悠久の絆

第1章




 短剣の柄を握り締めたまま、デュエールは立ち尽くしていた。前方を睨み考え込んでいる。
 陽に暖められることのない空気はかすかな冷気を含み、デュエールの頬をひんやりと撫でていく。周囲はどこまでも濃く暗い緑に包まれていた。
 正確には遠くを見通すこともできないほどに木々が葉を茂らせ、伸び放題の草が前進を阻んでいるのだ。人の手の入らない森だから仕方のないことではある。
 森の周縁程度なら、薬草や野草を採るために人が道を拓くこともあるだろう。しかしこの近辺に集落はなく、人が分け入ることなどまずない。そして今彼がいる場所はだいぶ奥に入り込んだ場所だった。
 デュエールは護身用に持っていた短剣で枝や草をなぎ払って視界を作り、無理矢理進んでいた。
 腰に手挟んだ長剣は鞘に収められたまま手をつけていない。おそらく切り払うならそちらの方が効率はいいはずだが、デュエールはなんとなく使う気になれなかった。
 時折、獣か鳥か判断できない鳴き声が遠くから聞こえてくる。今朝出発した街では人を喰うような生き物がいるという話は聞こえなかったが、用心するに越したことはない。
 幸い周囲に動物の気配はないようだ。人の気配も感じないが。
 ここが山の中腹より温暖なせいもあるのかもしれない、ルシータを囲む森よりも木々の密度が高く視界が悪い。探し物をするならひたすら草を掻き分け枝を避けて進んでいくしかないのだ。
 道を作りながら歩くために効率は悪いが、それなりの距離を歩いてきた。それでもまだデュエールの前方には森が延々と広がっている。

 先に進むべきか、戻るべきか。
 デュエールが悩んでいたのは今からどうするかということだった。
 木々の隙間からわずかに見える空の欠片はまだ青く鮮やかで、探索を続けるには十分であることを告げている。
 だが、先に進み続ければいずれ陽が暮れる。そうなればデュエールは十分な荷物もないままに森の真ん中で夜を明かさねばならなくなるのだ。分け入ってすぐのところに馬を繋ぎ、そこに荷を置いてきてしまったから。
 進んできたときほどではなくても、元の場所に戻るにも時間がかかる。今戻れば、宵闇が迫る前に街道の所々にある旅人小屋で休めるだろう。街道を夜行くことは、ある意味肉食の獣がいる森を探索すること以上に危険な行為である。
 普通に考えれば、デュエールはこれ以上進まずに今まで来た道を戻るべきだった。
 しかし。
 デュエールは脳裏をよぎった思考に眉をしかめた。
 ―――もしこの奥にエルがいたら?
 この森がルシータにある森以上に広大な面積を持つことは地図を見てわかっていた。必死の思いで進んできたが、おそらく全体から見ればほんの一歩奥に入り込んだ程度でしかないのだ。
 森の奥に背を向け、戻ったとして。その遥か先に彼女がいたとしたら?
 デュエールは一度深呼吸をして息を吐き出すと、あらためて前を見た。誰に言うでもなく、小さく呟いて一歩踏み出す。
「もう少しだけ、進んでみよう」


 何とか奥から戻り馬を繋いだところへデュエールがたどり着いたとき、陽はすっかり落ちていた。西の空の残光がかすかに見える。
 月は半分を過ぎ欠けていく一方で夜はほとんど姿を見せないから、陽が沈めばあとは星明りだけが頼りだ。
 デュエールはそのまま森の中に身を落ち着けた。火を焚いたほうが明るく不便もないが、森の中では木々に燃え移る可能性もあるし、空間を拓くだけの労力も惜しい。かといって開けた場所でわざわざ野盗に居場所を教えてやることもない。
 夏の盛りは過ぎたがまだ晩秋というほどでもなく、幸いなことに暖を取らなくても凍えずに一晩休めそうだ。往復する間に獣の気配も近くには感じなかったから、森の外にいるよりはいいだろう。
 もしかすると、かつて彼女が言ったように森の中にいた方が精霊の加護もあるかもしれないし。
 太陽の残り火が消えて、辺りは静かに夜に包まれていく。
 立ったまま身動きしない馬の傍にデュエールは座り込んだ。簡単な食事を終え、荷物から厚手の毛布を出して包まると、手ごろな木に寄りかかる。
 まばらな木々の間から星空が覗いていた。月に遮られることがないので弱い星の光も見ることができる。今夜は星明りでも充分のようだ。

