聖剣3

それぞれのバレンタイン




 それは、長くて辛くてでも楽しかった旅路の思い出のひとかけら。


「そういえば、アンジェラのところもバレンタインに贈り物をすることもあるって言ってたよな」
 チョコレートケーキをバレンタインに贈ると話がまとまった夜のこと。ホークアイは思い出したようにアンジェラに尋ねてきた。
「? そうだけど?」
「フォルセナはチョコレートだろ、ローラントは花やお菓子だし。アルテナだと何を贈るんだ?」
 それぞれの国のバレンタインの過ごし方が話題になったとき、あまりの違いに驚いたものだ。そういえば、詳しくは話さなかったっけ、とアンジェラは昼間の出来事を思い返していた。
「んー、フォルセナみたいにこれっていう定番はないのよね。カードだけ贈りあって何もくっつけないっていう人たちもいるし」
 そこまで言ったところで、アンジェラはふと思いつく。そうだ、あれは定番といえるかもしれない。
「でも、よく言われるのは花の種、かも。花が咲いて、種ができて、また次の年にその種を蒔いて―――ってずっと続いていくでしょ? そんな風に二人の想いも続いていくように誓いをこめるってよく言うわ」
「へぇ、なかなか雰囲気があることで」
 アンジェラの説明にホークアイは楽しげに頷いた。
「なんか失礼な言い草じゃない、それ?」
「いやいや、そんなことはないよ。俺ンとこでもできたらいいと思っただけで」
「別にどこだって―――」
 ホークアイの返事にそう言いかけてアンジェラは固まる。
 忘れかけていた。彼の故郷は砂漠。オアシスなど限られた場所を除いては砂に埋もれる不毛の大地。アルテナも極寒の地とはいえ理の女王の力で暖かく過ごすことができる。それを思えば、そう簡単にはいかない。
 種を植えても芽吹くとは限らない。それでは途切れることのない愛の誓いにはできない。
「そんな顔するなって、お嬢さん。いつかそれができたらいいと俺は思ってるよ」
 言葉に詰まり黙り込んでしまったアンジェラにホークアイはあっさり笑って言った。
「うん……そうね。いつか、できたらいいわね」
 そのときは、そこで話が終わった。ほんの些細なやり取りが、後々大きく影響するとは、二人とも思っていなかった。





  戦いがすべて終わった、その後で。





 国家間の状況や現在のアルテナの情勢の勉強と、寒さを克服するための研究との時間の合間。部屋をこっそり抜け出したアンジェラは小走りに城の中庭に出た。
 夏に向けて強くなってきた陽射しが、深くなる木々の緑をを明るく照らし出す。
 庭のあちらこちらで花開き、一日ごとに辺りは色鮮やかに染められていく。
 アンジェラはその中を一直線に駆け抜けた。
 庭の片隅に寄り添うように生える二株の花。昨日はつぼみから花びらの一部が見える程度だったが、今はふたつともすっかり花開いていた。
 薄紅色の花がいくつも風に揺れている。
 それを見て、アンジェラは微笑んだ。
「やっと咲いたね」
 種を蒔いて毎日毎日見に来ていたものだ。雑草が少しでも見えれば敵のように抜いて、水をあげて、陽が当たるように周りの木々を少しいじって―――。
 急に寒さが戻ってきたときは萎れてしまわないかと焦ったりもした。
 今度は種ができるまで枯れたりしないように世話していかなければいけない。
 花なんてもっと簡単に咲いて種を作るもんだと思ってたんだけど。アンジェラは心の中でため息をついた。こんなに大変なことだなんて。
 それは、マナが失われて寒さが街の中にも忍び寄ってきているせいなのかもしれないけれど。
「本当はもっと鮮やかな赤の方が良かったんだけど……この庭だともう他にあるのよね」
 辺りを見渡しながら、アンジェラは残念そうに独りごちた。その脳裏に浮かぶのは、今でも大切に閉まってあるマントの緋色。『彼』に似合う色。できればここで唯一の色にしたかった。
 今まで意識したこともなかったのに、旅が終わって初めての冬。バレンタインを迎えて、アンジェラは旅の間にした話を思い出したのだった。
 恋人たちがバレンタインに花の種を交換する。花開き、種を残し、そして次の年また芽吹くごとく、想いも永久に続くように誓うもの。
(まあ、別に恋人同士ってわけでもないけどさ)
 それに、二人分アンジェラが用意しているのだから、厳密には反則かもしれないが。しかたない。相手はもういないから。
 花の巡りが途切れることなく繰り返されるように、またあの夏の奇跡が繰り返されるといい。
 アンジェラは去年の夏、図書室で見た光景を思い返した。
 音のない部屋の中で、遠い昔の記憶と同じ場所に座り、こちらに笑いかけた『彼』の姿。
 また逢えるとは思っていなくて、突然の出来事に嬉しくて大声で泣き出しそうになったのが、まだ記憶に新しい。
「また逢いに来てくれたらいいのになぁ」
 アンジェラは空に向かって呟いた。
 この声が届かないほど遠くに、彼はいるけれど。
 この花にこめた想いだけは伝わると嬉しいなあと、思った。






