悠久の絆

第1章




 十日ほど森の中を彷徨った結果は、あまり芳しくはなかった。デュエールは、人のいるような痕跡ひとつ見つけられなかったのだ。
 それでも、犬神から教わった様々な効能を持つ薬草類を見つけ出したのは、ある意味成果と呼べるかもしれない。
 治療院や医者にかかることのできない近隣の村では、デュエールの採取した薬草は貴重なものだった。それと引き換えに水や食料やその他必要なものを譲り受け、王都に戻ることなく次の旅の準備をすることができたのだ。
 薬草をわずかに手元に残し、それでも受け取った品はしばらく旅を続けても充分な量ある。
 この村は旅人の多い街道から逸れたところにあるため宿場はなく、デュエールは特別に村長の家に一晩の宿を借りることになった。


「捨てられた集落……ですか」
 食後の茶をいただきながら村長の話に耳を傾けていたデュエールは、話の途中でふと表情を変える。食事中の話題として旅の理由を尋ねられたデュエールは、探し物をして人のあまり出入りしない場所を訪ね歩いていることを話していたのだ。
 この村を束ねてもう数十年になるという老爺は近辺のことには詳しかった。
「さよう。西の街道とは別にこの辺りにも国境を越える道があるが、その辺りは暮らすには厳しくてな。この数十年の間にだいぶ人がいなくなった村がある。住み着く者もその環境ではあまりいないし、条件には当てはまるのではないかな」
 デュエールは頭の中に地図を思い描く。森へは街道側である東から入ったのだが、最終的には南側に出てこの村にぶつかった。もともと通ってきた北の街道からは大きく外れたことになる。
 村長の話では、このまま南下すると山々の間を抜けて国境を越える道に出るが、捨てられた集落が数多くあるのはその山間部らしい。もともとは戦火を避けるために逃げた人々が住んだ場所だということである。
「冬になれば雪が降り、この道自体歩くのが難しくなる。国境辺りは道も険しく旅人もあまり通らない。もし人のいない場所を目指しているのであれば、そこへ行ってみるのも手かも知れぬ」
 ファレーナ王国は全体的にみれば温暖な国であるが、ルシータをはじめ山岳地帯の気候は厳しい。冬は平地と比べて寒さの訪れは早いのだ。雪に覆われる期間も長い。もし行ってみるのであれば、今のうちだろう。
 これで行き先は決まった。デュエールは湯飲みをテーブルに戻すと深く礼をする。感謝してもしたりない。
「ありがとうございます。行ってみます」
「いやなに、お礼を言うのはわしらの方だ。あれだけの薬草があればしばらくは怪我人や病人が出ても大丈夫だろう。なにしろ近隣に医者は一人もいなくてな」
 村長も慌てて居住まいを正す。役に立てて何よりだ、と老人は笑った。

「しかし、お前さんもまだ若いのに大変な旅をしているものだ。故郷に待っている人もいるだろうに」
 その言葉にデュエールの胸にかすかな痛みが走る。わずかな時間旅路を共にした人たちに必ず言われることと、その度に襲い来る鋭い疼き。
 若いのに大変だね。故郷に待ってる人もいるんだろう? 
 デュエールは旅の理由を尋ねられるといつも捜しものをしていると答えている。人を捜していると言えば説明が複雑になるからだ。そのとき常に返ってくるのはそういう労わりの言葉だった。
 故郷で待っていてくれた人は、あの瞬間に失くした。エルティスがいなければ、あの場所に帰る理由もないのだ。
 もちろん、それをあらためて他人に説明するつもりはない。
 デュエールは精一杯の笑顔で答えた。彼より明らかに人生経験の豊富なこの老人には、哀しい色を残した瞳を見抜かれてしまったかもしれないけれど。
「故郷に帰るために、している捜しものですから」
「そうか」
 では早く帰れると良いな。優しい笑みを浮かべて村長は言う。しばらく他愛もない話をした後で、もし集落を目指すなら朝早い方がいいとの言葉に、デュエールはもう一度礼を言うとその場を辞した。



 昼間陽が当たっているときはさほど気にならないが、やはり早朝と夕暮れは空気が冷えるようになってきた。そろそろ野外に毛布一枚で寝転がるのは厳しくなってきたかもしれない。
 馬を進めながら、デュエールは村長に言われた通り人の往来が少ないことに気付いた。王都に向かうときに通った北の街道の半分以下ではないだろうか。
 この先は峡谷のところどころに人のいない集落があるばかりで、国境を越えるにも難所、とくれば人がいないのも頷ける。わざわざこちらへ向かう人間など限られるということだ。
 北の街道と同じくこの道にも旅小屋が設けられているが、案の定寂れていた。暖を取るための薪が置いてあればよほど手入れが行き届いている小屋なのだ。かろうじて屋根と壁があるだけの粗末な小屋もある。

