薄紅天女 阿高×苑上

東風の行方


肆.荘厳なる深緑の下で


3.



 俺は、ここで何をしているのだろう―――……。

 やっと君を見つけたのに。
 君に出逢えたのに。
 このまま武蔵へ帰っても、君はそこにはいないのに。



 言霊―――言葉には力が宿ると言ったのは、果たして誰だったか。
 藤太の声が、遠くへ引き寄せられていた阿高の心を引き戻す。
 一呼吸の間を置いて、藤太が何か言葉を続けようとした瞬間、阿高は思わず藤太の胸座をつかんでいた。
「―――阿高っ?」
 広梨の慌てた声が、すぐ傍にいるというのに遠く聴こえる。
 辺りは薄暗く、灯された明りだけが視界の頼りだ。その光に照らされた藤太はずいぶんと驚いた表情でこちらを見返している。
 一体どんな顔をして藤太を見ていたのだろう。歯を食いしばり、押し殺した声で言うのが今の阿高の精一杯だった。
「……それ以上、言うな」
 藤太が何を言おうとするか、今の阿高なら容易に想像がついたから。ただでさえ揺らぎ始めている決意が、その言葉を聞けばあっさりと崩れ去ってしまうことがわかっていた。
 しばらく目を瞬かせていた藤太は、やがて何かを思いついたように笑みを浮かべると、阿高が危惧したこととは違うことを尋ねてくる。
 彼には、あるいは全部悟られているのかもしれなかった。藤太の目を見て、阿高はそう思う。
「阿高、―――本当に、それでいいんだな?」

 阿高の心の中で、藤太の言葉が繰り返された。本当にそれでいいのか―――このまま武蔵へ帰っても。
 この気持ちに気付いてしまったから、求めずにはいられない。
 今までずっと見つけられずにいた、半身。これまで誰よりも近い存在としてきた藤太の代わりにその場所に座する人。
 けれど、阿高はその気持ちを押し殺して、鈴と別れてきたのだ。もう二度と逢えない、その覚悟で。
 彼女は皇で、都の人。何不自由なく暮らしてきた人のはずだ。東の果ての武蔵に一緒に来てほしいと、言えるわけがない。
 あれだけ助けたいと思っていた兄や弟や、今までの生活の全てを捨てても一緒にいて欲しいのだと、どうして言えるだろう。
「できるわけ、ないだろう……」
 俯いて、搾り出すような声で阿高は呟いた。
 それでも、本当は。言えるものなら、言ってしまいたかった。消滅しかけた自分を救い上げてくれた彼女に、これからもずっと傍にいて、支えて欲しいのだと―――。
 これからどうすればいい。支えが足りないあの場所で―――鈴のいない武蔵で。

