悠久の絆

第3章




 北に大森林を控えた城塞都市ハルサスで、デュエールたちは見事に雨に降り込められていた。
 隊商も雨が止むまではここに留まる予定だ。大都市で足止めをくったのが幸いだろう、商人たちも商売にいそしんでいる様子だった。
 この近辺は雨が多い地域なのか、考えてみれば前この辺りを通ったときも雨で足止めされたことをデュエールは思い出す。あの時も数日は降り続いていたはずだ。
 護衛としても平原を見張るよりは動きやすいためにデュエールたちは久しぶりに身体を休めていた。
 当然ながら雨であっても剣の稽古は休みにならないのだが。朝早く起きてルオンに指南を受けるのは、野宿をしているときと変わりはない。

 買い物を終えてデュエールが宿の入り口をくぐると、酒場兼食堂の片隅でルオンと一人の青年がテーブルを囲んでなにやら話していた。
 それを横目に見ながらデュエールは一旦自分の当てられた部屋へと戻る。
 荷物をまとめて、飲み物をもらうために階段を下りていくと、こちらを見つけたらしいルオンが片手を挙げてデュエールを呼んだ。話は終わったのか、先ほどまでいた青年は既におらずテーブルにいるのはルオンだけだ。
 デュエールは手だけで応じ、食堂でお茶を注文してからテーブルに向かった。

「何を話していたんだ?」
 椅子を引いて腰掛けながらデュエールが尋ねると、ルオンはにかっと笑って見せる。
「情報収集。探し物をしてる友人の為に何か有益なものはないか聞いてやってたんだろうが」
「別に頼んでないぞ」
「お、言うねぇ。もし俺がいい話をつかんでたらどうするつもりなんだ」
 デュエールは次の言葉を継げずに固まった。ルオンの顔にはからかうような笑みが浮かんだままだ。
 お待たせしました、と給仕の女性の声が割り込んで、デュエールの前にお茶が置かれた。立ち去ろうとした女性に向かって、ルオンは笑顔のまま飲み物の追加の注文をする。
「と、言いたいところなんだけどな、銀髪の女の噂はなかったよ」
「ルオン、お前……」
 向き直ってあっさり言った彼の様子にデュエールは一瞬得物はないか探しかけたが、ため息をつくだけに留めておいた。
 やっぱり話すべきではなかったかと後悔の念が脳裏をちらつく。

 アズマールからここまでの道中、デュエールは隊商の人々や護衛に雇われた面々からの情報収集を怠らなかった。異国から来た人、あるいは広い地域を巡り歩いている人たちだ。
 何か手がかりの片鱗となるものだけでもあればいいと動き回るデュエールに、ルオンが気付かないはずがない。当然ながら、デュエールも彼に尋ねているから。
 銀色の髪と銀の瞳を持つ人の話。
 あるいは何か普通では有りえない不思議な話。
 デュエールがあるものを探して旅をしていることだけは話したが、その詳細は伏せていた。それをルオンに直接尋ねられたのは、交代で夜番についたときのことである。

『一体誰を探してるんだ?』
 場合によっては手伝えるかもしれないだろう、労りを込めて言われた言葉にデュエールは相当な時間迷い、さらに相当な時間をかけて説明をした。夜盗が現れなくて幸いだと思うほどの時間だった。
 探しているのは自分の幼馴染みであること。
 色々事情があって故郷から姿を消したこと。
 渡すものがあるから、どうしても自分は彼女に会わなければならないこと。
 どこにいるか全くわからないこと。
 銀色の髪と瞳という、常人ではない姿をしていること。
 ルオンはデュエールの長く迂遠な話を真面目に聞き、自分の知っている限りの話を聞かせてくれた。残念ながら、エルティスに辿り着けるような事柄はなかったのだが。