 道なりに北西を目指し進んでいく途中、デュエールはある小屋で壮年の男性と一緒になった。まだ子供の頃に一族総出で集落を捨てて他の地域へ移ったということで、この辺りへは貴重な鉱石やら野草を採りに来るらしく、ちょうど用事を済ませ帰るところだという。
「もうほとんど人はいないけどね、たまに他の村から逃げてきた奴とかが入り込んでいることがあるんだよ」
 一人旅のその男性は話し相手もなく暇をもてあましていたらしい。デュエールが峡谷に向かっているのだと言うと、色々と教えてくれた。
「まあ、誰も住んでないからもうぼろぼろなんだが、それでも風雨を凌げる程度には家が残ってるからな。果樹園とまではいかなくても昔育ててた木がいくらか残ってるし川もあるから意外と食料には困らないんだ」
 俺も利用させてもらっているし、と男性は笑って話す。手元の皮袋はたぶん酒なのだろう、顔がだいぶ赤かった。
 数年前に人がいなくなったばかりの集落では食料が調達できること。
 集落同士は離れていても丸一日あれば辿り着ける距離にあること。
 狭い土地では耕せる量は限られているが、肥沃で水も大量にあったため充分な作物を作れたこと。
「それでも、冬になるとここで過ごすのは無理だな。逃げ込んできた奴らも、それまでにはここをまた出て行くか、行き倒れるかどっちかだ」
 兄ちゃんも気をつけな。男性がそう言ってくれた頃には相当酔っ払っていたらしい。呂律が回らない上に、その言葉を最後に男性は眠り込んでしまった。
 こんな酔い方をする人がルシータにもいたな、とデュエールは苦笑する。

 狭い小屋の中には、デュエールと話し相手だった男性の他はもう一人年老いた女性がいるばかりだ。彼女は近隣の村へ帰る途中だということで、男性の大声などかまわぬ様子で早々に眠り込んでいた。
 老女のかすかな寝息をかき消すように、男性のいびきが響き渡る。男性の傍らにある毛布をかけてやると、火が消えないように薪を継ぎ足して、デュエールも毛布に包まり直した。
 壁に寄りかかりふと息を吐く。この位置であれば熱も届くだろう。
 不安はかき消せないけれど、いい話を聞けたと思う。
 峡谷に点在する集落。あと数日で辿り着く。そこのどこかにエルティスはいるだろうか。
 デュエールはゆっくりと瞼を閉じた。


 足元からかすかなせせらぎが耳に届いた。
 誰もいない川辺にデュエールは馬を止める。丈の短い草が茂る地面にデュエールが降り立つと、背が軽くなった馬は早速水辺に寄って水を飲み始めた。
 馬の様子にちらりと目を走らせると、デュエールは向かう先へと視線を向ける。

 視界の左右には急勾配で空に向かって山が伸びている。山肌を覆う木々は半分がその葉を落としていて、まだら模様だ。山々が懐に抱える水源から流れ来る川が峡谷を貫くように流れている。思ったよりも開けていて、ここに人々が居を構えたのも頷けた。
 まるで隠れ里のような集落。村々を繋いでいる道がこのまま隣の国へ繋がっているとはとても信じられなかった。どこか別の、人知れぬ土地へ続いていくような気さえする。

 ―――ここが、最後だ。
 この先にもう集落はない。その言葉を心の中で噛み締めて、デュエールは唾を飲み込む。
 何日もかかって集落の跡を回ってきた。その周辺にある森は言うまでもない。捨てられて何年も経たない集落では幾人か身を潜める人影を見かけたけれど、その中にエルティスの姿はなかった。
 奥に入れば入るほど、朽ち果てた集落が多くなる。人のいなくなった家が寂れていく様を、まるで時間の経過を追うように見る羽目になった。
 昨夜デュエールが泊まった家も、かろうじて屋根が乗っている程度のものだったのだ。
 手前の集落があれほどだったのだから、この最奥の村もあるいは―――。
 振り切るようにデュエールは思考を払い、馬の様子を確かめた。水に満足したようで、足元の草を食んでいる。
 適当なところで馬を促すと、デュエールは先に進んだ。しばらく歩かないうちに視界に家らしきものが見えてくる。

