまで、歩いても」
「うん?」
 ようやく落ち着いてきた呼吸をなんとか整えて、里珠は呟いた。頭のすぐ上から、問いかけるような声が降ってくる。
「どこまで歩いても、森を出られなくって、……このまま獅苑様に、会えなくなるのかって、思ったりもしたんです」
 抱きしめてくれるその温かさをもっと感じたくて、里珠は獅苑の胸にすり寄った。その動きを感じ取ったのだろう、獅苑の腕の力がぐっと強くなる。一緒にいるときも触れ合うことは数えるほどしかないから、何となく嬉しかった。

「――そうか。……俺も同じだったな」
 紡がれたその言葉に里珠は目を見張り、思わず獅苑を見上げてしまう。目が合うと、獅苑は困ったように笑ってみせた。
「もう二度と会えないのかと思ったのは、俺も同じだ。里珠がどこにいるのか、無事なのか、俺には全くわからないからな……」
 里珠を抱きしめる獅苑の腕が緩む。つい先ほどまで背中に回っていた手が、里珠の頬に触れた。確かめるように、獅苑は里珠の顔を覗き込んでくる。
「本当に、無事でよかった」
 その強い光を持つ瞳には、今は安堵したような色が宿っていた。ああ、心配されていたんだなと、里珠もなんとなく安心する。
「里珠」
 自分の名前が、この大好きな声で紡がれることが、とても幸せだ。
 ぐっと獅苑が体を寄せてきて、里珠は思わず目を瞠った。額が引き寄せられて、その中央にやわらかな熱が触れる。獅苑に口づけられている――その事実に驚ききれずにいるうちに、その熱が下に移動してきて、里珠は思わず目を閉じた。
 獅苑は両方の瞼にそっと口づけると、ゆっくりと体を離した。拘束されていた里珠も解放される。残るのは、確かに触れられたのだとわかる、熱の名残。
「し、獅苑様っ」
 里珠はわたわたと額を隠そうとした。ああ、その間に頬を隠すべきかもしれない。頬が熱い、これは絶対真っ赤になっているに違いない。
 恥ずかしさに慌てる里珠を見て、獅苑はいたずらめいた笑みを浮かべた。
「年寄り連中はうるさいが、このくらいなら別にかまわないだろう?」
 長の一族の男と竜珠の姫の絆。二人が強く結ばれるほど竜珠の力は強くなるのだという。里珠が魔物退治に同行するという問題から、獅苑と里珠の距離感は周囲によってかなり厳密に管理されているのだ。獅苑が年寄り連中、と言うのは、その人たちのことだろう。

 楽しそうな笑いを残したまま、獅苑は椅子から立ち上がる。
「獅苑様?」
 どうしたのだろうと里珠が首をひねると、獅苑は横の卓に置かれていた剣を手に取った。
「里珠が目覚めたのなら、まず一度仕事に戻ろう。ここにいてばかりでは連れ戻されてしまうからな」
「……連れ戻される」
 獅苑の言葉を反芻しながら、里珠は重大なことに気がつく。
 ――ここは、どこだっただろう。見覚えのある部屋ではない。獅苑がいるなら考えられるのは竜の王国の城内なのだが、こんな場所はなかった。悠那に教えられてあちこち歩き回ったのだから、これは確かだ。
「あの、獅苑様。ここは……どこですか?」
「フェンメルトールだが?」
「へ?」
 その名前は、里珠が目指そうとしていた隣国の首都だ。なんでもないことのように獅苑が言い放ったものだから、里珠は思わず間抜けな声をあげてしまった。
「一体どこだと思っていたんだ?」
「え、でも、獅苑様は……だって」
 この人は国を護る人だ。守護神の名で呼ばれる人。それなのに、隣国に来ているというのは――。
「この国にも魔物が多く現れるようになったのは里珠も見ただろう。その討伐のために協力している……表向きにはな。兄上が動いてくれたんだ、里珠を探すために」
 確かに魔物は多かった。竜族は魔物に対して最も力を発揮する種族だ。だからこそ今回も里珠は救われたのだった。
「確かに俺じゃなくてもいい案件だ。だが、少しでも早く里珠に会いたいと思ったからなんだが、……おかしいか?」
 問われて、里珠は思い切り首を振っていた。だって、そんなことができる立場だとは思わなかったのだ。
(どうしよう……、か、顔が真っ赤だよきっと)
 会いたかったと言ってくれた。そしてそれが許される立場ではないだろうにそうしてくれた。それだけで嬉しくてたまらない。


