悠久の絆

第3章




 地平からすっかり姿を現した太陽の光が、辺りに立ち込めていたもやをはらっていく。ぼんやりとしていた周囲が鮮やかな緑に色付いていく。
 背中を照らす陽光は朝のものだというのに身体を温めてくれる。
 練習用の木剣を両手で正面にかまえると、デュエールは静かに息を吸い込んだ。ほんの数歩分前には、同じような姿勢でこちらを見据えている赤髪の青年の姿が見える。
「デュエール、いいか?」
「いつでも、どうぞ」
 鋭い視線でこちらを射抜くルオンの問いかけに、デュエールは短く応答する。
 一呼吸の間を置いて、ルオンが動いた。
 ルオンは素早く距離を詰めると、高く構えた木剣を叩きつけるように振り下ろす。動き出す一瞬に剣の軌跡を読むと、デュエールは危なげなく自分の剣で受け止め、勢いを殺して相手の剣先を滑らせた。
 重みが消えたところでデュエールは剣を横に払う。その動きはぎこちなく、ルオンに難なく避けられてしまった。そのあとも型をなぞるように二人でしばらく打ち合う。

 デュエールの額に汗が滲み始めた頃、ルオンが身を退き今日の稽古の終了を言い渡した。
「そろそろ朝飯だから、今日はもう終わりにしよう」
 彼の言葉にデュエールが周囲に注意を向けると、ところどころから人々の会話が聞こえてくる。調理を担当する人々が煮炊きを始めたのだ。この時間になって二人がすることといえば、手伝って少しでも多く分け前をもらうことだった。食べ盛りの上に朝から運動していれば、普通の量では足りなくなる。
「そうだな、手伝うか」
「今朝はどんな上手いものが食えるかな」
 手早く木刀をまとめると二人は人々の輪の中に戻った。


 適当なところに腰掛けて、デュエールとルオンは朝食をとる。
 少し硬めのパンに一杯のスープだが、積極的に手伝ったせいか椀の中には具がたっぷり入っていた。宿に泊まっている時と比べればわびしいものだが、隊商が無事に王都に辿り着いたあかつきには報酬をもらえるのだから文句は言っていられないだろう。
 デュエールがルオンと剣の稽古の約定を交わして数日後。ルオンの希望に沿う隊商が見つかり、二人は隊商の護衛として雇われ王都へ向かうこととなったのだ。
 他にも何人も雇われた人がいるようで、彼らと話す機会も度々あったが、ルオンと同じようにこれを生業としている人々もいたし、王都が目的地だから道連れとなっている人もいた。物盗りに襲われることを恐れて大人数の対象に紛れ込む旅人も見かけた。
 昼間は隊商を護りながら道中を進み、夜になれば交代で休みながら周囲を見張って夜を明かす。デュエールはその合間合間にルオンに剣の稽古をつけてもらっていたのだ。

 空になった椀の底を名残惜しげに見つめながらルオンが呟く。
「しかしなあ、アズマールを出て十五日だろ、ここまで何もないのが不思議だな。この国が平和だからといってもこれは有り得ないよなあ」
 感嘆の声を上げてルオンはデュエールを見た。
「まったくたいしたもんだよ、隊商まるごと巻き込む運のよさだ。やっぱりなんか憑いてるんだな」
 他の奴らが退屈がってたぜ、と笑う青年にデュエールは苦笑する。食べ終わった食器を傍らにおいて、デュエールは空を仰いだ。
 二人が従う隊商は予定通りに貿易街道を西進している。規模の大きな一団だというのに、今までの道中不穏な気配は昼夜問わず全くなかった。商人たちが首を捻るほどの静けさらしい。
「本当にたまたまじゃないのか」
「いや、これだけでかい隊商が動いてて物盗りの気配すらないのは異常だろうよ」

 護衛の経験のある彼が言うならば、そうなのだろう。ならばデュエールはよほど精霊に贔屓されているということになるのだ。おそらく彼以上に好かれていたであろうエルティスを傷つけてしまったというのに―――有り難いと言っていいのかどうか。
 ルオンの言う『運のよさ』でエルティスに巡り逢うことができるなら、これほど嬉しいことはないのだけれど。

 デュエールが考え込んだために話題が途切れ、沈黙が落ちる。間もなく出発を告げる声が響き、デュエールとルオンは慌てて支度をする羽目になった。
 荷物をしっかりと馬にくくりつけデュエールが用意を済ませると、隣で背に荷物を負ったルオンが呟く。「今夜は宿で休みたいよな、いい加減」
「今日も何事もなく済めば街に辿り着くよ」
 大森林が既に街道に迫ってきている。今日予定通りに進むことができれば、貿易街道で五本の指に入る規模の街・ハルサスに入れるはずだった。





 見れば見るほど知っている場所とは違うところばかりなのにどこか懐かしい、とエルティスは思った。
 彼女の前髪を遊ばせる風に、かすかに湖面が揺らいでいる。そのほとりに座り込んで、エルティスは周りを見回した。
 彼女が知っている場所。小さい頃に彼と遊んだ、森の中にあった湖。
 ルシータの湖は、ここまで木々に包まれてはいなかった。ほとりはもう少し開けていて、寝転がって日光浴をするだけの広さと太陽の光があったのだ。けれど、ここは水辺に木々が迫っていて、水面にも少し影を落としている。
 それに、木々の色も彼女の記憶にはないものだ。山の中腹だったルシータと、おそらく遠く離れた場所なのであろうこことは、植物の種類が違う。
 時々聞こえてくる鳥や獣の声も、全く違っていた。
 同じものを探すとすれば、彼女の周囲を踊る精霊たちくらいのものだ。エルティスがただ人ではなく神に列するものだということは、精霊たちには知れ渡っているらしい。ルシータにいた頃と同じように、精霊たちはエルティスに力を与え、こまごまと気を遣ってくれる。
 今もそうだった。