 どの月になっても緩まない陽射しの中で、洗濯物は乾きすぎるくらいに乾く。
 ニキータと手分けをしながら、ジェシカはようやくの思いでナバール全員分の洗濯物を取り込んだ。
 今にも雪崩落ちそうなほど中身が積み上げられた数個のかごの前で、ジェシカはほっと息を吐いた。洗濯物の量よりも、やっと日陰に入れて出たため息だった。
「ジェシカ」
 その背に声がかけられる。聞き慣れた声にジェシカが振り返ると、目の前に真っ白な花をいくつも束ねた大きな花束があった。一瞬言葉が出なかったが、そのすぐ向こうにある人影に、ジェシカは笑いかける。
「あ、もうセリンの花が咲いたのね。向こうの地区はけっこうはやく根付きそうだわ」
 ジェシカの返答に、人影はがっくりした様子だった。
「ジェシカさ~ん、せっかくのバレンタインなのにそれはないでしょう~。わざわざあんな遠くまで行ってきたのに」
 しくしくと泣き真似までしている。ジェシカは今日が何日だったか考えて、くすりと軽く笑った。
「はいはい。今年はどこ式のバレンタインなの、ホークアイ?」
 差し出された花束を受け取って、ジェシカは尋ねる。これがまた大きな花束で、ジェシカは両手で抱える羽目になった。
 天然のドライフラワーになってしまう前に手入れをしなくては。ポプリにするのもいいかもしれないし、押し花にして飾るのもいいかもしれない。
 一瞬のうちに脳裏にそんなことがよぎったジェシカの前で、ホークアイは楽しそうに笑っている。
「今年はローラント風でいってみました。あの国は男性から女性に贈るのが習慣なんだってさ」
「ふうん。国によって全然違うのね」
 ジェシカは去年の今頃を思い出した。
 フォルセナ式のバレンタインがやりたいとホークアイに散々言われて、苦労して作ったことのない手作りチョコレートを作ったっけ。何でこんなこととは思ったけれど、それでも出来上がったものを綺麗な包装紙で包んでホークアイに渡すときは、なんだかとてもわくわくしたのは覚えている。
 そして、一月後にお返しは倍返しと言われて両手いっぱいの色とりどりの花をもらったのだった。それはきちんと作られたドライフラワーになってジェシカの部屋に飾ってある。
 それから、一昨年は―――。
 ジェシカはふと近くの地面を眺めた。土を何箇所か掘り起こし、何かを埋めた跡がある。
「今年も芽吹くといいわね」
「そうだねぇ。出てこないと誓いが台無しだけど」
「わたし、すっかり忘れていたわ」
「ひどいです、ジェシカさん~。俺らの愛はそんなもんですか~」
「ニキータに言われて思い出したホークアイに言われたくありません」
「あ、あいつばらしたなっ」
 ジェシカにきっぱり言い切られ、ホークアイは急に焦りだした。その様子を見て、ジェシカはまた笑った。
 ここに花の種を蒔いたのは、今年が三回目。一回目が一昨年のバレンタイン前だ。
 アルテナ式バレンタイン。
 恋人同士で花の種を送りあって、それを春になったら蒔く。芽吹き、花が咲いて、種ができるまで見守って、次の年にまたその種を蒔く。果てなく繰り返されるその輪を自分たちの想いに見立てて、永久の愛を誓う―――。
 雪深い大地に根付くその伝統に、初めて聞いたときジェシカはひどく感動したものだった。
 ナバールのみんなで砂漠に緑を取り戻そうと頑張って、街の周囲にだけはいくらか昔より木々の姿が増えてきた頃。
 ホークアイは突然今まで聞いたこともない外国の風習を持ち出してきたのだ。はじめてのバレンタインはこのアルテナ式だった。
 ジェシカは二人で種を蒔いた場所を見つめる。
「ずっと、続けていけたらいいわね、バレンタイン」
 ホークアイを見上げると、彼もきっと彼女の言いたいことがわかったのだろう、穏やかな笑みを浮かべていた。
「砂漠のどこでもできるようになるといいよな」
 今は、砂地に木々を根付かせることそのものに苦労している時期だ。たとえオアシスの傍でも、草が生えている場所でも、少し気を緩めるとすぐに花々は枯れてしまう。
 もっと緑が増えて、どこにでも花の種を蒔いて育てられるようになったら―――。


