薄紅天女 阿高×苑上

東風の行方


肆.荘厳なる深緑の下で


2.



 武蔵へ、帰る。
 冬が来る前には、道が雪に覆われる前には。
 今はまだ思い出せるからだ。
 武蔵へ帰れば、遠く離れれば。
 きっと振り向かない。


 仕事帰り、日が山の向こうに沈むのを見送って帰るのが阿高の日課になっていたが、もうひとつ、彼には日課があった。
 それは、寝所へ帰ったらまず最初に藤太のところへ顔を出して、傷の様子を確かめることだ。
「藤太、傷は大丈夫か」
 いつものように、部屋の扉を開けて、声をかける。

『あ……、阿高、見てっ! ほら、藤太の傷が塞がってきているの!』

 ―――……!
 最後に別れたときのおぼろげな記憶よりも眩しくて鮮明な姿の『彼女』が振り返り、阿高に向かって声をかける。
 阿高は動けなくなった。
 もう何もかも終わったあとだ、もう藤太の傷だって塞がりきっている。『彼女』は都にいるのだ。全てが終わって、彼女は本来の皇に戻ったのだから。
 ここに『彼女』はいないのだ。ここには、もう。
 一方、扉を開けて入ってくると見えた阿高が、急に動揺したような表情で動かなくなったのを見て、藤太は訝しげに声をかけた。
「阿高、どうした? そんなところで立ち止まって」
 その言葉が阿高を現実に還す。藤太と阿高の間で、笑いかけてきた『彼女』の姿は既にない。
「藤太……」
「おかげさまで、傷はだいぶ良くなってるよ。まあ、冬の前には武蔵に帰れそうだな」
 藤太は傷に巻かれた包帯を示す。ほぼ傷は塞がっていて、今は徐々に鈍った体を慣らすために屋内くらいは動いている。外で仕事はまだ無理とはいえ、この調子ならば、間違いなく冬には帰れるだろう。
 阿高は藤太が体を起こす布団の横に座り込んだ。
「ところで、どうしたんだ、いきなり立ち止まって」
「たいしたことじゃない。ちょっと考え事をしてただけだ」
 藤太はますます怪訝そうな顔をした。
 いったい何を考えていると問う藤太に、阿高は曖昧な返事と笑いでその話題を終わらせた。

 
 広梨や阿高たちの奉仕もあり、火事により大部分が焼け落ちた伊勢の社はすっかり復旧されていた。まだ無残な状態の部分も残ってはいるものの、巫女や斎宮が本来の仕事をするのに支障がないほどには再建されており、都に早馬が走り、その旨報告がなされた。
 都よりの使者として、賀美野皇子が参拝に訪れる、という知らせが社に届き、皇子が伊勢に来るらしいと噂が仕事場に広がったのは、更に数日後の夕方であった。
 辺りが真っ暗になるまで仕事が続いたため、広梨と阿高は一緒に帰路に着いた。出迎えた藤太も、珍しく一緒に帰ってきた二人を見て驚く。
 だが、広梨の愚痴混じりの報告には藤太はさらに驚いた。
「へえ、都から皇子様がね」
「まったく、皇子様が来るからって、こんな遅くまで働かせやがってさ。汗を流しに行く暇もなかったっての」
「で、誰が来るんだ」
「確か賀美野皇子って言ってたぞ。ほら、ここで一緒にいただろう、鈴の弟だよ」
 そのとき、阿高が体を振るわせた……ほんの一瞬だけ。
 ああ……と藤太は思い出した。ちょこまかと動き回り、さまざまなことを尋ねて回っていた、鈴に良く似た顔立ちの男の子を。
「なあ、阿高もそう聞いただろう?」
「……ああ、確かそう言っていたと思う」
 広梨の問いかけに阿高の答えは少し遅れた。何かを考え込んでいる様子だった。
「そういえば、鈴は元気にしてるかな」
 鈴の弟、で藤太はふと鈴自身を思い出し、何気なく呟いた。彼女はあのときの言葉を阿高に伝えてくれたのだろうか―――いや、こうして阿高が戻ってきたということは、何らかの形で、伝えてくれたのだろう。
「そういや、元気でやってるのかな。阿高は、こっちに戻ってくる前に話したりはしなかったのか?」
 藤太も、広梨も、何気ないの話のつもりで阿高に話しかけたのだ。
 だが、変貌は明らかだった。
 帰ってきたばかりの頃はまだ藤太と広梨の話に笑顔は見せていたにも拘らず、賀美野皇子の話題が出始めると徐々に会話に参加しなくなり、そして、今は一点を凝視したまま表情が凍り付いている。
「阿高?」
 声をかけながら、藤太はふと気付いた。
 伊勢に帰ってきてからこちら、阿高が一度も鈴の名前を口にしていないことに。いや、彼女に繋がる話題そのものを口にしていなかった。
 だから、都でのことの顛末についても、藤太と広梨はほとんど知らないのだ。
 それはただ、今回のことをあまり思い出したくないだけなのだと思っていたけれど―――。
「阿高、お前……」
 


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