 しばらくの間、垣間見える星々を眺めていると、デュエールの横で気配が動いた。
 見れば、さっきまで立っていた馬がゆっくりと足を折り地面に伏している。寝るつもりなのだろうが、旅先にもかかわらず珍しいことだとデュエールは思った。ルシータの厩の中ではない、何が起こるかわからない森の中なのに。
『精霊たちはデュエールのこと気に入ってるよ。いつも護ろうとしてるもの。ルシータだろうと旅先だろうと、どこにいようとね』
 不意に脳裏に響く、ずいぶん昔に聞いた彼女の声。
 精霊たちの存在も、与える加護も、デュエールは感じることができない。だが、彼女が言ったように精霊たちは常に彼を守ってくれているのかもしれない。慣れないはずの場所で馬が安心して足を折って休むのは、それを感じ取っているからかもしれなかった。
 肩の力を抜き、背中に触れる木に身体を預けて、デュエールは苦笑する。だいぶ前に聞いた幼馴染みの声を、これほどまでに鮮明に思い出せる自分が可笑しかった。
 緩やかな空気の流れにデュエールの茶色の髪が軽く揺れる。

 どこに、いるのだろう。たった独りで。
 デュエールが昼間探し回った限りでは、もちろんこの森の中にその姿を見つけることはできなかった。しかし、そのさらに奥に彼女がいないという保証はないのだ。
 それをいうならば、ドラークやリベルの助言に従って通り過ぎてきた地域にも言えることなのだけれど。戻って探索してみるべきだったのではないかと後悔したのも、この十日だけで数え切れないほどあった。
 何の手がかりのないままに探し続けるということ。
 ルシータを出発する前に想像していた以上に過酷なものだ。きっとこれからもずっと後悔し、そして焦るのだろうと思う。もっと奥に進んでみるべきだったとか、こちらへ行ってみるべきだったとか、種は尽きないに違いない。
 それでもエルティスを捜しにルシータを出たことを後悔することだけは無いと、デュエールは断言できる。
 まだ、十日しか経っていない。何年かかってもと犬神に語ったくせにたかだか十日でこの様かとデュエールは自分を叱咤した。

 顔を上げた先に低く輝く星空が見える。
 ルシータには、幾つかの星を線で繋ぎ形を作り出してその位置で占いをする神官もいた。デュエールはその詳しい術を知らないが、世界中のどこの大地で見ても星同士の位置関係はほぼ変わらないのだとその神官は言っていた。
 だから、世界のどこでもこの占いはできる、とも。
 デュエールは立ち上がり、木々の屋根の下から外に出た。
 一面天を覆いつくす星々が煌めいている。ところどころが黒く切り抜かれているのは空を流れる雲。隙間を埋めるように輝く光は、今にも降り注いできそうなほどだ。
 人の運命を表すという星の流れ。その名を何ひとつ知らなくとも、この光景が見とれるほど美しいことに変わりはなかった。
 どこにいようとエルティスはデュエールと同じ星空を見ている。どれだけ離れたところにいても、この空で繋がっているのだ。もう逢えないかもしれないと知って感じた絶望を味わうことは二度とないのだから、焦ることはないはずだった。
 


 デュエールは街道を南下し、十日をかけて王都ライゼリアに到着した。
 ファレーナ王国は東を海に残り三方を他の国に囲まれた国である。西部から北西部にかけてはルシータのあるオルカリア山を含む山々が広がるが、他の大部分は起伏のない平坦な大地が続く。
 広大な領土の中央からやや西に寄ったところに位置するのが王都ライゼリアである。
 国境付近、海岸部から中央を目指す道はやがてデュエールが通った北の街道を含め五つの主要街道へまとまりライゼリアへ至る。
 国を統べる王のお膝元。ファレーナ王国のあらゆる物事の中心地で、国内外から物と人が最も集まる場所だ。