「来年はまたフォルセナ式バレンタインがいいなあ」
 ホークアイが言った。その口元には悪戯めいた笑みが浮かんでいる。
「そんなこと言って。あちこちの女の子からチョコレートをもらってくるつもり?」
 ちょっときつい口調でそう言うと、ホークアイはとんでもないとばかりに両手を振った。
「まさか。去年のジェシカのチョコレートが美味しかったからさ、また食べたいなあって」
「本当に?」
 必死の様子で頷くホークアイをジェシカはじっと見つめる。どこまで本気でどこまで冗談かなかなか読めない人だ。でも、そんな風に言われて悪い気はしない。
「……お礼は倍返し、なのよね」
「もちろん!」
「じゃあ、頑張ろうかしら」
 来年のバレンタインなんて、まだ一年も先のことなのに。その頃にはまた種を蒔くのを忘れてるんじゃないかしら、二人とも。
 ジェシカはそんなことを考えた。
 ……フォルセナ式だったら、他の男の人に贈るのもありなのよね。
 それなら、来年はニキータにも贈ってみようかな。いつも色々助けてもらっているし。あ、それに兄さんにも! それから……。
 ホークアイ、焦るかしら。でもこの人のことだから大して気にしないかもしれないしね。
 よし、決定! 
 でも、こうして毎年毎年ホークアイと一緒にバレンタインを繰り返すのも、楽しいかもしれない。―――いつか、アルテナ式バレンタインが砂漠中の人に広まるくらい、緑が広がるといいね。

 そしてジェシカはひとつの未来を想像した。
 いつの日か、砂漠という呼び名を失くしたこの大陸のどこかで、一組の男女がバレンタインに贈りあった花の種を想いを込めて蒔く、その光景を。




 まるで粉砂糖を振りかけるように降る雪。はらはらと中庭に舞い落ちるそれを眺めながら、シャルロットはうんざりした様子で呟いた。
「ふう……これから数日、目が回るほど忙しいんでちよね……」
 ここは光の神殿の中でも奥まったところであるがゆえにさほどの影響はないのだが、司祭に言祝ぎを受けようと人々が訪れる表側は、神官たちにとっては既に戦場のような状態になっている―――らしい。らしいというのは彼女が慌しく通路を駆けていく女官からの又聞きのせいだが、考えただけで頭痛がする。
「ま、恋人たちの幸せのためでちからね。シャルも頑張らなくては」
 憂鬱な気分を奮い立てるように、シャルロットは気合を入れる。