「俺は少し出てくるから、里珠はもう少し休んでいるといい」
 そう言って獅苑は部屋を出て行った。少ししてから、入れ替わるようにラエルとミーナが入ってくる。ミーナはにこにこして里珠の休んでいる寝台に寄ってきた。
「里珠、よかったね。里珠のこと迎えに来てくれたんだよ。国から離れちゃいけない人なのに、すごいね」
「三日間ずっと眠ってたんだよ。獅苑様、魔物退治の合間に何回も里珠のところに来てたんだ」
 獅苑とこの二人は、どうやら里珠が眠りこけていた三日間のうちに知り合いになったものらしい。ごくふつうに名前をやり取りしているのが、なんとも不思議な気分だ。
 里珠はラエルの言葉を繰り返してみる。
 ――魔物退治の間に何度もここに来ていた。
 目覚めたときと同じようにすぐ傍にいてくれたのだろうか。そう思うと胸の奥にあたたかいものが灯るような気がする。
「獅苑様、そんなに魔物退治に出ていたの?」
 里珠の問いかけに、ラエルは頷いた。
「うん、昨日の朝にここに来てね、それからずっとここと外を行ったり来たりしてる」
「休みなしで?」
「里珠の顔が見られるからこのくらい平気だ、って言ってたよ」
 その言葉に里珠は絶句する。
 ラエルはさらりと流したが、またとても恥ずかしいことを言ってくれるものだ。しかも本人からじゃなくて人を介して伝わってきた獅苑の気持ちだから、これがまた気恥ずかしい。一度落ち着いたと思ったのに、また里珠の顔は熱を帯びてきた。図らずも言伝役になったラエルが、どうやらまったく意図するものがないことが余計に熱を煽る。
「そ、そう……」
 里珠は思わず両手で頬を覆った。不思議そうにしているラエルとミーナに、里珠は苦笑するしかない。

「僕たち、獅苑様に頼んでみたんだ」
 唐突にラエルの声が聞こえて、里珠は顔を上げた。とても真剣な顔をしてこちらを見ている。
「里珠と一緒に竜の国に行っちゃ駄目ですかって。行くところがどこにもないからって」
「……なんて言われたの?」
 そう簡単に応じれることでもないことは、里珠にも分かる。この二人は間違いなくセランからの亡命者で、少なくとも対応するべきはこの国だ。いろいろな問題も絡んでくるし、その辺は里珠の想像しうる範疇ではない。
 ラエルは嬉しそうに笑った。
「すぐに良いとは答えられないって。偉い人たちが絡む難しいこともあるから、あとでみんなで考えようって、言ってくれたの」
「そっか」
「里珠は、僕たちが一緒にいられたら嬉しい?」
「わたしは嬉しいわ。悠那様――わたしより少し年上の女の人もいるのだけど、その人もきっと喜んでくれると思うの」
 叶うかどうかはわからないけれど、もしこの二人が城に住むことになったら悠那は歓迎してくれるような気がするのだ――同時にあらゆる城の抜け道を伝授しそうな気もするのだけれど。