 それ以降、デュエールが頼んだわけではないのだが、ルオンは出会う人々から話を聞きだしてくれる。
 話の中では伏せておいたはずの自分の気持ちもあっさり看破され、何か隙をついてはからかわれる羽目になるのだが、それでも彼の協力はありがたかった。
 ありがたいとは思うのだが、からかわれる瞬間は後悔の気持ちが過ぎるのは間違いない。

 デュエールは返答せずにお茶を飲む。何の反応もしないせいか、ルオンはあっさりとからかいの表情を引っ込めて少し考え込む様子を見せる。
「銀色の髪、なあ……」
 ルオンの知る限りでも、銀色の髪をした民族は見たことがないらしい。可能性があるとすれば、旅芸人の一座にいる派手な格好をした踊り手の女性となるが、それは実際に見たことのあるデュエール自身が否定した。
 あの髪の艶やかさは、染めたものとは違う。見ればわかる。あの銀色の輝きは、半年以上過ぎてなお鮮明にデュエールの瞳に焼き付いているのだ。彼女が零した涙と一緒に。
「いいさ、そんなにすぐに見つかるとは、思ってない」
 少なくとも、犬神から彼女に二度と会えないかもしれないと聞かされたあの時の落胆に比べれば何のことはないのだ。
 真面目な表情で沈黙したルオンを見て、デュエールは呟いた。
 




 今日は空気がいつもと違う。
 木々のざわめきを聞いて、湖のほとりに立ち止まったエルティスはそう思った。ここ二、三日は森へ出入りする人がぱたりと途絶えていた。外で何かあったのだろうか。
(……何かあれば、風霊が教えてくれるかな)
 そう考えて、エルティスは再び土を踏みしめて歩き出す。彼女はすっかりここがお気に入りの場所となっていた。森の外の人々の合間を縫ってはここへ降り立ち、思い出を遊ばせる。

 想い出は時に鮮明な幻となって、記憶の中の光景と今の景色とを重ねてみせるのだ。
 あのほとりで二人、昼下がりに寝転がって昼寝をむさぼったこともある。夏の生い茂った草むらの中でかくれんぼをしたこともある。晴天の真昼に二人で悲しみを分け合って泣いたこともあった。
 すべての想い出は今なお優しくエルティスの心に蘇り、彼女を優しく包んでくれる。
 湖のほとりを時間をかけてぐるり巡りながら、エルティスはルシータでの記憶を懐かしく思い出していた。
 離れ離れの時間が多くなってからは、こんな風に湖を一人で訪れることもあった。彼が仕事を終え帰ってくることがわかれば、一番最初にその目に映るために街の入り口で待ち伏せたりもした。久しぶりに見た顔が驚きのあと笑顔に変わるのを見るのが、何より嬉しかった。

 水面に降る穏やかな日差しは、数日の異変にも変わりがない。エルティス自身には既に時間の経過は意味がないが、それでもまるで時間が止まったような気がする光景だ。
 好き勝手に空中を舞い遊ぶ精霊たちの中で、一目散にこちらへ向かってくる者を見つけて、エルティスは訝しげにそちらを見た。伝わってくる言葉に、さらに眉をしかめる羽目になる。
「誰かが来る……?」
 見たことのない人だと、精霊は告げた。少なくとも普段森に出入りする人々ではないということだ。精霊たちはあまり人間一人一人を区別することはないが、特に気に入った者のことはきちんと覚えている。この森の中にいる精霊にはエルティスからよく伝えてあった。
 誰が?
 エルティスは精霊が飛んできた方向を見つめる。そちらが森の出口で、集落がある方向なのは確かだ。
 集落の人間であろうと、外部の人間であろうと、姿を消すべきなのはエルティスも頭ではわかっている。
 それなのに、何故か足が動かなかった。
 むしろ慌てているのは周囲の精霊たちの方だ。いつもは人間が来るとわかれば即座に隠れる彼女が動かないのだから当然だろう。