 ふいと近づいてきた風の精霊が、彼女の耳元で声なき言葉を囁く。それを聞いて、エルティスは背後を振り返った。視界に翻る銀色の髪。
「子供たちが来たの? ……そうだね、たぶんお昼ご飯が終わったから」
 空を見上げれば、最も高いところを通り過ぎた太陽が明るい光を投げかけている。言われてみれば、遠くからなんとなく賑やかな話し声も聞こえてくる気がする。
 ゆっくり立ち上がり土埃を払うと、エルティスは軽く地面を蹴った。精霊に祈るまでもなく風の力がエルティスの中から生まれて彼女を包み込む。宙へと浮かび上がったエルティスは特に葉の生い茂った樹を探すと、その枝に腰掛けて身を隠した。
 ついでに力を使って人に見つけられないようにするのも忘れない。

 エルティスが葉の間から湖を見下ろしていると、間もなくひときわ賑やかな笑い声が響いて、五、六人の子供たちがほとりに駆け出してきた。男の子と女の子と入り混じり、追いかけっこに興じている。
 その中に、エルティスがいくらか見覚えのある男の子と女の子がいた。追われる側にいるその二人は、つかず離れず、男の子が女の子を庇いながら逃げ回っている。
 その様子を見て、エルティスは思わず微笑んだ。やり取りを見るたびになんとなく微笑ましくて、この二人が湖のほとりや森の中で遊んでいるときは、エルティスはいつもその様子を飽かずに眺めているのだ。
 ずいぶんと前になるだろうか、それともそんなに大した時間は立っていなかったか、この男の子と女の子が迷子になったのを助けたのは。足元の子供たちの様子を見ながら、エルティスは記憶を探った。


 気がついた―――と言っていいのか、この森にいることを意識して間もない頃だったと思う。
 夕暮れ時、そろそろ森も暗闇に包まれる時限に、彷徨う二人をエルティスが見つけた。おそらくは気の向くままに普段行かない奥まで入り込み、道を失ってしまったのだろう。女の子は半分泣きべそで、男の子は気丈にも女の子の手を引いて何とか森を出ようとしていたのだった。
 どこを行けば彼らが目指す場所へ辿り着けるか、エルティスは知っている。せめて道だけ教えてあげられたらと思い、衝動的に二人の目の前に舞い降りていた。
 当然ながら突然姿を現した人影に二人は驚いていたが、男の子が庇うように女の子の一歩前に出たのを見たとき、エルティスは何故か笑顔を浮かべずにいられなかったのを覚えている。
 その光景は、エルティスに遠い記憶を思い出させたのだ。

 きっと、かつての彼と自分もこうして森を歩いていた。違うのは、たとえ陽が沈んでしまっても何にも怖くなくて、周囲に精霊たちがいて隣に彼がいれば平気だったこと。
 森の中に自分たちを脅かすものは何もなかったけれど、家に帰ってから親に散々怒られて、そのとき彼が庇ってくれたのだ。自分が彼女を誘って森の奥に行ったのだから、彼女は何も悪くないのだと。
 ちょうど、あの男の子が女の子を背後に隠したようにして。

 二人が無事に帰れたのはよかったのだが、その行為があまりよくなかったとエルティスが気付いたのは、それから間もなくだった。
 この森の外すぐには集落があるらしい。そのせいか、山菜や獣を求める人々や湖のほとりを溜まり場にしている子供たちがしょっちゅう出入りしているのだ。
 意識がはっきりしない間もエルティスはこの森の中を彷徨っていたようで、姿や消えるところを幾人にも目撃されていたらしい。気味悪く思われていたところにその二人の子供の話で決定的になり、大勢の人々が森の中に入ってきて探し回られたのである。
 子供を助けたから悪しきものとは思われていないようだが、エルティスも余計な騒ぎは避けるべく精霊たちに人が来たときは教えてもらい、姿を隠すようにした。そのせいかまた森の中を捜索されるようなことはなく、なんとか平穏に過ぎている。


(この格好じゃあ、怖がられても仕方ないよね……)
 樹に腰掛けたまま、波打つ銀の髪をひとふさつまんでエルティスは苦笑した。
<アレクルーサ>のすべてを受け取り、神の力に触れているエルティスは知っている。この銀の髪と不思議な光の宿る銀の瞳は、人ではなく神々に連なるものの証であることを。このふたつと、身に溢れる魔法の力のある限り、人には戻れないことも。

 思いをめぐらせている間にいつの間にか時間は過ぎてしまったらしい。子供たちの笑い声は遠ざかり、湖の周囲はまた静けさに包まれている。エルティスは風に乗り、ゆっくりと地面へ降り立った。
 土を踏みしめる感触が、確かに自分がここにいることを実感させてくれる。
 エルティスは空を見上げた。エルティス自身に何か影響を及ぼすわけではないが、エルティスが意識を取り戻してからは晴天が続いているようだ。木々の向こうには目に眩しいほどの青が広がっている。
 エルティスはそこに懐かしい人々を思い描いた。

 ずいぶんと会っていなかった姉夫婦。二人で協力し合って家事をこなしたお隣の小父さん。森の中で寝ているに違いない犬神。そして、決して忘れることなどない、今なお大事な大事な幼馴染み。
 ここがルシータとどれほど離れているかは知らないが、少なくとも繋がってはいるはずだ。
 同じ世界に、いるのだから。
「みんな、元気かな」
 あれからどれくらい時間が過ぎたのかわからないけれど変わらずあればいいと、エルティスは思った。


初出 2006.5.7


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