 静かだった。
 人の生み出す音は何ひとつなく、空と大地が紡ぐ音色がそっと滑り込んでくるばかりだ。
 おそらくはかつては道だっただろう場所は既に草に覆われていて、他の場所よりもまばらであることでかろうじて見分けられる。小指ほどの丈の草を踏みしめて、デュエールは集落の中央と思われる開けた場所に立ち止まった。
 デュエールを囲むように家々が点在し、その背後には山がそそり立っている。
 手綱を抑えられているせいで地面へ首を伸ばせず、馬が身じろぎをした。急に響いた音に誰かが反応する様子はない。
 馬を適当なところへ繋ぐと、デュエールは手当たり次第に辺りを探し回った。時には辺りの静寂に負けないように大きな声で呼びかけることもある。今まで何度も繰り返してきたことだ。
 結果はどこまでいっても同じ。
 返答はない。

 そうして日が沈み視界が利かなくなるまで歩き回ったデュエールは、一番家の形を留めている一軒に入り込んだ。適当に休めるところを作り毛布を敷くと、そこに倒れるように寝転ぶ。
 暗闇に閉ざされる前に暖を取ったり明りを灯したりとするべきことはあるはずだが、デュエールは手足を投げ出したまま動くことができなかった。
 全身に疲れがのしかかり、まったく動く気が起こらない。疲れているのは身体だけではないのだ、精神的にも疲れていることはわかっていた。
 鈍い動作で両腕を持ち上げ目を覆うと、デュエールは小さな声で呟く。
「エル……」
 焦ってはいけないとわかってはいる。
 それでも、こうして自分が探し回っている時間が、すなわちエルティスが独りきりでいる時間かもしれないと考えるといても立ってもいられない。
 早く彼女を世界のどこからか見つけ出して、あのとき伝えられなかった言葉を伝えなければ。
 最後に焼きつけられたあの泣き顔を想い出にできない。
 その記憶にかき消されてしまった笑顔を思い出せない。
 あの姿のまま、いったいどこにいる?
 これから寒くなるばかりだというのに、彼女はどうやって寒さを凌ぐというのだろう。
 それとも、神の一族たる力を持つエルティスなら、その程度のことは悩むことでもなくなっているのだろうか。
 寒さに震えることもなく、時間も関係なく、ただ彷徨っているだけだとしたら。
 彼女をそうさせてしまったのはいったい誰だというのか―――。


 染み込むような肌寒さで目が覚めた。どうやらよほど疲れていたのだろう、あのまま眠り込んでしまったらしい。散乱していた枯れ草やらなにやらを敷いて直に寝てはいなかったせいで冷え切りはしなかったものの、手足の先は冷たく感覚が鈍い。
 辺りは意識を失う前よりもわずかに明るくなっている。
 身体を起こし手足をほぐして血を通わせるとデュエールは早速火をおこして暖を取ることにした。吐く息は白く、外とそんなに変わらない温度であることは明らかだ。
 何とか暖まってきたところで、デュエールは顔を洗うために外へ出た。東の山際が白み、周囲を見渡すのに不自由はしない。

 川辺にしゃがみ込んで、デュエールは水面に顔を映した。
 一目でわかるのは、ずいぶんと髪が伸びたということ。
 ルシータを出てから二月はとうに過ぎている。そろそろ纏めないとうっとうしい長さになってきた。肩に達するかという長さまで伸びた髪を眺めてデュエールはぼんやりと考えた。
 エルティスに逢うまでにこの髪はどれだけ伸びるだろう。
 デュエールは自嘲した。昨夜も彼女のことを想いながら結局そのまま眠りこけてしまったのだ。いつもエルティスのことを考えているしかない自分に呆れてしまう。
 それでもその想いがこうして旅を続ける理由なのだから、仕方ないのかもしれない。


 冷たい水で目を覚ますと、デュエールは家の中へ戻り簡単に食事を済ませた。
 この先はまもなく国境で、これ以上進む場所はないのだ。となれば後はひたすら戻るだけ。
 王都へ戻って、またエルティスの情報がないか探してみるのも手だろう。あれからまた時間が過ぎている。何か変わったことがあれば噂も聞こえてくるかもしれない。
 どのみち今は何の手がかりもない。とるべき方法はそれしかないのだ。
 山際から太陽が顔を出す前にはデュエールは集落を出発し、王都に向かって山を降り始めた。


初出 2005.5.26


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