薄紅天女 阿高×苑上

東風の行方


弐.灰色の世界の中で



 時間が来た。行かなければならない。
 すべてを終えるために。
 神馬へとなりかわった阿高はめざすべき怨霊の元へと駆けた。
 眼前に灰色の地平と同じく色を失った空が広がっている。そう、苑上と出会った、あの場所だった。
 視界にめざすべき怨霊の姿が映る。その傍には、―――苑上がいた。
(……鈴。どうしてここに……)
 巻き込んでしまったのかと、阿高は思った。皇太子と自分以外の者は誰一人巻き込むつもりがなかったのに。
 だが、物の怪の青白い腕が苑上に向かって伸びたとき、阿高は空を蹴って飛び出していた。力に反応して彼がいた一角が紫色に妖しく光る。
 阿高が地上―――苑上の傍に降り立つと、苑上は必死に立ち上がり、阿高へと駆け寄り首に抱きついてきた。あの夜阿高の手を包み込んでいたものと同じ温もりが、首に触れた。

 

「わたくしをつれていって。わたくしもそこへ行くから」
 その言葉に、阿高は驚かずにはいられなかった。彼女は、これから自分がどこへ向かうのか、わかっているのだろうか。
 今から行くのはすべての終わる場所、何もかもが果てる場所だというのに。
 そう問いただしたくなったが、苑上の真っ直ぐな目を見たときに、阿高は確信した。
 苑上は知っていたのだ。あの、風が吹きつける厩の前でついていくと言ったその時に。
「おまえ、死にに行くつもりでそういっていたのか」
「約束したでしょう。あなたがそう考えていることくらい、知っていたもの」
 では。すべてを承知で、ついてきたのか。
 ふと阿高は思った。思えば、始めからそうだった。
 人ではないものになりかわり、周囲に破壊をもたらすような力を持つ自分を、物の怪だと恐れてもおかしくはないのに、苑上はついてきたのだ。
 たった一人でちびクロを追いかけて捜しにも来た。
 藤太を失うと恐れていた夜も、傍にいてくれたのは苑上だった―――……。
 そのとき、確かに阿高の心を満たすものがあった。それは苑上の手から伝わる温もりのように温かかった。そして、それは阿高が生まれて初めて感じた気持ちだった。
「これ以上迷子になるなよ。もういいんだ」
 護りたいと思った、苑上を。そんな場所へ連れていくことはできない。自分を支えてくれたあの温もりを失わせることはできないと思った。


(ああ……、そうか……)
 阿高は初めて気がついた。これが人を恋うることなのだと。
 大切だと思い、護りたいと望み、その人の幸せを願うこと。
 傍にいたい、いてほしいと望むこと。
 もちろん、傍にいてほしくなかったわけではない。現に今、苑上がついていくと言ったとき、嬉しさがあったからだ。
 けれど、それはできなかった。自分のためだけに、彼女の大事な人たちから引き離すわけにはいかなかった。
 そんなことは、彼女の幸福にはならない―――。
 自覚して、もう一度苑上を見たとき、阿高は自身も少し驚くほどの優しげな声を苑上に向けていた。
「そんなことはない。鈴は人を幸せにする力を持っている。その力があれば、行くところがないはずはないよ。元気を出すんだ。きっとお前が必要になる者がいる」
 それは心からの気持ちだった。
 温もりを与えてくれた苑上だから。
 これからも、きっとその心で誰かを癒し、支えていくだろう。そんな彼女を必要とする者が、きっといつか現れる―――自分のように。
 けれど、自分では駄目なのだ。後のない場所へしか、連れていけないから。
 ―――逢えて、よかった。

 
  
  
 目前に天が近付く。―――すべての終わりの時間だ。
 黒竜へと変じた阿高は、この十七年にあった記憶のすべてを、まさに走馬灯のように垣間見ていた。
 まるで今そこにいるかのように、坂東を吹き抜ける風が感じられた。
 武蔵自慢の馬を育み、阿高たちを育んできた風。十七年過ごしてきた竹芝の屋形が思い浮かぶ。
 家族や友人たちの顔が思い浮かんで、次に現れたのは藤太だった。すべてが終わって阿高が戻らなくても、きっと彼は生きてくれるだろう。
 武蔵には千種がいる。待っている人がいる。きっと彼女が癒してくれるだろう、この半年の間に負った傷のすべてを。
 そして、最後に浮かんだのは―――苑上の姿だった。今まで生きてきた時間の中で、まだ付き合いは短いはずなのに、苑上の姿を思い浮かべるだけで心が落ち着く。
(ただ、流されてここへ来てしまったけれど―――)
 そのさだめのために苑上に逢えたのなら、悪くはなかったかもしれない。
 意識が薄れる。阿高という存在が消え、力の奔流となって天へ駆け去ろうとしたそのとき。

 ―――戻ってきて、置いていかないで。

 叫びが、阿高を貫いた。その声を聞いて、瞬時に『阿高』が覚醒する。その叫び声の主を、彼は知っている。
(鈴……)
 呼ばれている―――?
 阿高は一瞬、躊躇した。自分の中に沸き上がった迷いに、戸惑う。
 ―――戻ってきて。
 この言葉だけならば、振り払うことはできた。だからこそ、都までたどり着けたのだ。苑上に藤太のことを告げられたときも、決意は揺らぎはしなかった。けれど。
 ―――置いていかないで。
 一人になってしまうと、言っていた。都に居場所を見付けられず、逃げ出した苑上が最後にたどり着いたのが、阿高なのだ。もし阿高がこのまま消えれば、彼女は何もかも失う―――。
(戻らなければ。泣かせては……いけない……!)

 地上へ戻って、もう一度、鈴に。
 会いたい―――……。

 そして、眩いほどの光が炸裂した。



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