薄紅天女 阿高×苑上

東風の行方


肆.荘厳なる深緑の下で


1.



 できると思っていたんだ。
 鈴は都に。俺は武蔵に。
 確かにそこにいる。生きている。
 それを支えにして生きていけると思った。
 だけど―――。


 残された夏の日々を、阿高は伊勢で過ごしていた。
 全てが終わり、伊勢へと戻ってきたあの日、最悪の事態を想定していた藤太と広梨に、阿高はもみくちゃにされた。涙を浮かべて、二人は阿高が帰ってきたことを、心から喜んでくれたのだ。
 阿高が決意し、都へと旅立ってから、そう時間は過ぎていない。藤太の傷も、起き上がってはいられるようになったものの、まだ動き回れるほどではなかった。
 そして、阿高たちは藤太の傷が完全に癒えるまで、都へと向かう前と同じように社の手伝いをして過ごすことになったのだった。
 あのときと、同じようなことをして、同じような日々を過ごして。
 ただ、藤太のことと、定めを背負っていたあのときと比べれば、ずっと楽な気分で。
 そして、もうひとつ異なることがある。
 それは、―――彼女がもうここにはいないこと。


 ざあっ……と阿高の背後から、風が駆け抜けていく。阿高の頭上の木々の葉を何枚か舞い上げながら。
 伊勢の社の片隅、小高い丘の、座り心地の良い岩の上は、最近の阿高の指定席になっていた。
 夕暮れの西の空、日が沈む様を眺めるには絶好の場所だった。
(夕暮れ、か……)
 阿高は心の中で呟いた。
 一日は早いものだ、仕事をしていればあっという間に過ぎ去ってしまう。
 ただ、もう伊勢に戻ってきてから何日も経つというのに、阿高は前のように戻れないでいた。
 理由なんてわかっている。旅立つ前とは、あまりに違いすぎているからだ。
 何故、こんな違和感を感じるのだろう、彼女がいない、ただそれだけで。
 この伊勢の、どこにも存在を感じられない。
 確かに彼女はここにいて、自分たちと一緒に藤太を労わり、社に奉仕し、食事を共にしていたのに。
 面影は残っていて、彼女がいたことも覚えているのに、それでも、やはり彼女はそこにはいなかった。

「……―――っ!」

 思わず口元からこぼれそうになった言葉を飲み込み、阿高は唇を引き結ぶ。
 もう、何度も言いかけた名前だった。
 忘れるつもりはない。彼女は忘れないと言った。阿高がしたことを忘れないと言った。
 だから、阿高も、何も言わずに忘れないと心に誓った。彼女がいたことを、彼女が助けてくれたことを心の中に抱いて、そして武蔵に帰ろうと決めたのだった。
(そう、俺は、帰るんだ……竹芝に)
 忘れるつもりはない、でも武蔵に帰るからこそ、心の中に秘めておかねばならないのだ。口にしてはいけない。口にすれば、心の奥にしまったはずのそれは、瞬時に色鮮やかに蘇るに違いない。
 阿高は言葉代わりのため息をついて、伏せた顔を上げ、朱色に焼ける空を眺めた。
(何も、見えない―――)
 碁盤のような、整然とした街並みも、国府でしか見ないような朱塗りの門も、何ひとつ。
 すべては、今陽が沈もうとしている山の、その向こうにある。
(ここからでも、都は遠いんだ)
 阿高はその言葉を噛み締めた。この伊勢からでも、確かに都は遠かった。
 この伊勢は、都で東宮御所が粉砕するという騒ぎのときも、やはり静けさの中にあったという。
 伝わりくる都の噂も、どこかおぼろげで現実味が薄く、今ひとつ実感が湧いてこない。
 輿で五日、馬でその半分。その程度の距離であるこの場所から見ても、都は遠い地なのだ。
 けれど。
(もし、竹芝に帰ったら)
 伊勢と武蔵とは、都との距離よりもはるかに隔たりがある。故郷に帰れば、都はもっと遠くなる。もう幻すら思い描けないほどに。
 そこに彼女はいなかったから。


「よう、広梨、お疲れ、ごくろうさん」
 力仕事ではないとはいえこまごまとした仕事に、さすがに首を鳴らしながら仕事から上がった広梨が藤太の様子を見に行くと、陽気な声が出迎えた。
「すっかり元気だな、藤太。もう外に出て仕事をしてもいいんじゃないのか、早く傷を治してこっちを手伝え」
 広梨の言葉に藤太は胸を張って傷に巻かれた布を見せびらかす。
「何を言う。俺はまだ立派な怪我人だぞ。だいたい、俺の傷が治ったら、武蔵に帰るんだろう、俺の出番はないね」
 二人は笑いあった。阿高が帰ってきてからはいつものように繰り返されるやり取りだ。あるいはあのときの反動なのかもしれない。あのときは、知ることのできない都のことを思い、やきもきしたり思いつめたりしていたものだ。
「……で、一人なのか。阿高はどうした?」
「わかってるんだろう? いつもの日課だよ」
 藤太は思わず外に目をやった。空の西側から、徐々に蒼い空が溶けるように赤く染まっていく。
 阿高は、この空が全て赤く染まり、そして再び暗闇の中に沈むまで、帰ってこない。
 いったい何をしているのか、徐々に屋内を動くようになっているとはいえ、未だ外へは出られない藤太には何も想像がつかない。
 一度だけ、広梨は仕事場から寝所への道を逸れる阿高が何をしているのか、確かめてみたことがある。
『あいつは……ただ空が暮れるのを黙って見てるんだ。西の方を見たまま、ぴくりとも動かない』
 声をかけようとしたが、それも躊躇われた。そのときの阿高の目が『今』を見ていなかったから。何か過去に思いを馳せていることがわかったから、その過去に明らかに囚われていたから。
 その話のあとは、藤太も広梨も極力そのことについては阿高がいるときでもそうでないときでも触れないようにしていた。いまだ囚われることがあるとすれば、それはやはりこの一連のことであるはずだから。
 そう、思えたから。



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