 風霊が気を遣って遠くから響く音を伝えてくれる。土を乱暴に踏みしめて、誰かがこちらに近付いてくるのは間違いない。頻繁に混じる小気味いい音はおそらく道に張り出した枝を折るか切るかする音だ。それに気付いてエルティスはかすかに眉をしかめる。
 集落の人々が毎日のように出入りしてそれ相応に道はできているだろうに、ずいぶんとした態度の来客だと少し怒りを込めて呟いた。
「森に対する礼儀のなっていない人ね」
 考えてみれば彼女の知るルシータの神官たちも躊躇いなく森に火をつけたのだった。脳裏にちらついた火の色に、エルティスはさらに気分が不快になる。場合によってはそれなりの制裁を加えたいくらいだった。
 音の源は徐々に近付いてくる。エルティスは完全にそちらに正面を向けて待っていた。

 木々の陰から黒い影が三つほど現れ、その場で立ち止まる。その姿を見て、エルティスは予想通りだと思った。
 旅装束に身を包み顔だけを覗かせた長身の男たちだ。エルティスが検分する前に、一番背の高い真ん中の男が両隣の二人に何事か告げた後、彼女に向かって歩いてきた。
 エルティスの記憶にある男性の誰より背が高く、鍛えられた体躯をしていた。右手には長剣を持っており、おそらくはこれで枝を切り落としてきたのだろう。男はこちらを眺めるとふと口の端に笑みを浮かべた。
 何か嫌な感じだと、エルティスは思った。何故かと考え、それが男の放つ傲慢そうな態度のためだと気付く。そもそもエルティスへ向けた視線もどこか見下すようなものだ。
 エルティスまで数歩の距離で足を止めると、男は簡潔に言った。
「<アレクルーサ>だな」

 その言葉にエルティスは身体を強張らせた。彼女の異名であるそれを知っているのは、名付けたルシータの民だけのはずだ。しかも神殿に仕える神官級の者だけ。外部に漏れることはないはずだ。その存在は、ルシータの権力を危うくするものだから。
 しかし、その男が投げかけた声は、確認や疑問ではなかった。彼女がそうであることを確信した上での呼びかけだった。
 エルティスは極力無表情でその男を見る。エルティスの見知った顔ではなく、少なくともルシータの民ではない。
「何故その名を知っているの」
 その男はエルティスの返事を聞いてにやりと笑う。やはり何か気に入らないとエルティスは心の片隅で思い、うっかりしていた自分を窘めた。これでは完全に肯定したことになる。

「探していたぞ、私に奇跡を呼ぶ娘よ」
 男はそう言うと、エルティスに向かってその右手を差し伸べてきた。相変わらずこちらを見下した口調は変わらないが、その言葉はひどく優しくエルティスの心に響いてきたのだった。
(探していた……?)
「私を?」
「そうだ、私にはお前の力が必要だ」

 見知らぬ男だ。しかもこちらをずいぶんと下に見た物言いの。かつてルシータでこんな口調で言われたときは、思い切り睨み返してやったものだった。
 普通は警戒するだろう。
 しかし。
 探していた、という。
 エルティスの力が必要だ、という。

「私の力が何なのか、わかっているの?」
 エルティスは訝しげに尋ねる。辺りの精霊たちがざわめいているが、どうしてか内容まで聞き取れなかった。目の前の男に意識を集中すると、あっという間にその喧騒も遠退いていく。
「この世の誰よりも強い魔法の力だろう。私にとってはそれで充分だ」
 エルティスは自分の心臓の鼓動を一度だけ聞いた。 
 たぶん自分はそんなことを言って欲しかったのだろうとエルティスはぼんやりと思う。その言葉の優しい響きに抗えなかった。
 差し伸べられた手に自分の手を乗せると同時に鳥の飛び立つ音が聞こえ、エルティスはここが森の中だったことを思い出す。
 男の手は、思っていたよりもずっと温かかった。



 言って欲しかった。
 ―――誰に?

 もう二度と逢えないだろう、あの、優しくて懐かしい声で。


初出 2006.5.22


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