 阿高の視界の中で、部屋の中で灯されていた火がぼんやりと揺らいだ。右頬を何かが下に向かって伝っていく感触がある。
 そうして、すっかり呆れ返った藤太の声が、響いてきたのだった。
「馬鹿な奴だな。なんでそうなるまで我慢なんかしてたんだ」
 ―――言っちまえば良かったのに。
 藤太がそう口にしたわけではなかったが、阿高にはそんな言葉が続けて聞こえてきた。
「鈴は、皇女なんだ。武蔵での生活とは全然違う。そんな大変な場所に、来たがるわけがない」
 一瞬の沈黙。阿高の返答に、藤太は目を丸くして絶句した。
「阿高……まさかお前、ただそれだけの理由で引き下がってきたわけじゃないだろうな?」
 驚いたような声で問うてきた広梨も、藤太の隣で呆れた顔をしている。阿高は返事をしなかったが、二人とも答えを察したらしい、肩を落としてため息をついた。
「なんと言うか……阿高らしいといえば阿高らしいけど……」
 視線を逸らしながらぶつぶつと呟いている広梨。今にも頭をかきむしりだしそうな様子だ。
 広梨の隣で、藤太は阿高を真っ直ぐ見据えていた。その口調が、少し荒い。
 珍しく、怒っている。
「相手が身分の高い皇女だからって、身を引いてきたのかよ。生活が大変だというなら、それをお前が守るんだろう」
「それは……」
 藤太の言葉は、きっと正しい。
 阿高が何を言おうか見つけ出せずに視線をさまよわせていると、藤太は勝ち誇ったような顔をした。
「―――ま、確かに初めからそんなこと恐れてるような阿高じゃ、いくら武蔵に連れてきたって鈴を幸せにするのは無理だな。止めといて正解だよ」
 藤太の言葉の大部分が頷けたせいで黙って聞いていたが、何故だか無性に馬鹿にされたような気がして、阿高は片方の眉をしかめた。
「……何だって?」
「やる前からできないと言ってるような情けない男じゃ、どこにいようと誰も幸せにできるわけがないだろう。鈴だって都にいる方がよほどましさ」
 藤太は笑って手をひらひらさせている。阿高は思わずもう一度藤太の胸倉をつかんでいた。理由はさっきとはまるで違ったけれど。
「もう一度言ってみろ」
 阿高の言葉にも、藤太は笑ったままだった。
「ああ、何度でも言ってやるさ。自分がそんな男じゃないというのなら、証を見せてみろよ」
「証……?」
「鈴が武蔵で幸せになってる姿を、俺たちに見せてみろ」
 藤太はまだ笑っていたけれど、その笑顔は先ほどとは明らかに違う。声の響きも柔らかく、いつもの人懐こい笑顔だった。
「なあ、鈴が必要なんだろう。本当に必要なら、あの子が失くすものの代わりにくらい、なれるさ」

 あれほどまでに救って欲しいと願った兄と弟。不自由のない生活。高貴さの証である内親王という身分。
 彼女にその全てを捨てさせる。
 その失くすものの代わりに阿高がなるのだ。阿高と、これから生きていこうとする武蔵とが。
 ―――なれるか?
 彼女の中で、自分がそれだけに値するか?

 その答えは、既に阿高の中にある。
 心がさっぱりと晴れ渡った気分だった。もう涙は流れない。阿高は、自分の口元に確かに笑みが浮かんでいるのを自覚した。
 行き場をなくしていた想いが、本来あるべき場所に収まっていく。
「……だったら、見せてやるさ、証を。見てろ、さっき言ったこと、後悔させるからな」
 満足げな笑みを浮かべる藤太と頭を抱えている広梨に向かって、阿高は高らかと宣言していた。
 炎が揺らめいて、三人を照らし出している。藤太と広梨は、向ける表情こそ違えど真っ直ぐ阿高を見ていた。その二人の瞳には、間違いなく自信に満ちた表情の阿高が映っているはずだった。


 最後の場所で名前を呼んだのは彼女だった。戻ってきてと叫んでいたのも彼女で。
 彼女の声を聞いたから、阿高は帰ってくることができたのだ。
 そして、彼女は会いに来た。
 そのまま皇女に戻り、他人になってしまうこともできたのに、それでも彼女は最後に自分を捜しに来た。
 二つの事実の意味は、自惚れではないと信じたい。

 伊勢までの道のりを共に旅してきた馬に荷物をくくりつけて、藤太が阿高に振り返った。
「じゃあ、都に寄っていくんだな、阿高?」
 阿高はその問いに静かに頷く。
 藤太の傷も十分に回復し、彼らはもう武蔵への長旅に耐えられると判断した。
 できるなら、山々が雪に覆われる前に武蔵へと帰り着きたい。三人の考えは一致し、夏の間からずっと世話になった伊勢の社をようやく旅立つこととなったのだ。
「勝算はあるんだろうな? 負ける喧嘩に手を貸したくはないぞ」
「あるさ、絶対にだ」
 藤太の言葉に、阿高は自信を持って返した。
 
 あの日、手を伸ばせば、彼女は手をとったかもしれない。それすらできずに別れてきた。
 だから、今度は阿高から逢いに行くのだ。
 
「言い忘れた言葉があるんだ。それを鈴に伝えてくる―――鈴と一緒に、戻ってくるよ」

 今ならまだ間に合う。心の奥底に、想いを隠してしまわぬうちに。
 伸ばした手は、きっと届く。


END
2003.11.19


Index ←Back Next→
Page Top