 聖都ウェンデルは、数日後に聖者バレンタインの祝祭を控えていた。
 幾多の伝説があり正確なことは定かではないが、彼が遺した様々な功績を讃え、恋人同士の守護者として生誕を祝う―――女神の名の下に誓いを挙げ守護者の加護を得ると二人の絆はさらに深まるとされており、故にその前後数日は目の回るような忙しさとなるのだ。
 聖職者として最高位の称号を持つシャルロットだが、まだまだ修行中の身。普段は表に出ることはないのだが、この日ばかりは実技という名の下に借り出されてしまったりする。
 もちろん人々を祝福する気持ちは十二分にあるのだが、たまに出会う二人の世界にどっぷり浸かった男女を見るにつけ、なんとも言えない気分になることも否定できない。
 ふと、シャルロットは旅の間他の仲間から聞いたバレンタインについて思い出した。
 アルテナと、ローラントと、フォルセナと。想う相手に心をこめた贈り物を贈る―――なんだかフォルセナの場合はもう少し計算高いものが混じる風習だった気がしたが―――。自分の中で当たり前だと思っていたバレンタインとはずいぶん違っていて、驚いたものだ。
 バレンタインの風習そのものを知らなかったホークアイはひどく面白がって「やってみるのもいいな」と笑っていたっけ。風の噂では、いろいろな国のバレンタインを毎年とっかえひっかえ楽しんでいるのだとか。
 なんというか、他の国々の習慣に少し呆れ、でも発見があって楽しい思い出だ。
 ふっとため息をついたところで、シャルロットの背後から声が響く。


「ああ、こんなところにいたんだね、シャルロット」
 シャルロットが振り返ると、神官衣を身にまとい肩で切りそろえた髪を揺らす青年がこちらに歩いてくるところだった。目が合うと、青年は穏やかな笑みを浮かべる。
「ヒース」
「司祭様が呼んでいたよ。もうそろそろ準備を始めてほしいと」
「わかったでち」
 頷きで応じたが、シャルロットはそこから動かなかった。雪に彩られ色を失くした中庭を見つめる。濃淡だけがある世界は寂しげなのに、とても神聖な雰囲気があった。


「今年もたくさん来てるでちか?」
「うん、そうだね。いつもの年とそう変わりはないかな。……マナがなくなっても、人は変わらないんだね」
 慈悲深き女神の護りを求める。女神は再び世界を護る力を得るための眠りについたというのに―――。
 シャルロットの問いに答えてヒースは寂しげに笑う。
 その言葉を考えれば、加護を得られるわけでもないのに女神の下へ誓いをあげに来る彼の人々の行動はどこか哀しさを秘めていた。それをふまえると、他の国のバレンタインがまた少し違って見えてくる気がする。
「ねえ、ヒース」
 シャルロットの呼びかけに、ヒースはかすかに首を傾けて応じた。
「他の国のバレンタインは、ウェンデルとは少し変わってるんでち。知ってまちたか?」
 雪は音無く地上に降り注ぐ。シャルロットの声以外は何も響かない。
 その中で、ヒースは黙って彼女の言葉に耳を傾けているようだった。わずかに首を横に振る様子を見て、シャルロットは続ける。
「ナバールとか獣人の国ではバレンタインそのものがないんでちよ。アルテナは恋人同士で贈り物をするし、ローラントでは男の人から女の人に贈り物をするし、……フォルセナに至っては女の人からチョコレートを贈って告白をする日らしいんでち」
 つらつらと旅の中で聞いた話を並べる。その内容にヒースも驚いたのか、瞑目したまま驚嘆の声を上げた。
「バレンタインひとつでも、そんなに違うものなんだね」
「そうなんでち。フォルセナの話を聞いたときはもう驚きっぱなしでちたよ。好きな人以外にも贈るとか、男の人はもらったものに必ず返さなくちゃいけないとか、実はお店の人が煽ってるんだとか……ちょっと呆れたのも事実でち」
 喋るのを止め、一呼吸おく。シャルロットは願うように息を吸い込んだ。
 一番伝えたいことは、彼に届くだろうか。
「呆れたんでちけど……、でも」
「きっといいことなんじゃないのかな。女神様に加護を願うだけではなくて、自分たちで絆を深める方法を彼らは知っているんだね」
 ―――届いていた。
 シャルロットが見上げると、優しい笑みを浮かべてヒースがこちらを見下ろしている。先ほどの哀しい表情はない。
 あのときは神々の介在しない他の国に少し呆れた。けれど、今ならそんな感情は抱かない。
 これから、女神の加護のない世界を生きていく。マナは薄れ、いずれ魔法も失われる。女神の加護を願い不可思議な力を求めるだけでは足りなくなる世界が訪れる。
 それは、恋人同士の他愛ないやり取りでしかないけれど。
 女神の下に絆を誓い、そして自分たちで絆を深めていく術を知っているわたし達は。
 自らの力で切り開いていかなくてはならないこれから先の世界を、きっと生きていける。