 陽が暮れてから、獅苑が戻ってきた。寝台の上で休んでいるのに飽きた里珠が一人起きているのを見て、獅苑はわずかに呆れたような顔をする。里珠はちょうど槍の手入れをしているところだったのだ。
「もう動いて大丈夫なのか?」
「はい。気分もとってもいいんです」
 獅苑に会いたいという望みが叶ったせいでもあるし、三日間眠っていたせいでもあるのだろう。ここ半月が嘘のようにすっきりしている。
「それならいいが……」
「魔物退治はいつまでするんですか?」
「魔物の出現が一段落するまで、ということになっているが、もう少しかかりそうだな」
 王国の方がなんでもなければいいんだが、と獅苑は小さく呟いた。里珠を救ってくれた竜族の兵は三人。そして『龍神』がここにいるのであれば、竜の王国内はずいぶんと手薄になっているだろう。
 里珠の表情の変化に気づいたらしい。獅苑は若干瞳の光を鋭くするとくぎを刺すかのようにぴしゃりと言った。
「里珠は今回は休んでいていい」
「え、でも……」
 一瞬反論しかけると、獅苑は呆れたように息を吐く。そのまま里珠の腰かけている椅子のところまで近づいてきた。
「やっぱり出るつもりだったな?」
「でも、あの、大丈夫ですよ、体の方は」
 それに、どうせなら獅苑の傍にいられる方がいいではないか。一日ほとんど出払っている獅苑を待って暇をもてあそんでいるよりは、その方がいいと思うのだ。魔物をおびき寄せるなら里珠がいた方がいいはず。早く片づいた方が早く王国へ帰れるのだ。
「獅苑様がいるなら、何も――」
 心配なんてない。里珠はそう続けようとして、だが続けることができなかった。

 突然引き寄せられて、何を問うこともできないまま、獅苑の腕に抱きしめられる。後頭部と背中に触れる温かさを感じながら、里珠は首をひねった。
「獅苑様?」
「頼む、今はここにいてくれ――俺の覚悟ができていない」
 獅苑の顔は見えない。だから彼がどんな表情をしてそう言ったのかは里珠にはわからない。ただその言葉を紡ぐ声は、ひどく辛いことに耐えているような響きだった。
 覚悟。何の覚悟だろう。
「里珠を戦いの場に連れて行くことは、危険にさらすことだ。ずっとわかっているつもりだった……だが、今回のことで思い知らされた。危険にさらされるということは、失われる可能性もあるということだ」
 重ねられていく言葉とともに、里珠を包む込む腕の力が増していく。それが獅苑の言葉の端に見える焦りと不安を表しているような気さえする。里珠は一瞬だけ戸惑い、そっと自分の手を獅苑の背に回した。
「傍にいるなら、何としてでも護る……それでも、今回のようなことがないという保障はない。だから、もう少しだけ待ってくれ――俺に心の余裕ができるまでは」
 連れて行けない、と獅苑は言った。
 大丈夫だと、言い切ってしまうことは里珠にはできない。里珠が行方不明になったのは、獅苑と里珠とがそれぞれうまく立ち回れなかったせいとも言えるからだ。
 もともと獅苑自身が、里珠を囮に魔物をおびき寄せる作戦そのものに消極的だったということもあるのだろう。里珠が傷を負う度に落ち込んでいた獅苑だから、きっと今、心に深い傷を負ったままでいる。
 さっきのように言うのは、獅苑が里珠を想い、その身を案じてくれるからだ。
 里珠はただ頷くことしかできなかった。




「里珠、飛竜が戻ってきたよ!」
「本当?」
 ラエルの呼びかけに応じて、里珠は部屋を飛び出した。目覚めてから二日経っている。すっかり元気にはなったものの、獅苑の懇願に応じて里珠はずっと留守番だ。
 飛竜が翼を休めるための広場に出ると、ラエルが言った通りちょうど飛竜が風を巻き起こしながら降りてくるところだった。降下してくる三頭に向かって、里珠は大きく手を振った。
「おかえりなさい!」
 三頭の飛竜のうち、一番大きな体躯を持つのが獅苑の飛竜だ。里珠が両隣にラエルとミーナを引き連れて出迎えているのを見つけて、獅苑は笑ったようだった。
 獅苑とともに戻ってきた二人の竜族にも、里珠は労いの言葉をかける。そのあとに仕事を終えて翼を落ち着かせた飛竜たちのところにも行って、声をかけて撫でる。それだけで安堵したような様子を見せてくれるのだ。
 獅苑ほどではなくても、竜族や飛竜にとっても竜珠の威力は絶大なのだとわかる。こんな様子を見ると、自分の無事がとても重要なことだったのだと痛いほどわかるのだ。
 振り返ると、獅苑がラエルとミーナのところへ歩み寄っている。
「里珠は今日はおとなしくしていたのか?」
「ううん、ずっと庭とか館の中とか歩き回ってたよ。ね、お兄ちゃん」
「そのうち街とかにでていきそうだった」
 暴露された一日の行動に里珠は焦ったが、獅苑は苦笑しただけだった。里珠が慌てて寄って行くと、可笑しそうに笑う。
「そのくらいなら、まあいいさ。ラエルとミーナがいるとちょうどいいな」
 実際、一人だったら我慢しきれず外の通りくらいは出てしまったのかもしれない。王城にいるときはそんな風に約束事を破ったりはしなかったのだが、ここにいるとどうやら気が抜けているらしい。むしろ出歩きたい年頃のラエルとミーナに止められたくらいなのだから、よほどふらふら落ち着かなかったのだろう。
 里珠は何も言えず黙っているしかない。
「これからも二人にお目付をしてもらおう。ラエルとミーナなら、里珠も言うことを聞くだろうからな」
 次に続いた言葉に里珠は思わず顔を上げる。向こう側で兄妹も驚いた顔をしていた。
「獅苑様、それって……」
「二人を王城にあげるように手配を取り付けた。余計な書類が増えたが、それは里珠に手伝ってもらおう」
「……はい! お手伝いします!」
 里珠が目を輝かせて返事をすると、獅苑の表情も柔らかくなる。あまりに嬉しくて、里珠はラエルとミーナに振り向いた。
「よかったね、二人とも竜の王国に行けるよ」
 そのときの兄妹の輝くような笑顔を、里珠はずっと忘れないだろう。それほどまでにきらきらした笑顔だった。