 ―――まずは、人の集まる場所に行ってみるのもいいかもしれないな。
 レンソルを発つ前にドラークが言った言葉に従い、デュエールは王都を目指したのだった。
 エルティスが人の多くいるところにいる可能性は低い。しかし、人が流れるところ、集まるところには、彼らの持つ情報も集まってくるのだ。
 人々の間でささやかれる噂は貴重なものだ。特にデュエールのように探し物をしている人にとっては。
 何かエルティスの行方の手がかりになるものがあればと、デュエールは街中を動き回り人々の話に耳を傾ける。
 南の街道は最近野盗が多くて物騒だ、西の国は奇病が流行ってるから気をつけな、あの遺跡に遺跡荒らしが集まってるらしいね……それこそファレーナ各地どころか国外の話も飛び交っている。
 しかし、デュエールが求めるエルティスを連想させるような情報は得られなかった。
 考えてみればまだ一月も過ぎていない。人づてに話が広がっていくにはあまりに短すぎるし、人気のないところ深くに身を潜めていればそもそも噂になることもないだろう。

 定期的に市場が開かれるという広場にたたずんで、デュエールは考え込んだ。
 手がかりなし。次にやることはここに来る前にやっていたしらみつぶしの捜索だ。時間が経てばもしかしたら有益な情報が流れてくるということもあるだろうし。
 夏は既に過ぎ、後は冬に向かって冷えていく一方だ。真冬になれば旅小屋はともかく野宿など無謀に近い。動き出すなら早い方がいい。
 デュエールは右手―――北側にそびえるファレーナ城を仰いだ。平坦な土地に広がる王都で最も高い建物だ。彼が今いる広場は城の正面、南側に広がっている。現国王が王位を継いだときは、城門が解放され、この広場で盛大な祝宴が行われたという。
 そういえば、王妃はルシータから嫁した人ではなかったか。見たこともない大きさの城を見上げていたデュエールは、唐突に思い出した。
 そうだ。確か巫女姫カルファクスの従姉に当たる人であったはずだ。
 ファレーナ王家は独立した権力を持つルシータと縁戚となることでその魔法の恩恵を受けていた。それがあるからこそ、神官たちが治療院で暴利をむさぼるなどということができたのだ。
 城には王宮付神官も派遣されている。王妃をはじめとした人々にも、ルシータの騒動は伝えられたのだろうか。
 エルティスが結界を破壊した。魔法が失われることによる損失は意外と大きいのかもしれない。ルシータだけではなく、ファレーナ王家も被害を被ることになるのか。
 どちらにしてもデュエールに関係することではないように思われた。

 思考を払うようにデュエールはあらためて辺りを見回す。
 王宮を除くと、さして目立つほど高い建物は他には見られない。どういう理由があってか、ある一定の高さ以上の建物はないようだ。
 王都の城壁の外、すぐ南側が森に覆われているせいなのか、意外に街中にも緑が多い。金持ちの邸宅などは大抵綺麗に剪定された木々と丁寧に手入れされた庭に囲まれている。
 しかし、大通りから一歩裏へ入り込めば、かろうじて人がすれ違えるような路地があるほどに住宅が密集しており、あまりの密度にデュエールは辟易するしかなかった。
 それでも人が集まる分情報も集めやすいし、必要なものも揃えやすい。
 選り好みしなければ日雇いの仕事もあるから、路銀を稼ぐこともできる。デュエールが持ち出してきた路銀は一般人が持ち歩くには充分過ぎるほどであったが、それでもひたすら旅して回るとなれば、尽きることもあるだろう。
 ここが、王国内でエルティスを探す拠点になる。


 慌しく準備を終えたデュエールは、ゆっくり休む間もなく王都を出発し再び北の街道を北上した。
 目指すのは、十日前に中途半端な探索しかできなかったあの森。
 進むことを諦めたその先が、気になって仕方ないのだ。
 誰かに強いられたことではない。あとあとまでこだわり続けるよりは、自分の気の済むようにしたらいいだろう。そもそもまだ始まったばかりなのだから。
 澄んだ秋空の下、デュエールは荷を運ぶ人の間を縫って馬を走らせた。


初出 2005.3.21


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