 二人で神殿の表へ向かう通路を歩く。時々吹き抜ける風が石畳に雪を散らす。シャルロットは勢いよく足元を蹴って、隣に並んでいたヒースを追い越した。
 振り返ると、どうしたのかと問いかけるような驚きの表情がシャルロットを見ている。
「ヒースは、バレンタインにチョコレートをもらったら嬉しいでちか?」
 女の人からチョコレートを贈って想いを伝えるのは、フォルセナ式バレンタイン。
 祈るように息を飲み込んだシャルロットの視界の中で、ヒースは一瞬考え込む様子を見せた。
「そうだね。シャルロットの気持ちのこもったチョコレートなら、僕は嬉しいよ」
 貴方はさっきの話を覚えている?
 さあ、言うなら今。
「シャルロット?」
「じゃあ、今年はシャルが愛のこもったチョコレートをヒースにプレゼントするでちよ! 覚悟して待っててくだしゃい!」
 心の限り叫ぶと、シャルロットはヒースの顔も見ずに背を向ける。どんな顔をしているのかと思うと、恥かしくて返事も聞いていられない。他の神官たちが不思議そうに声をかけてくるのを他所に、シャルロットは逃げるように通路を走り抜けた。
 きっとバレンタイン当日は逃してしまうけれど。
 神殿の仕事が一段落する数日後には、丁寧に作られたチョコレートが彼の神官の手に届いているはず。
 定められた日が過ぎてしまってもきっとかまわない。絆を作り護るのは、神の加護ではなくて二人の力なのだから。二人が望めば、いつの日でも。



「男の人からは、お返しをしなくちゃいけない……、だったかな」
 あっという間に視界から消え去ってしまった小さな後姿を見送って、ヒースは静かにくすりと笑う。手に取るようにわかってしまう、ほんの少し先の未来。
 ヒースにとって大切な少女がその小さな手で渡してくれた贈り物を笑顔で受け取る自分。
 きっとその瞬間心にあるのは、どうしようもないほどの幸福感と愛しさ。
 女の人から贈るのはチョコレートに込めた想い。男の人から返すのは、一体何に込めた想いだろう。
 その辺りの詳細をシャルロットは語らなかったけれど、あの調子では教えてくれるかどうか。誰かフォルセナの風習に詳しい人に尋ねてみるしかないだろう。それでも彼女の話した「お返し」を選ぶのも楽しいに違いないとヒースは思う。
 通路から空を見上げれば、花びらのような真白が間断なく降っていた。その向こうに映るのは、色をなくし灰色に染まる空。その向こうから、かの女神は世界を見守っているのだろうか。
「僕は……幸せ者だね」
 空を仰いだまま、ヒースは呟く。その一言をこぼせるこの瞬間が、泣きたくなるほど幸せだと思った。 




 辺りには生地が焼きあがってきた香ばしい匂いが漂い始めている。間もなく程よい頃合だろう。
 今のうちに使った道具を片付けておくかと洗い布を泡立てながら、デュランはふと我に返った。
「……しかし、俺は何でこんなところでクッキーを作ってるんだかな……?」
 周囲の炊事場と呼ぶよりは厨房と呼んだ方がいいであろう設備を横目で見ながら、デュランは自嘲気味に呟く。
 料理をするのはまあいい。伯母の手伝いとして昔からやっていたことだ。
 作っているのが菓子だというのも、まあ大目に見るとしよう。
 しかしここはフォルセナのデュランの自宅でもなく、フォルセナ城の詰め所の炊事場でもないのだ。
 ここに至るまでの経過を思い出そうとしたとき、デュランの背後から声がかけられた。

「もう少しで焼き上がりそうですね。いい匂い」
 響いた楽しそうな声に、デュランは渋面で振り返る。入り口からゆっくりとした足取りで彼の方へ近付いてくるのは蜂蜜色の髪を腰まで揺らす娘。
「リース」
「そろそろお茶の準備をしておいた方がいいかと思って来たんです。皆楽しみにしてますよ」
「……そうでございますか」
 邪気のない言葉をかけられ、デュランは軽く肩を落とした。
 そうなのだ。現状において最大の問題は、ここがローラント城の厨房であることなのだった。