 約一か月の不在ののち、里珠はようやく竜の王国へ帰ってくることができた。飛竜に乗り、獅苑の背につかまりながら見下ろす王城を見て、里珠は懐かしいなと感慨深くなる。
 ラエルとミーナはそれぞれ竜族の青年に分担して連れられ、飛竜の背で歓声を上げていた。
「広いお城!」
「すごい、これが竜の王国なんだね」
 様々な手続きのもと、正式に王城の住人として受け入れられた兄妹に対し、青年たちの態度も優しい。二人があれやこれやと質問するのにも笑顔で応じている。
 魔物退治から戻ってきた時に必ず降りる広場に、獅苑を筆頭にして三頭の飛竜がゆっくりと舞い降りて行った。出迎えの人々が何人もいて、その中には竜王夫妻の姿もある。
「里珠様、おかえりなさいませ!」
 獅苑に手を取られて飛竜を下りると、護衛の兵士や控えていた女官たちから声が上がった。もうここが自分の居場所なのだなと里珠はしみじみと思った。
 それぞれ飛竜から降ろされたラエルとミーナは初めて見る光景に少し気圧されたようだ。慌てて里珠と獅苑のもとへ駆け寄ってくる。ミーナが恐る恐るといった様子で里珠の服の裾をつかんだ。
 里珠は兄妹に笑いかける。
「ラエル、ミーナ。ここがわたしの言っていた国よ。ようこそ、竜の王国へ」
 国のために奔走する王族たち。魔物はいるけれども人同士の争いのない国。護られた、自然豊かな国。 飛竜の背から見たものと、ここだけでは分からないかもしれないけれど。

 里珠が顔をあげると、向こうからゆっくりと国王・天眞と国王妃・悠那が歩み寄ってくるところだった。
「里珠殿、無事で何よりだった」
 国王陛下からの優しい言葉に、里珠は恐縮する。
「ご心配と、ご迷惑をおかけしました。無事に戻りました」
「いや、当然のことをしたまでだ。獅苑があれだけ取り乱すのもめったにないことだからな」
「……兄上」
 諌めるように獅苑の声が響く。茶化したことを咎めるよりもこれ以上喋られてはたまらないというような雰囲気に、里珠はこっそり笑った。どれだけ彼が心配してくれたのかは、もうわかっている。
 その隣で、悠那がにこやかに笑っていた。
「おかえりなさい、里珠。何事もなくてよかったわ」
「はい、みんなに助けてもらいました」
「ところで……こうしてみるともうすっかり若夫婦みたいね」
「はい?」
 唐突な悠那の発言に、里珠は首をかしげる。
「私の方がまだ生まれてないうちに、いつの間に子持ちになったの? ……にしてはちょっと大きすぎるかしら、ね」
 悠那の言葉を反芻して、思わずしがみついているミーナを見下ろし、獅苑の向こうにいるラエルを見て、里珠は叫んでいた。
「ゆ、悠那様!?」
 図らずも隣にいた獅苑と見事に唱和してしまい、里珠ははっと獅苑を見上げてしまう。確かにすっかりなつかれているこの状況ではあるが――。なんだか混乱しているうちにくすくすと笑い声が聞こえてきた。
「ごめんなさい、冗談よ。こうして笑い話にできるのだから、本当によかったわ」
「悠那様……」
 そうだ、こういう人だったのだ。里珠は我に返って恥ずかしくなった。獅苑との馴れ初めとか、ちょっとしたやり取りとか、すぐにからかわれてしまうのだ。ラエルとミーナは竜の王国の言葉がわからないから、何を言っているのか分からないのだろう、きょとんとしている。

