薄紅天女 阿高×苑上

東風の行方


参.静かなる古泉の畔で


1.



 ―――多くは望まない。ただ、もう一度だけ、鈴の顔が見たかったんだ……。



 安殿皇子が、白竜から人として姿を変えながら地上へ降りていくのを最後に、阿高の視界は真っ白に染まった。
 彼は、また皇太子として地上に戻るだろう。
 ただ白く輝く光と、包み込むような暖かさに抱かれて、阿高はぼんやりと思っていた。
 鈴が、彼女が、あんなに救ってほしいと願っていた兄皇子が、無事に帰る。
 あんなに弟を大切にし、あんなに兄のことを思っていた彼女のことだ。
 きっと喜ぶだろうと思う。喜んでくれれば、良いと思う。
 もし彼女の声が聞こえなければ、たぶん彼も自分も今頃は消滅していた。神代からの人ならぬ力の奔流へと成り変わり、そのまま天へと溶けてしまっていたに違いない。
 鈴が、自分を引き戻してくれたのだ。
『戻ってきて』
(―――鈴)
 あの時聴いた言葉が思い出される。鈴はどうしているのだろう。
 会って、帰ってきたと、一言でいい、伝えたい。
 最後まで自分を救ってくれた、そのことに、礼を言いたい―――……。
 まばゆい光が意識すら包み込み、阿高の意識は、そこで唐突に途切れた。



 夢から覚めるように、意識が深いところからゆっくり浮かび上がっていくのがわかる。
 足先に例えようもない冷たさを感じながら、阿高の意識はゆっくり覚醒した。
 ぼんやりとした視界いっぱいに緑色が広がっている。下に敷いていた草花に頬をくすぐられて、阿高は完全に目を覚ます。
(どこだ、ここ……)
 起き上がろうとしたとき、足場がないことに気付いた。そこで、阿高は自分の下半身が、水の中にあり、感覚がなくなりそうなほどに冷え切っていることに気付いたのだった。
 慌てて水から上がり、くしゃみをひとつして軽く身震いする。
 既に陽は高く昇っており、降り注ぐ日差しは暖かかった。少なくとも、この陽に当たっている限りは風邪を引くことはあるまい。
 音もなく静かに広がる泉のほとりに座り込んで、阿高はぼんやりと周囲を眺めた。
 どこかで見たような懐かしい気もするが、とりあえず見覚えはない。
 どちらが都でどちらが伊勢なのかはまったくわからないし―――いや、方向は陽が出ていればだいたいはわかるが―――、さしあたって着るものすらないから、ここから身動きは取れない。
 今の自分の状況を確認して、阿高はため息をついた。
 都はどうなっただろう。安殿皇子はどうなっただろう。―――鈴は、どうしているだろう。
 鈴に、会いたい。
 無事にあの場から逃れられたのかどうか、確かめたかった。
 思いを馳せ空を見上げた阿高の耳に、聞き慣れた音が響く。一つ身となったこともある、大事な道連れだった、ちびクロの鳴き声だ。
「ちびクロ?」
 呟くより早く、彼の背後にある高く茂った草むらから勢いよく大きな塊が飛び出してきて、阿高に飛びついた。必死になってじゃれ付くその姿は、再び会えた喜びを表わしているようであり、置いていってしまったことを責めるようでもあった。
「ごめんな、何も言わずに置いていって」
 尻尾を振るちびクロに、阿高は微笑み、そっとその頭を撫でてやる。その確かな暖かさが、とても心地よかった。

「阿高!」

 それは、確かに聞きたいと思った声。会いたいと切望した人。
 素直に嬉しかったけれど、でもそれが容易に叶うとは思っていなかったのも事実だった。
 その人は、藤太のように彼に最後まで付き合う理由も義務もなかったから。
 振り返った視線のその先に、鈴が立っていた。



 言葉にできないほど嬉しくて、何だか気恥ずかしくて、無性に悲しくて。
 複雑な気分で阿高が彼女を見ると、鈴は慌てたように両手に抱えていた包みを示した。―――着替えを持ってきたのだ、と。
 誇らしげな視線を向けるちびクロを見て、阿高は彼が鈴をここまで導いたことに気付いた。
 どうして。
 ちびクロには何も言い残さなかった。何も遺さないからこそ、それは別れの証であり、阿高と意識を一つにしたことのあるちびクロは、それを理解しているはずだったのに。
 どうして、生きていれば必要である、着替えや食べ物を持たせて、鈴を導いてくるような真似をしたのだろう。
「……ちびクロのやつ、どうしてお前のところに残ったんだろう」
「誰かがこういうことを、してあげなければならないからでしょう」
 鈴はこともなげにそう言い切り、阿高が着物を受け取るのを確認すると、食べ物を持ってくると言い残し一目散に茂みの向こうに消えて行った。
(まるで、俺が戻ってくることを確信していたみたいな言い方だな)
 包みを広げてみる。またあの帝の前に出るために着た水干のようなこの上なく身動きしにくいものかと思ったら、そうではなかった。
 下人が着るものなのか、普段着ているような、否それより小奇麗な衣であった。わざわざ気を使って持ってきてくれたらしい。
 急いで袖を通し、水を含んだ上にぼさぼさになっている髪はともかくとして簡単に身なりを整える。終わる頃に、両手に壷やら包みやらを抱えた鈴が、今にもそのうちのどれか一つくらいは落としそうな危なっかしい足取りで現れたのだった。
 やけに嬉しそうに包みを広げる鈴を横目に見ながら、阿高は目の前に広げられた食事を眺める。見たこともない、見たとしても年に一回程度の食べ物がずらりと並んでいる。
 食べてみると、どれも美味しかった。
「都ではいつもこんなものを食べるのか」
 ふと、そんな言葉が口をついて出た。「だいたいは」とごく当然のような返事を、鈴は口にした。
「ぜいたくだな」
 その呟きすらも、鈴は何とも感じていないようだった。こんな贅沢なものを、毎日食べることを当たり前と思っている。
 まるで違う世界の人のようだ。
 そこで、阿高は唐突に、鈴が帝の娘であることを思い出したのだった。
 この地を治める支配者。頂点に立つ一族の娘。民が汗水流して作る食物も、丁寧に折られる布も、心を込めて育てられる家畜も、その一部は彼らに献上される。世の中で最も富を持っている者だ。
「皇女なんだな、鈴は」
 ああ、何故忘れていたのだろう。
 鈴が皇太子の妹であるということは、鈴も皇だということなのに。
「明日からは」
 鈴は答えた。今は鈴鹿丸と名乗る少年の姿をしていても、明日からは彼女は皇女に戻る。手の届かない人になる。あの時見た、帝のような、幕の向こうに隔てられた人になる。
 心の奥が、締め付けられるようにわずかに痛む。意識を逸らしていられるほど鈍くはなく、けれどまだ気にしなくても平気でいられるほどの。
 阿高は、鈴に無性に会いたいと思った理由が、なんとなくわかる気がした。

 そして、鈴は不思議そうに訊ねてきた。熱心に訊ねるのは、きっとそれが彼女の本題だったからなのだろう。
「どうして兄上を救うことができたの。それはあなたにはできないことだと思っていたのに」



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