 自棄になって徹底的に洗い布を擦ったせいで泡だらけになった流しの前で、デュランは無言で荒いものを片付けている。その後ろでは茶器を用意するリースの起こす物音がかすかに響いていた。
「デュラン、怒ってます?」
「……」
「でも、本当においしかったんですよ。バレンタインにくれたクッキー」
 その言葉に、デュランは泡を流す手を止める。軽く振り返ると、砂時計をひっくり返したリースが困ったようにこちらを向いていた。どうやら紅茶を入れているらしい。それを見たせいでデュランはクッキーがそろそろ出来上がることを思い出した。
 洗い物を止めてクッキーの焼き具合を確かめながら、デュランはようやくリースに返答する。
「別に怒ってるわけじゃねえさ。おいしいと言ってくれるのもありがたい。けど、なんで俺はここでクッキーを焼いてるのかとふと思っただけだ」
 諦めたようにそう続けると、リースはくすくすと笑いながらクッキーを皿に移すのを手伝ってくれた。


 事の始まりは、今年のバレンタインだった。
 ホークアイとジェシカが毎年バレンタインをやっているという話を聞いたせいなのか、リースの方から持ちかけてきたのだ。
 リースはフォルセナ式バレンタインを。
 デュランはローラント式バレンタインを。
 想いを込めてとは言われても何を贈るべきか思いつかず、苦肉の策でクッキーを焼いて渡したのだ。菓子を日常作ることはほとんどないが、料理はもともと好きな方だし旅の間リースが作るのを見ていたということもある。―――かつてないほど珍しい所業に、その日伯母にはからかわれ妹には天気の心配をされたことは記憶の彼方に抹消しておくが。
 後になっておいしかったという丁寧な感謝の手紙が届き、どうやら好評だったらしいとデュランは安堵したのだった。ちなみにリースからの贈り物もチョコレートを使った菓子で、ありがたくもデュラン一人で堪能させていただいている。
 ―――というようなバレンタインの経過だったのだが、フォルセナ式バレンタインということは、当然ながら一月後に「お返し」があるわけで、デュランはまた頭を悩ます羽目になったのである。


「お返しはあのときのクッキーがいいって言ったら、デュランが了解してくれたんじゃありませんか」
 リースにそう言われてしまうと、デュランには反論する術がない。それは間違いないのだ。ただ、デュランが想定していたのと随分違っていたというだけで。
「まさかローラントまで来て焼けって意味だとは思わないだろ、普通」
 リースがトレイに紅茶の用意をするのを手伝いながらデュランは言った。用意されたティーカップは七脚。七人分。
「しかもそれがお茶会に合わせて、だろ」
「アンジェラとシャルロットも言ってたんですよ。デュランの作ったお菓子を食べてみたいって」
「……話したってことか、それ」
 当然ながら、旅の間デュランは料理はしたが菓子作りは一度もしていない。つまりはバレンタインの話をリースがその二人にしたということに他ならないのだ。
「あら、だって、デュランからの贈り物、とっても嬉しかったんですよ」
 わずかに頬を染めて微笑んだリースに、デュランは喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
 非常に嬉しい。嬉しくないわけがない。……しかし、だ。
 デュランは盆の上に乗る七人分のカップを見つめる。
 彼女の惚気を聞かされたであろう客が本日いるわけで、一体どんな風にからかわれることか考えただけでデュランは頭が痛くなってきた。


 準備も終わり、そろそろ会場に持っていく頃合になって、リースは皿の上からクッキーを一枚取り上げる。
「皆で食べる前に、一枚いただきますね」
「……どうぞ」
 お茶会が始まる前からどっぷり疲れてしまったデュランが応えると、リースは軽い動作でクッキーをかじった。デュランに向けられるのは、満面の笑み。
「おいしいですよ、デュラン」
「そりゃよかった」
 その笑顔に魅せられて、デュランも思わず表情を緩めた。リースに喜んでもらいたいという気持ちに変わりはない。
 まあいいだろう、この笑顔を見られたのだから。意地の悪いからかいは修行と思って耐えることにする。
 盆をとりあげると、デュランはリースの後に続いて厨房を出た。



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