 いたずらめいた笑いを消して、悠那は里珠のすぐ傍まで近づいてきた。身をかがめると、ミーナと視線の高さを合わせるようにして、笑いかける。
『はじめまして。王妃の悠那です。あなたたちのことは聞いているわ。遠いところからようこそ』
 獅苑がしゃべっているのよりも滑らかで美しい発音だった。隣国の言葉。これなら二人にも理解することができる。悠那はラエルとミーナを交互に見るようにして、そのまま話を続けた。
『とても辛い旅だったでしょう。でももう大丈夫よ。あなたたちが嫌でなければ、今日からここがあなたたちの居場所になる。――よければ、あなたたちのお父様とお母様の話を、いつか私に聞かせてね』
 悠那の浮かべる笑みに、里珠はふと思い至る。連れて行かれた、泉のほとり。そこに置かれて祀られた墓標。この人は、大切な身内を為す術なく失うことを誰よりも知っている人だった――。
「……」
 悠那の表情に感化されたのだろう、ミーナの目元にじわりと涙がにじんだ。
『あらら。……でもね、泣きたいときは泣いてもいいのよ』
 ぐすぐすと泣き始めたミーナをなだめて、悠那は笑う。獅苑の隣で目元をこすっているラエルにも一声かけてから、悠那は天眞とともに戻っていった。
「あとでお茶会をしましょうね。里珠の武勇伝をまた聞かせてもらうわ」




 まだ慣れない様子のラエルとミーナが女官たちに案内されるのを里珠は見送る。一通り城を案内されて、部屋を与えられるのだ。
「まったく、悠那様は相変わらずだな……」
 隣で同じように兄妹を見送りながら獅苑が呟いた。そう言いながらも苦笑している。彼女が言った内容を思い返すと、里珠は妙に気恥しくなってきた。婚姻だってまだだというのに。
「あ、そう言えば、獅苑様。……あの、もう一月経ちますよ……ね?」
「……ああ、それだがな。延期された。状況が状況だし、全く準備が進んでいないだろう? 里珠がいなくなったと同時に魔物討伐も増えたからな、状況が安定してからということにしたんだ」
 今度は予定がずれないといいんだが。ぼやくように言った獅苑に里珠はくすりと笑う。
 場合によっては婚姻そのものが危うくなっていたのだから、悠那の弁ではないがまったくもって笑い話で済んでよかった。
「さて、書類仕事もたまっているだろうし、俺も戻ろう」
「あ、それじゃあ、わたし、獅苑様にお茶を持って行ってもいいですか」
 歩きだそうとする獅苑に声をかけると、ふっと瞳を和らげて笑う。
「久しぶりだな。里珠の入れるお茶は。それなら、頼めるか?」
「はいっ!」
 里珠は元気よく頷いた。お茶を入れて持っていくと獅苑や霞炎が出迎えてくれて休憩になる。その間は里珠も部屋の中にいてお茶のお代わりを作ったり話を聞かせてもらったりして、獅苑の傍にいられるのだ。必ず最後には二人ともお茶の味をほめてくれる。
 いつごろ持っていくのがいいかな、と考えながら里珠は空を見上げた。いい天気。空はどこまでも一様に青く、所々雲で白く切り抜かれている。やっぱり王城から見る空が一番きれいだ。

 今まで通りのことができることが、こんなに幸せなのだと、改めて思った。


2008.12.19

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